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merry

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他人との共同生活は面倒だ、と思いつつも、何やかや1年が経った。
二つ並んだ歯ブラシにもすっかり見慣れた頃。
「は? 何、急に」
仕事から帰ると、キッチンで夕飯を拵えながら、彼がそんな話をしていた。
ただいま、と言えば、電話口の相手に聞こえないよう小さく、お帰り、と返される。
「いや、そりゃあ歳は歳だけど、」
電話から歳のいった女性の声が僅かに漏れる。
恐らく彼の母だろうか。
鞄をソファーに置き、スーツのジャケットをかけようと、ハンガーを手に取った。
「だから、する気なんてないって……はぁ!? お見合い!?」
その言葉に、思わずハンガーを落としてしまう。
ガシャン、と大きな音がして、彼が驚いた顔でこちらを見た。
「……すまない」
口では謝りつつも、頭の中は今の話でいっぱいだった。
確かに、自分も彼もそれなりの歳だ。
親に結婚の心配をされるのもわかる。
自分は親とは疎遠になってしまったから、今更そんな心配もされないだろうが、彼はそうではないらしく、時折連絡を取っているようだった。
彼は早口で電話を切ると、深くため息をついた。
鍋が噴きこぼれそうになって、慌てて火を弱めている。
「……結婚しろってさ」
何を返したらいいのかわからず、黙りこくってしまう。
もし立場が逆だったから、きっと彼はうまいこと言ってくれるだろうに。
こういう時、口下手な自分が嫌になる。
「母一人、子一人だったからさ。心配されるのもわかるけど」
「……そう、なのか」
「あ、別に重い話じゃねーよ? 母子家庭つっても、ドラマみたいにカツカツの生活してたわけじゃねーし。まあ、母さん仕事人間だったから、寂しくはあったけど」
彼が家事が得意なのはそういうことだったらしい。
きっと子供の頃からずっとやっていたのだろう。
家事をしながらでも立派な大学に入るほど勉強して、立派な商社に入社できるほどなのだから、彼は自分の何倍も努力家なのだと思った。
だからこそ、素敵な女性と結婚してほしいと、彼の母が思うのも頷ける。
「お見合い、するのか?」
「うーん……」
しない、と即答してほしかった。
それなのに、彼の返事はどこか迷いがあるものだった。
お見合いなんてしないでくれ、と強く言えたらいいのに。
「とりあえず、会うだけ会ってみるかな。向こうは乗り気だし。今度の連休、ちっと地元まで行ってくるわ」
「……そう、か」
それだけ返すので精一杯だった。
自分でもわかるくらい動揺している。
その後、いつものように彼がつくった食事を食べたが、味がわかるはずもなく。
逆に「今日のは不味かった?」と、彼にいらぬ気遣いをさせてしまって、また後悔した。

