merry
bless
他人との共同生活というのは、思いの外面倒だった。
まず条件に合う部屋がなかなか見つからなかった。
運よく見つかっても、男の二人暮らしと知ると断られたり、変に勘繰られたりする。
漸く部屋を決めて新居に移り住んでみたが、ひとつ屋根の下で暮らすとどうしても相手に気を使う。
何より、洗面所に二つ並んだコップや歯ブラシ、角ハンガーに一緒に干された洗濯物を見ると、どうも落ち着かない。
揃って会社員だから、生活リズムが合うというのは唯一よかったと思える点だった。
それでも、残業などで遅くなる日もやはり多い。
今日も『残業で遅くなる』と彼からメールがあった。
ただいつもと違い、『今日はマジで遅くなるかも。悪いけど晩メシは自分で一人で食べてて』と続いていた。
自分も残業があった。家に着くのはかなりの時間になるだろう。
帰りがけにコンビニでサラダとゼリー飲料を買って、鍵を開けて家に入る。
暗い廊下を素通りしてリビングだけ照明のスイッチを入れて、テーブルの端に座った。
一人で生活していた頃は食べないことも多く、食べたとしてもこういう類のものばかりだった。
久しぶりに食べるゼリー飲料は味気ない。
何やかや、彼のつくる食事は好きだった。
食べ過ぎではないかと心配したら、彼は『まだ少ない。大体あんたは食べなさすぎなんだって』と笑っていた。
いつもは彼を待つのだが、今日はかなり遅くなると連絡があったので、さっさと風呂に入って寝てしまおうと、空になった容器を捨てて浴室に向かった。
彼は湯船に湯を張るのが好きだが、自分はシャワーだけで充分と思い、いつもそうしていた。
まだ同居をしていなく、彼の家に通っていた冬場、やはり同じようにそうしていたら『体が冷えるからちゃんと温まったほうがいい』と言われたことがあった。
結局それは『好みの問題』ということに落ち着いて、今では何も言われなくなったが。
手早くシャワーを浴びて脱衣場に戻ると、ドアが開く音と「ただいまー」という声が聞こえた。
思っていたより早かった。
彼はリビングに人がいると思ったのか、大声で話しかけていた。
「思ったより早く終わってさ。急いで帰ってきたから汗すっげーの。先に風呂いい?」
脱衣場の扉を開けるなり、彼は「あ」と呟いて固まった。
表情が固まった彼と目が合う。
「すまない、先に入らせてもらった」
「あ、ああ……」
「もう出たところだ。入りたいならば、入るといい。湯を張っていないが、構わないか?」
「う、ん……」
彼は途端に顔を真っ赤にして、目線を泳がせた。
何事かとよく考えてみると、そういえば自分はまだ裸だった。
だが男同士なのだから、そんなに照れることでもないだろう。
とすれば、やはり原因は他にあるのか。
「具合でも悪いのか」
「えっ? いや、別に……」
「顔が赤い」
そう言って額に手を当てると、彼はますます赤くなった。
具合が悪いのなら、風呂は避けた方が良いのではないかと思った。
すると、彼は傍らに置いてある着替えを掴み、胸元に押し付けてきた。
「は、早く服着た方がいーんじゃない。湯冷めするし」
「そうだな」
冬場ではないとはいえ、風呂上りにいつまでも裸でいれば寒い時期だ。
彼から着替えを受け取って、スーツよりも大分楽なスウェットに袖を通す。
自室に戻ろうとするが、ドアの前には未だ赤い顔の彼が立っていて通れない。
一度退いてもらえないかと口を開くより早く、彼が口を開いた。
「あ、あのさ。俺に裸見られて、恥ずかしいとかないの?」
「恥ずかしい?」
彼の言わんとすることが今ひとつわからなかった。
恥ずかしいことがあるとすれば、背ばかりが伸びて筋肉がまるでなく、一反木綿のように細すぎることくらいか。
「やはり鍛えた方が良いのだろうか」
「は?」
「女性の一人も担げないようでは、男としては流石に頼りないだろう」
「いや、そういうんじゃなくて」
彼は頭を掻くと、まあいいやと呟いて服を脱ぎ始めた。
彼が脱いだ服をひとつずつ拾って、シャツと肌着は洗濯機に入れ、スーツは部屋に干しておこうと手に持つ。
「あ、わり」
「いや」
「あんた、すっかり奥さんみたいだな」
「料理はできないが」
彼はそういえばそうかと笑って、浴室に消えた。
