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What name

※中国語版の名前ネタを含みます

 自分の家よりも捗りそうだから、という理由でシンのところに『襲撃』し、ソファーにも座らずカーペットに腰を下ろしてローテーブルにノートを広げる。
 ハンター協会の試験が迫っている。合否を判定するものではなく、点数が低いからといってハンター資格を剥奪されたりはしないが、査定に響く。
 シンの基地は思った通り快適だ。誘惑はあるが、すぐそこで武器の手入れをしている『ボス』が私を見張っている。ノートの内容自体は見ていないようだが、私が居眠りしたり、立ち上がってふらふらしようものなら、すぐに所定の場所に戻されるのだ。
 とはいえずっと集中していると疲れてくる。休憩がてら、私はノートの隅に落書きをした。そこにシンの名前を書こうとして、ふと思ったことを尋ねてみた。
「『シン』ってSなの?」
 銃の部品を磨く手が止まる。いつまでも返ってこない答えを促すように振り返って見上げれば、シンは片眉を上げた。
「俺がMに見えるのか?」
「え? いや、さすがに違うと思うけど……」
 だって『シン』だし、『S』でなければ『X』か『Q』だろう。と思ったが、最後までは言わなかった。そのせいであらぬ誤解が生まれているとも知らずに。
「どちらかと言えばS寄りだと思っていたが……お前はどう思う?」
 指先で顎を撫でられ、軽く掬われる。猫のような扱いをされるのにも慣れてしまった。
「S寄りって?」
「お前は俺にどっちに傾いてほしい?」
「寄りって何?」
「お前が望むものになろう」
「私が望めばあなたの名前が変わるの?」
 どうにも噛み合わない会話に、お互いに首を傾げる。シンは今度は自分の顎に手を当てて、これまでの会話を思い出すように逡巡していた。それでも答えは導き出せなかったようで、もう一度だけ不思議そうに口を開く。
「俺の性的嗜好を聞いてきたんじゃないのか?」
 その言葉に、私はようやく自分の失敗を悟った。確かにあの聞き方では、嗜好を聞いてると思われても仕方がない。
「イニシャルを聞いてたんだよ!」
 恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
 納得したらしいシンは顎から手を放し、ローテーブルに置いたままのノートを持ち上げた。慌てて阻止しようとしたが抵抗も虚しく、私の手をすり抜けていく。内容を見て、鼻を鳴らして笑った。
「勉強をしてたと思ったんだがな」
「ちょっとした息抜きだよ」
 私の渾身の落書きを見られてしまった。とはいえ今度は自信作だ。どう、と胸を張ると、シンはあからさまに大きな溜息をついた。
「お前には俺がこう見えてるのか?」
 三白眼ぎみのツリ目に、悪魔のような角と翼を生やした『シン』を指差す。上手くデフォルメに落とし込めたと思う。
「たまにね。少なくともあなたと相対した人にはそう見えてるんじゃないかな」
 敵対する相手に対してはどこまでも冷酷で、無慈悲で、強欲だ。私も最初はそう思っていたし、その片鱗も身をもって味わった。今にして思えば、シンは最初から私にはだいぶ温情をかけてくれていたようだけど。
 シンは呆れながら私の手からペンも奪い、『シン』の横に淀みなく走らせた。彼自身の見かけによらず可愛らしい絵を描く。まんまるくデフォルメされた顔に、顎より長い髪。私かな、と期待したのも束の間で、その頭には猫の耳が生やされ、額には不機嫌そうな眉毛が描き足される。
「それ、なに?」
「お前だが?」
 さらにその横に、私の名前を書いた。相変わらず達筆だ。慣れるまでは読めなかった。
「あなたには私がこう見えてるの?」
「ああ、いつもな」
「全然似てないよ!」
 手を軽く握って殴りかかると、シンは笑いながらノートを盾に躱された。そのノートを私の目の前に翳し、見比べる。
「そっくりだ」
 ふん、と抗議の声を上げながら、シンの隣に腰掛けた。ずっとカーペットに直に座っていたから、久しぶりのソファーに体が沈む。
 シンは私の手元にノートを戻しながら、もう一度ペンを走らせた。私が描いた『シン』の絵の横に、流れるような文字で『Qin』と書き足される。
 勢いよく顔を上げると、穏やかに微笑みながらも、ペンの反対側で額を小突かれた。
「満足したか?」
 ペンを受け取り、その名前を凝視してしまう。シンが自らの名前を書いただなんて、とんでもなく貴重なものなんじゃないだろうか。
「私がこの『署名』を悪いことに使うとは思わないの?」
「名前なんてただの記号だ。都合が悪くなれば変えればいい」
 なんともシンらしい答えだ。実際、彼は『都合』によっていくつも名前を使い分けている。真実の顔と名前を知っている存在はきっと限られているのだろう。その数少ない一人であるという優越感に浸りそうになる前に、シンはまた私の顎を掬い、指先で唇をなぞった。
「それに、お前が望むなら名前を変えてもいい」
「どうやって?」
「また別の偽名を作ってもいいし、どうにか養子縁組を結んでもいいな。それから……」
 顎から離れたシンの手が私の左手を持ち上げる。薬指にキスをされて、その二つ以外の『名前を変える方法』を察した。途端に顔に熱が集まる。それが一番、私が望む方法だとシンはわかっているのだろう。
「だが、俺は『シン』がいい」
「自分の名前だもんね」
「お前がつけてくれた名前だからな」
 私が知る前から、彼は『シン』だった。もし私にとって朧気な、臨空に来る前のことを言っているのだとしても、私より年上である彼の名前を私がつけたなんてことがあるはずない。
 意味がわからないまま首を傾げると、シンはなんでもないかのように軽く頭を振っただけだった。

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