merry
tiny
あの人、来ねーなあ。
行き交う人、時々立ち止まる人を眺めながら、そんな風に思っていた。
あんな人、一度見たらもう見落とすはずねーと思うのに。
先週の話。
毎週木曜はここで歌うと決めてから、数度目の木曜。
立ち止まる人、ただいるだけの人、通り過ぎる人、耳を塞ぐ人。
そんな人をぼんやり見ながら、俺は歌っていた。
時間帯が時間帯だからか、会社員が多い。
遊び疲れた人や、酔っぱらった人も時折いる。
そんな中で、その人に目を引かれた。
一日仕事をしたあとだというのに、きっちりと整えられたスーツ。
切り揃えられた髪。
とても几帳面な人なのだろうと思った。
ご丁寧に、顔まで綺麗に整っている。
綺麗すぎて、人形じゃないのかと思うほどだった。
その人が、ふと俺の前で立ち止まった。
音楽に、ましてやこんな道端の歌に気を留めるような人には見えなかったが、綺麗なその人に見つめられて、ドキッとした。
顔が綺麗でも、男だというのは見てすぐに分かった。
線は細いが、体格はまさしく男のそれだ。
だからこれは別に一目惚れとか、そういうものではきっとないのだ……と思う。
顔もだけど、その人の纏う雰囲気が綺麗だと思った。
どこか儚げで、目を離したら消えてしまいそうな。
すると、彼は突然、目からぼろりと大粒の涙を零した。
思わず演奏の手を止めて、大丈夫かと駆け寄りたくなった。
だがそうするより早く、その人はそそくさと駅の中に消えていった。
不謹慎だが、泣いた顔さえ綺麗だと思ってしまった。
その日はずっとその人のことで頭がいっぱいで、他にどんな人がいたとか、自分がどんな歌を歌ったかなんて頭の中には残らなかった。
そのあと、トイレの前でその人に遭遇して、来週も来てくれ、と半ば強引に約束を取り付けた。
その人は何も答えずに、反対方向の電車に乗って帰って行った。
その『来週』が今日だ。
今日も来てほしい、というのはただの俺の希望で、あんな口先だけの約束なんて守られるはずはないと思った。
ましてや、彼は来るとは言わなかったのだから。
それでも、俺はなんとなく彼に会いたかった。
気になって仕方なかった。
泣くぐらい辛くて、悔しくて、それでも誰にも打ち明けられずにいたことは、俺にもあった。
だから、何か力になれるんじゃないかって。
行き交う人々の中に、結局彼の姿はなく、俺は予定通り歌い終えて機材を片付けた。
きっと先週はたまたまこの駅を使っただけだったのだろう、とか。
先週とは違う雰囲気を纏っていて、気付かず見落としたのかも、とか。
そう思っても、ギリギリまで待ちたいと思う気持ちは抑えられなかった。
駅前の花壇にギターケースを抱えて座って、道行く人々をぼーっと眺める。
どんどんと時間が進み、やがて駅に来る人も少なくなってくる。
終電も近い。もう諦めてそろそろ帰ろうかと腰を上げかけた時、向こうから線の細い男が歩いてきた。
仕事終わりだというのに、スーツはやっぱり着崩れていない。
思わず、あっ、と呟くと、彼は俯いていた顔を上げた。
彼は俺を見るなり、怪訝な顔をした。
「来ねーかと思った」
俺は先週と同じように、勝手に彼に並んで歩き出した。
違うことと言えば、帰ろうとする彼を思わず引き留めてしまったことくらいだった。
その後、眠れないという彼の傍らに座って、一曲だけ歌った。
一曲歌っただけで、彼はすっかり眠っていた。
作業に戻ろうかと思い立ち上がろうとすると、つんと服を引っ張られた。
「……え」
見てみると、布団から僅かに手を出して、俺の服の裾を抓まんでいる。
困った、というよりも、可愛い、と先に思ってしまった。
相手も男だ。充分にわかっている。
それなのに可愛いだなんて。
「……柴田さん」
さっき教わったばかりの彼の名前を呟いて、髪に手を滑らせる。
細くて柔らかい。絹糸みたいだ、と思った。
こんなに綺麗な人なら、笑ったらもっと綺麗なのに。
彼は笑うどころか眉間に皺を寄せるばかりで、勿体ない。
しばらく髪を撫でていると、彼は小さく声を上げて体を捩る。
起こしてしまったかと思ったが、そんなことはないようだった。
ただその拍子に、俺の服を掴んでいた手は離れてしまった。
名残を惜しみながらリビングに戻ると、不用心に置かれた彼の鞄が目に入った。
そもそも彼は不用心だ。引き留めて連れ込んだ俺が何を言う、とは思うけれど。
こんな風に鞄を置きっ放しにして、財布でも盗られたらどうするんだ。
人のベッドで簡単に眠ったりして、寝込みを襲われたら。
普段からあんなにぼーっと歩いていて、誰かに攫われでもしたら。
そこまで考えて、辞めた。
彼を攫うのなんて、俺だけでいい。
綺麗な彼は、俺だけが知っていればいいのだ。
それはさて置き、彼の下の名前がどうしても気になった俺は、ついその鞄に手を伸ばしてしまった。
名刺のひとつくらいはあるだろう。
そうでなければ、運転免許証や保険証。
悪用するわけじゃない。名前が知りたいだけ。
だから犯罪じゃない。
そう自分に言い聞かせて、鞄を漁った。
名刺ケースはすぐに見つかった。
彼らしい、何の装飾もされていないシンプルなもの。
心臓が煩いくらいに鳴る。
震える手で名刺ケースを開くと、一番上に彼のものと思しき『柴田』という名刺が入っていた。
そこには印刷された字で『柴田勝家』と書かれていた。
勝家。彼の名前。
思っていたよりも男らしい名前だ。
名は体を表すとは何だったのかと思うほどに。
名刺なら一枚くらい盗んでもバレないだろうと、一番上の一枚を拝借した。
「勝家」
静かに彼に近づいて、寝てる彼にそう囁いてみる。
悲しいくらい彼は無反応だった。
「勝家」
「は、い……」
もう一度呟けば、彼は目を閉じたまま返事をする。
驚いてその場から離れるが、起きたわけではないらしかった。
そこでやっと、自分がしでかしたことを知った。
盗ってしまえば、これはもう立派な犯罪だ。
心臓が煩いのは、きっとそのせいだと、この時はまだ思っていた。
この胸の音がもっと別の意味を持つと自覚するのは、もう少し先の話。
今はただ、早く彼の名前を呼びたかった。
彼が名乗ってくれなければ、堂々と呼べない。
早く名乗ってほしい。自分は柴田勝家だと。
その一言さえあれば、俺は彼の名を呼べるのだから。
昔からの友達のように。
あるいは家族のように。
あるいは恋人のように。
俺はその日が来るのを心待ちにしながら、彼が眠るベッドに背中を預けて、名刺に唇を寄せてみた。
「勝家」
目を閉じてもう一度だけ呟くと、左近、と笑いながら俺の名を呼ぶ彼が、瞼の裏に見えた気がした。