すぐにシャワーの音が聞こえてくる。
「そういえばさ、あんた晩メシ食べたの?」
シャワーの音に混じって彼がそう問いかけてくる。
短く返事をすると、何食べたの、と更に聞かれた。
「サラダとゼリーだが」
「ちょ、またそんなもん食べて!」
シャワーの音が止まって、磨りガラスのようなドアの向こうで動くシルエットが見える。
「あとで俺晩メシつくるからさ、あんたも一緒にどーよ。っつか、食って」
明日は土曜日で、二人とも休みだ。
生活リズムを崩したくないので、今日はいつも通りの時間に寝ようと思っていた。
だがたまには夜更かしをしてみるのもいいかと、彼の言葉に頷いて、リビングに戻った。
「ふー、お待たせ」
彼は割とすぐに風呂から出てきて、そのままキッチンに立った。
こういう時、料理ができない自分は役に立たなくて嫌になる。
一度だけやってみたことはあるが、時間がかかってしまった上に、出来たものも碌なものではなかった。
慣れてないから仕方ないよと笑って食べてくれた彼の優しさが嬉しかった。
一人暮らしを始めた頃にも何度か挑戦したが、きっと自分には向かないのだ。
分量通り、手順通りにつくっても何か違う。
料理は愛情だ、と言う人がいるが、だとすれば自分にはその愛情が欠けているのだろう。
きっと彼には愛情があるのだ。
……誰に対して?
ふと、そんな疑問が浮かんだ。
この場には自分と彼、二人しかいない。
稀に、自分自身に対して愛情をもつという人種が存在するが、恐らく彼はそういう類ではない。
ならば自分に対して、だろうか。
「ひとつ、聞きたいのだが」
「ん? なにー?」
そんなはずはないだろうと思いながら、一応問うてみる。
「お前は私が好きか」
ガシャン、という音と共に、彼が顔をこちらに向けた。
また真っ赤だ。
「な、んで……」
「いや。深い意味はない」
やはりそんなことはなかったか。
きっと、彼は料理することそのものが好きなのだろう。
あるいは天賦の才か。
どちらにせよ、できることがひとつでも多いのは、羨ましいことではあった。
その日の夕食、時間的には既に夜食だったのだが、それはいつもよりも濃い味付けだった。
何の気なしにそう問うと、彼は失敗したと呟いた。
彼が失敗など、珍しい。
そう思いながら食べ進めている時だった。
「あのさ」
「何だ」
「……好きだよ」
唐突に言われて、箸が止まる。
何に対しての『好き』か。まさか自分ではあるまい。
思いを巡らせて、今まさに自分が食べている食事に目をやった。
「濃い味付けが、か?」
「じゃ、なくって! あんた、さっき聞いてきたっしょ。私が好きか、って」
「ああ」
それなら気のせいで落ち着いたはずだった。
だが彼は、その話を続けた。
「その答え。俺、あんたが好きだよ」
「……そうか」
好き、と言われたのは久しぶりのことだった。
心が温まるようだった。
誰かに嫌われない、それどころか好かれるというのは、こんなにも嬉しくなるものなのか。
「あんたは?」
「私が……何だ?」
「あんたは、俺が好き?」
そう聞かれると、答えられない。
長く、自分で考えて動くことなどなかった。
今の社に移る前は、好きか嫌いかの判断すら自分では下せなかったのだ。
「……わからない」
「……そっか」
正直にそう答えると、彼は寂しそうに笑った。
そんな顔をさせたくなかった。
好きだと言ってしまえば彼は笑ってくれるだろうが、取り繕った嘘のような『好き』は言いたくなかった。
彼には、いつも本音で接したかった。
誰に強要されたわけでもない、取り繕った嘘でもない、自分だけの言葉で。
彼が食事をつくったのだから、片付けるのは当然自分の仕事だと、使い終わった食器を洗っている時だった。
彼は部屋の隅に置かれたギターケースを手に取った。
仕事を始めてからは弾く暇がないと言っており、同居を始めてからは一度も聞いていない。
久々に弾いてくれるのかと、じっと視線を送っていると、彼はそれに気付いたようで、こちらを向くと笑った。
「聞きてーの?」
「ああ」
「じゃあ、少しだけな」
久しぶりだし、指動くかな、なんて言いながら、彼は奏でた。
いつか彼の部屋で歌詞を見た、報われない恋の歌。
あの時も、彼にしては珍しい歌だと思ったものだ。