週末。
彼は、一泊くらいはしてくる、と土曜日の昼頃から出かけて行った。
彼がいなくなると、途端にこの家は広い。
いつもは二人で談笑して過ごす短い週末も、有り得ないほど長く感じる。
居心地が悪くなって、自分の部屋に籠ってひたすらパソコンに向かった。
何をするでもない。
慣れ親しんだプログラムを打ち込んでは、消す。
今の会社に移ってから、家に仕事を持ち帰ったことはない。
今日だって、何も持ち帰ってはいない。
だから、こんなのはまるで意味のない行為だ。
ただひたすらに文字を打ち込んでプログラムをつくる、これは何の意味も為さない。
そもそも、ごく一般的な性能のこのパソコンでプログラムなどつくれるはずもない。
それでも、一心不乱に手を動かした。
仕事をしている時が、彼といる時の次に、時間を短く感じられた。
家を出る前、彼にしっかり食べろよ、と言われていたが、一人では何もつくれない。
かと言ってコンビニの弁当など食べたくはないし、行くことすら億劫だ。
一日や三日くらいなら死にはしないだろう。そもそも自分は食べることに関してそこまでの執着はないのだ。
しっかり食べろと言った彼の言葉は、自分のそういうところを見越しての発言だったのだろうが。
土曜の夜、そろそろ眠ろうかとベッドに潜り込んではみたが、すぐに目が覚めた。
彼のお見合いがうまくいって、自分が置いて行かれる夢を見た。
情けないことだ。こんな夢で泣くだなんて。
そう自嘲して眠ろうとしたが、またさっきの夢の続きを見てしまう気がして、眠れなかった。
結局その後は一睡もできず、朝を迎えた。
彼が帰ってきたのは日曜の夜、日付が変わる頃だった。
一番に彼に会いたくて、リビングのソファーの上で待っていたが、流石に舟を漕いでいた時だった。
「ただいまー……って、勝家、起きてたのか」
「……お帰り」
彼は帰ってくるなり、冷蔵庫の中とゴミ箱をちらりと見て、それから驚いたように振り返った。
「もしかしてあんた、何も食べてないわけ?」
「食べる気が起きなかった」
「しっかり食えって言ったのに!」
彼はスーツケースを放り出すと、ソファーの上に並んで座った。
頭に軽く手を置かれて、引き寄せられる。
突然だったことと、抵抗する気力がなかったことで、そのまま彼に寄り掛かるかたちになった。
「それで、どうする。私はいつ出て行ったらいい?」
「え、いや、結婚しねーし。……って、怒ってる? じゃなきゃ、拗ねてるか妬いてる」
「そんなことは……」
「いーや、絶対怒ってるね」
こっち見てよ、と言われるままに目を向けると、彼と間近で目が合ってしまう。
逸らそうと思っても逸らし切れずに、目線が泳ぐ。
「ちゃんとこっち見て」
話すから、と言われて、再び目線を絡めた。
「ちゃんと断って来たよ。俺には付き合ってる人がいるから無理ですって。色々あって結婚はできないけど、それもわかった上で一緒にいるって。同棲してる、まで言ってきた」
「な……相手はいいのか。乗り気だったのだろう」
「そ。もうちょー乗り気。なのに俺がそんなこと言うもんだから、冷やかしかってブチギレてさ。ほら、ここ、引っ叩かれた」
見ると、確かに左の頬が赤くなっている。
それでも大分赤みは引いたと言うのだから、かなりの力で叩かれたのだろう。
「母親にもちゃんと話したよ。流石に、相手は男です、とまでは今は言えなかったけど。同棲してる恋人がいるってとこまでは納得してもらった」
「ならばもう、見合い話を持ってくることはないか」
「多分な」
よかった。あんな思いをするのは、もうたくさんだ。
「……すまない」
「何が?」
小さく小さく、懺悔の言葉を呟く。
呟いたところでどうにもならないが。
「私が女だったらよかった。けじめもつけられただろうに。幸せな結婚だってできたかもしれないのに」
「別に、そんなこと」
彼は笑う。その笑う声に、ひどくほっとする。
「そんなこと気にしてねーし。それに、結婚するばっかが幸せじゃねーよ? 現に俺今、すっげー幸せ」
そう言われると安心する。
安心したら急に眠くなって、彼に頭を抱えられたままうとうとし始めた。
「無防備に寝ちまっていいの? キスしちまうかも」
「構わない。お前になら、何をされても」
目を閉じたままそう答える。
彼は時折そんな風に言ってはくるが、実際にしてきたことは一度もなかった。
しばらく待ってはみたが、やはり唇が触れることはなかった。
「しないのか?」
「う、ん……」
しないならしないでいい。
彼がすること、あるいはしないことに、異存なんてあるはずもない。
「左近」
名前を呼ぶと、なに、と返事が返ってくる。
ひとつ小さく深呼吸をして、言いたいことだけは言わせてもらおうと口を開いた。
「私は、怒ってなどいない。拗ねても妬いてもいない。ただ、寂しくはあった。お前がいない間も、お前がいなくなる日を考えても。それだけだ。私は、私やお前が思っているよりずっと、お前が大切で、必要らしい」
そう言ってみると、抱えられた頭を更に強く抱き寄せられた。
そして、額に彼の唇が、ふわりと触れる。
意気地がない、と内心笑いながら目を開けると、すぐ目の前に彼がいた。
真っ直ぐな目。
これは本気なのだろうなと、その目を見つめ返す。
頭から髪、耳、頬へと、彼の骨ばった指が滑っていく。
言われるままに目を閉じると、閉じた目尻を指先で撫でられた。
彼が近付いてくる気配がする。
心臓が煩い。
自分の心臓は、こんな音を出すことができたのかと驚いた。
ほんの数秒、息が止まる。
その数秒の間に、一瞬だけ唇が触れ合った。
目を開けるとお互いに気恥ずかしくて、どちらともなく噴き出した。
「っあー、緊張したー!」
「……私もだ」
今までこんなに緊張することなんてなかったはずだ。
けれど、悪くない。
ただのキスひとつで、こんなに幸せな気持ちになれるなら。
彼といると、初めてのことばかりで新鮮だった。
「明日さ、祝日で休みだろ。どこか行こうかと思ってたけど、一日中家でまったりするのも悪くねーかな。あんた眠そうだし。な?」
「そうだな」
部屋に戻るのは億劫だった。
何より、今日は彼の気配に、彼の匂いに溺れていたかった。
もうここで寝てしまおうと決めて、彼に体を預ける。
「それがいい」
翌日、目を覚ましたのは二人揃って昼過ぎで、それから夜寝るまで、ずっとソファーの上で過ごした。
何気ないこんな日常の一日、しかし暖かいこんな日々が、これからも続けばいいと思う。

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