merry
letter
あの方が好きだった。
烏の濡れ羽の如く艶めく黒髪も。
春の雪のように消えそうなほど白い肌も。
薄く血を湛えた紅い唇も。
その全てが愛おしかった。
誰の手にも届かないほど清らかなあの方。
私ならば届くと思っていた。
それが甚だしい勘違いだとは気付かずに、あの方の兄であるODA社の代表のところへ意気揚々と乗り込んだ。
その結果がこれだ。
私の失態は即座に社内中に知れ渡ることとなった。
身の程知らずもいいところだ、あの方には婚約者がいたというのに、それも知らずに、とどこへ行っても人の小さな声が聞こえていた。
「公は慈悲深きお方ですよ」
直属の上司に呼び出され、そう告げられる。
「解雇では貴方の立場が悪いだろうからと、貴方が社を見限って自ら辞めることにしてくださると。傘下の社に紹介までしてくださるようですよ。よかったですね、勝家」
『辞めろ』と言われているのは明白だった。
そうでなくても、これだけ影口の飛び交うところで働き続けるのは心が折れた。
私はすぐさま辞表を提出し、ODA社傘下の中小企業へと移った。
ODA社から流れてきたとあっては、そこの社員の好奇の目が向くのは当然だった。
何故辞めたのか、やら、何故こんな小さな会社を選んだのか、やらと根掘り葉掘り聞かれる。
「大企業は、思いの外やりにくかったもので」
余計なことを喋らないようにと、それだけを答える。
「それよりも、私にはあまり期待しないで頂きたく。K大卒でODA社に入社したとは言え、数年で辞めた程度の男です」
そう言えば、好奇の目はますますこちらを向いた。
辞めさせられたのではないか、という発言まで飛び出すようになった。
事実だったが、自分からそれを肯定することはしなかった。
辞めさせられたのか、と直接聞いてくる人も流石にいなかった。
私にはまだほんの一欠片の矜持は残っていたようだった。
一か月ほど経った頃、ODA社の社員が、仕事を持ってきた。
「柴田勝家と申します……」
「えっ、柴田さん?」
相手は私を知っているようだった。
そういえばこんな男もいたかもしれない。
ODA社にいた頃、年上の部下だった男はたくさんいた。
きっとそんな男の一人なのだろうと自分の中で納得した。
「これをお願いしたいんです。期間は二か月で」
「二か月で……これを?」
どう転んでも無理な話だった。
最低でも半年は欲しいような案件だ。
そう告げると、その男は鼻で笑った。
「できないんですか?あんた、エリートのくせに」
男の態度に苛立ったが、今となっては自分の方が立場は遥かに下だった。
できないと断って、他の社に仕事を持っていかれてはたまらない。
そう思い、渋々その仕事を請け負った。
自分が寝る間も食べる間も捨てて進めれば、二か月でも終わるかもしれない。
そんな甘い考えだった。
それを自社に報告すれば、何故請け負った、だの、せめて期間を延ばせなかったのか、だのとお叱りを受け、その都度私が責任を取れば問題はないはずだと返していた。
多くを望まず、ただ与えられたことだけをこなし、できるだけひっそりと過ごしていようと思っていたのに、私にはそんな生き方はできないようだった。
一か月が過ぎた頃、予定ではそろそろ半分が終わっているはずだったが、経過は芳しいとは言えなかった。
そんな折に連休が入り、休日はサーバーを止めるからお前も会社に来るなと告げられた。
それが休めという上司の優しさだとは気付かずに、莫迦な私は環境の整った喫茶店で、自分のノートパソコンを持ち込んで、ひたすらに仕事をしていた。
仕事用のパソコンではないのだから、できることは限られている。
けれど、最低限できることを。
店員や周囲の客から見たら、やつれて頬はこけ、目の周りを黒くして、それでも一心不乱に画面を見つめる私はさぞ奇怪だっただろう。
やがて、隣に二人組の男が座った。
隣と言っても、ある程度の高さのある薄い仕切りを隔てている。
声は聞こえるが姿は見えない。向こう側からも然りだろう。
「うちの会社にさー、柴田勝家っていたじゃん」
隣から聞こえてきた会話に、ふと聞き耳を立ててしまった。
その声は、最近何度もやりとりした、ODA社の担当の声だった。
「あー、いたいた。あの人、今小っちゃい会社にいるんでしょ?」
もう一人の声にも聞き覚えがある。
担当の男と同じ、かつて同僚か部下かなにかだったのだろう。
「それがさ、俺今一緒に仕事してんだよね」
「え、マジで? どう?」
「前と全然違うよ。覇気がないって言うか。やっぱ、ショックだったんじゃない」
「あーやっぱり」
人の気も知らずに、勝手なことをと思ったが、あながち間違いでもない。
ショックだったからこそ、今はこうしてひっそりと身を潜めているのだから。
「どう考えても半年はかかるだろ、って仕事なんだけどさ。光秀様が『二か月で仕上げろと言ってごらんなさい』って言うから、言ってみたんだ。そしたらあいつ、二か月でやるって了解しちゃって」
「うっわ、ひでー」
「流石にやりすぎたと思って、光秀様に相談したんだ。そしたらさ、『本人がやると言ったのだからやらせなさい。できなければ責任を取らせれば良い』って。このままじゃ終わんなそうだし、あいつどうするつもりなのかなー」
自分の中からじわりと熱いものが込み上げてきて、慌てて拭った。
素直に悔しいと思える自分がいたことに驚いた。
私はノートパソコンを閉じるとそそくさと席を立って、店を出た。
背後から「今のって柴田勝家じゃなかった?」「やば、聞かれたかな」という言葉が聞こえた。
プロジェクトの納期を伸ばすとODA社から連絡があったのは、それからすぐのことだった。
とりあえず半年に伸ばす。それでも終わらなければまた連絡してくれと。
もし半年で終わらなければ、きっと他の社にこの仕事は回されるのだろう。
私は文字通り不眠不休で仕事を進めた。
半年と言われたが、結局四か月でその仕事を納めた。
ODA社からも、自社の上司からも何も文句は出なかったから、これで良かったのだと安堵した。
仕事を終えてから三日間、休暇を貰って泥のように眠った。
三日間眠り続けても足りなかった。
休暇を終えて会社に行くと、もう次の仕事はあった。
私に休むことなど許されないのだと知った。
助けてほしかった。救い上げてほしかった。
誰でもいい。色褪せた世界から、私を救い出してくれる人。
黒い泥に塗れた私の手を引いて、導いてくれる人。
大丈夫だと笑ってくれる人。
よくやったと労ってくれる人。
そんな誰かが欲しかった。
そんな人は誰もいなかった。
きっと、私の前にはそんな人は現れないのだと悟っていた。
左遷されて小さな会社に移ってから半年ほどが過ぎていた。
なんとか定時に仕事を終えられたその日も、暗く沈んだ気持ちで駅に向かっていた。
その日はいつもと違い、駅前で歌う青年の声が聞こえた。