手早く片づけを終えて、彼の隣に少し距離を開けて座る。
「俺、今こんな気分」
歌い終えてから、彼がぽつりと呟いた。
「お慕いしている方がいるのか」
「お慕いっつか……うん。すっげー好きな人」
「報われない方なのか」
「報われないってほどじゃねーけどさ。打っても響かないんだよ。多分、嫌われてはねーと思うんだ」
それならば良かったではないか。
自分はあの方に、嫌われるどころか視界の端にすら入れてもらえなかった。
それを思えば、彼にはきっと望みはある。
ただ、彼が自分以外の誰かの為に歌うことを、あまり喜べない自分がいた。
「その人さ、自分に自信がないみたいなんだ。過去、いろいろあって。だから何とか救ってやりたいんだ。そう思って、その人の為に歌ってたら、いつの間にか好きになってた」
それは自分のような人だ、と思いながら、その自分のような誰かに密かに嫉妬した。
それから数日。
仕事を終えて社を出ようとすると、ロビーに見知った顔があった。
長い銀髪に、すらりと細い体と手足。
少し猫背気味な人。
「おや、勝家ではありませんか」
その人は自分に気付くと、にたりと笑った。
自分はこの人のこの笑い方が少しばかり苦手だった。
「光秀、様……」
どういうわけか、この人には電話番号とメールアドレスを知られている。
何度変えても、どこかから入手するらしく、即座に連絡が来るのだ。
そうやって、『あの方が寿退社された』『あの方がご懐妊だ』などの報せを、嫌がらせのように何度か受けていた。
「そういえば、今はこちらにいたのでしたね。どうですか、伊達は」
「は……善くして頂いております」
「それは何より。可愛い部下は放っておけませんから」
思ってもいないことを。
心の中でそう毒づくと、光秀様は細い目を更に細くした。
「これから食事でもどうです?『お市様』の話も聞きたいでしょう?」
お市様。
その言葉に、ぐらりと視界が歪んだ気がした。
この人と一緒にいたくない。早く彼のもとに帰りたいと、掠れた声を絞り出した。
「申し訳ありませんが……家で待つ者がおります故、お断りさせて頂きたく」
「おや、恋人ですか。貴方はお市様一筋だと思っていたのに」
「そのような、ものでは……」
恋人ではない。
そう言うと、どういうわけか心の奥がちくりと痛んだ。
嘘など吐いていないのに。
「恋人でないなら、良いではありませんか。それとも貴方は、お市様よりもその待ち人が大事だと?」
そんなはずはない。
いつだってあの方が一番なのだから。
そうでなくては、いけない。
「……お供させて頂きます」
「結構」
彼に『遅くなる』とメールを入れた。
どういう理由で遅くなるのかもきちんと書くべきと思ったが、どうしても書く気になれず、結局ただ一言だけ書いて。
光秀様についていくと、大通りを少し外れた路地の、小さな居酒屋に案内された。
居酒屋と言っても小洒落ており、仕事終わりと思しき女性も多い。
光秀様は席に着くなり、ビールを二つ頼んだ。
あまり呑む気がしなかったため、水か茶でいいと思っていたが、頼まれてしまっては呑まなくてはならない。
逆らえずにビールに口をつける様を、光秀様は面白そうに眺めていた。
それからは、最近の仕事はどうだとか、ODA社は忙しいだとか、そんな他愛もない話から始まった。
「そういえば、お市様ですけど」
その言葉にドキリとする。
光秀様は携帯を取り出すと、一枚の画像を表示した。
「ご出産されたそうですよ。可愛らしいでしょう」
画面を覗き込むと、あの方とその腕に抱かれた赤ん坊、そして傍らに立つ男。
あの方は嬉しそうに笑っている。こんな顔、見たことはなかった。
普段は顔を顰めているあの男も、流石に頬が緩むらしい。
どう見ても幸せな家族の写真。
やはり私はあの方に似つかわしくないのだと、改めて思い知った。
「さぞ悲しく、悔しいことでしょうね。貴方はこの場に呼ばれすらしなかった」
そう言われて、自分が思っていた以上に悲しくないことに気付いた。
立ち直れないほどショックを受けるかと思っていたが、そうでもない。
むしろこの光景が微笑ましいとさえ思っている。
今はただ、家で夕食の準備をしているであろう彼が気になって仕方がなかった。
目の前の光秀様に、すみません、と告げて、自分の携帯を見てみる。
そこには一件の不在着信と、一件の新着メールがあった。
着信は自分がメールを送ってから2分後。メールはその電話の直後。
どちらも彼からだった。
メールを開いてみると、『何かあった?残業?晩メシつくって待ってるから』と書かれていた。
たったそれだけのメール。絵文字も何もない、文字だけの連絡。
それなのに、話しかけられているかのように鮮明に、彼の声で再生される。
心配している様子が浮かび上がってくる。
携帯を見て俯いている自分を、光秀様は悲しんでいると思ったのか、喉を鳴らして笑っている。
だが、自分はそれどころじゃない。
いてもたってもいられなくて、急いで席を立った。
「やはり、帰ります。ご馳走様でした」
「ああ、そうですか。今の恋人の方が大事、と」
財布から五千円を取り出し、テーブルの上に置く。
思ったよりも大きな音がして、何人かの客と店員が振り向いた。
「物好きもいたものですね。貴方が良い、など」
「お言葉ですが」
鞄を掴んで、光秀様のすぐ横に立つ。
今は自分より低いところにいるかつての上司を、普段ならできないような態度で睨んだ。
「私のことは何と言われようと構いません。ですが彼のことを悪く言うのであれば、いくら光秀様であれど」
「彼、ですか」
この人の表情からは感情が読み取れないことが多々ある。今もそうだ。
だが、きっと楽しんでいるに違いない。
「彼は物好きなどではありません。分け隔てなく、誰にでも優しいだけの人。こんな私ですら」
「成程。貴方がそれに依存し、居座っていると」
「はい。心底惚れております故」
失礼しますと頭を下げて、足早に店を出た。
電車に乗ってから、勢いに任せて何てことを口走ってしまったのだと、顔が熱くなった。
けれど、きっと嘘ではない。これが本心だ。
彼が好きだ。いつの間にか、あの方よりも心を占める存在になっていた。
各駅停車の電車がもどかしい。少しでも早く帰りたい。
ただその一心で、電車の中できつく目を閉じた。
やがて、最寄駅で電車が止まる。
階段を駆け下りて、改札を走り抜ける。
普段なら歩いて十五分の道を、脇目もふらずに走る。
スーツと鞄が邪魔で、思ったより早く走れない。
それでも、少しでも早くと、息を切らせながらマンションの玄関にたどり着いた。
オートロックを開けて、僅かに開いた自動ドアの隙間に体を滑り込ませる。
エレベーターを待つのももどかしく、四階の自分たちの部屋まで階段を駆け上がった。
ドアの前で、ひとつ深呼吸をする。
いざ彼に会うとなると、突然恥ずかしさが込み上げてきた。
彼に会うために走って帰ってきたなど言えない。
呼吸を落ち着かせてから、努めて普段通りにドアを開けた。
「……帰った」
声が震える。
廊下の向こう、灯りの漏れるリビングに彼がいると思うと、心臓が早鐘を打つ。
いつもより長く感じる短い廊下を抜けて、リビングの扉を開けた。
彼はソファーに座っている。
「左近」
小さく彼の名前を呼ぶ。
自分は彼の名を呼ぶことが少ないらしく、いつもなら『勝家が俺の名前呼んだ!』と騒ぐのだが、今日は何も反応がない。
どうしたのかと覗き込むと、目を閉じて小さな寝息を立てていた。
テーブルの上には、二人分の夕食。
彼は食べずに自分を待っていたのだ。
そう思うとまた嬉しくなって、彼の隣に一人分の距離も開けずに座った。
起きやしないだろうかと不安に思いながら、彼に寄りかかって体を預けてみる。
彼は尚も、規則正しい寝息を立て続けていた。
「……左近」
もう一度、小さく名前を呼ぶ。
彼の名前を呼ぶだけで、満たされた気持ちになる。
左近。いつか、お前に伝えられるだろうか。
お前から貰ったものを、少しずつでも、いつか返していけるだろうか。
私は莫迦だから、お前に言われた『好き』の意味も、今の今までこれ程も理解していなかった。
左近。人を好きになるとは、届かないと喘ぐばかりではないのだな。
辛いばかりではない。こんなに温かくなるものなのだな。
そう思いながら目を閉じて、誰にも聞こえないように小さく呟いた。
「好きだ。左近」
いつの間にか、眠っていたはずの彼の腕が肩に回されていて、軽く抱き寄せられた。