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merry

glowth

自分は所謂エリートだった。
一流の企業に入社して、スピード出世と言われるほど早々に係長に昇進した。
課長になるのももうすぐ、というところで、とある失敗を犯した。
その頃はそれが失敗だなんて思わなかったが、今にして思えばとんでもないことだった。
その企業の代表取締役には歳の離れた妹がいた。
彼女はどう考えても明らかなコネ入社で、言ってしまえば仕事は全くできなかった。
だが華奢で色白、さらに絶世の美女ということもあり、男性社員が放っておくはずがなかった。
自分もまさにその一人で、あろうことか代表取締役に「妹君が欲しい」と食って掛かったのだ。
彼女にそれ相応の婚約者がいたことを思えば、結果は聞くまでもないことだろう。
自分はその会社の下請けの下請けの下請けの……兎に角一番下の小さな企業の一番下っ端へ異動となった。
元同僚や元部下からの蔑みの態度や、新たな職場での好奇の目、更には毎日終電まで残業するほどの過酷な業務に耐え、半年が過ぎた。
ようやくそれらをどうにか流せるようになった頃。
いつも使う路線のいつもの駅。
その日は初めて残業もなく終わった日で、そんな時間に駅前を通ったからこそ、彼はいた。
アンプに繋いだだけのギターを鳴らして、歌っていた。
たまには家でゆっくりしようと思っていたのに、何故か足を止めて見入ってしまった。
自分は流行の歌に疎かったからそれがどんな歌かは知らなかったが、周囲の人の反応からして彼のオリジナルのようだった。
やたら青臭い歌詞で、共感なんてできるはずもない。
それなのに何故か涙が零れた。
彼の歌は、自分が憧れた生き方そのものだった。
こんなところで泣くのは恥ずかしいと、慌てて駅のトイレに入った。
個室を占領して、密かに声を殺して泣いた。
外から僅かに聞こえる彼の歌のせいで、涙は止まるところを知らなかった。
彼の歌はどれもこれも、そんな青臭い歌だった。

それからしばらく経って、気付いたら彼の歌は止まっていて、漸く涙も止まった。
目は腫れているだろうが、帰れる状況にはなった。
そう思ってトイレから出たところで、先ほどの彼と鉢合わせた。
「ん?」
彼は自分を見るなり目を丸くした。
「あんた、さっきのおにーさん。泣き止んだの?」
「なっ……」
見られていた。
あれだけ一生懸命に歌っていて、あれだけたくさんの人が行き交っていたのだから、自分のことなんて見てないと思っていた。
「びっくりしたよ。立ち止まったと思ったら、いきなりボロッて泣き出すもんだから。俺、なんかした?」
「何も……」
「んじゃあ、なんかあった? 俺でよかったら聞こっか? ……って、頼りにはなんねーだろうけど」
それでも、打ち明けるだけでも違うっしょ、と彼は笑った。
彼はギターケースを背中に抱えて、肩に鞄をかけて、手にはアンプを持っている。
まさか、そんな大荷物で電車で帰るというのか。
「電車で帰るのか?」
「もっしもーし? 俺の話聞いてたー?」
彼は苦笑して、小さくため息をついた。
「そだよ。車持ってねーし。レンタカーもなかなか高いしな」
「……そうか」
ホームへ続く階段を上ると、彼も後についてくる。
重たいであろうアンプを持っているのに、元気なことだ。
この路線は環状線で、この駅はホームの両側に内回りと外回りがそれぞれやってくる。
どうやら電車の方向は逆らしく、彼は次は38分か、と小さく呟いた。
自分が乗る電車は間も無く来るらしく、白線の内側に下がるようにとアナウンスが流れた。
電車が来るまでも、あんた何歳、だの、どこ住み、だの色々と聞いてきたが、聞こえないふりをして無視していた。
すぐにやってきた電車に乗ると、彼は手をひらひらと振った。
「俺、毎週木曜はここでストリートしてるから。また来週、おにーさん」
今日はたまたま早かっただけだとか、来週も早かったとしても見る気はないとか、言いたいことを言う前にドアは閉まって電車が走りだした。
彼の姿はすぐに見えなくなる。
不思議な男だったと思いながら、閉じたドアに体を預けた。

翌日からはいつも通りの忙しさに、彼との約束などすっかり忘れていた。
約束の木曜日も残業で、なんとか終電に間に合う時間に会社を出た。
食事をとる気力もなく、早々に帰って寝たい。
疲れ果てた頭と体で駅前に差し掛かると、あっという声が聞こえた。
その方を見てみると、いつか会った彼がいる。
彼は足元にアンプを置いて、ギターケースを抱えて花壇の端に座っていた。
「来ねーかと思った」
「来るつもりなどなかった」
「だろーな。こんな時間だし」
彼は花壇から降りると、ギターケースを背中に背負って、手にはアンプを持った。
当たり前のように隣に並んで歩き出す。
「残業?」
「ああ」
「お疲れさん。けど、先週は早かったじゃん」
「早い方が珍しい」
「体に悪ーよ。残業ばっかしてるとさ」
好きでしているわけではない。
ただ、上からの仕事は納期には納めなければならない。
断ることなど以ての外だ。
ましてや、自分は今や一番下っ端なのだから。
こき使われるのは仕方のないことだ。
「あんた細すぎ。ちゃんと食ってんの?」
「関係ない」
「そりゃそうだけどさ」
ホームに上がると、ちょうど最終電車がやって来た。
最終だというのに、人は意外と乗っている。
それに乗り込もうと一歩踏み出すと、彼に腕を掴まれた。
「な、に……」
思わず振り返ると、思っていたよりずっと近くに彼の顔があって、ドキリとする。
真っ直ぐ過ぎる目に引き込まれそうで怖い。
そう思っていると最終電車のドアが閉まって、遠ざかっていく。
気付けばホームに二人だけが残された。
「……どういう、つもりだ……」
「ごめん。でも……いや、ごめん」
彼は手を放すと、バツが悪そうな顔をしたあと、反対側の線路を指差した。
「こっちはまだ来るからさ、それで帰んなよ」
確かに、この路線は環状線なのだから、時間はかかるが帰れる。
だが、次にこちらに来るのもやはり最終電車で、しかも自分の最寄駅までは行かないのだ。
それを説明すると、彼は更に申し訳なさそうな顔をした。
「……歩いて帰る」
「あ、あのさ。俺ん家、泊まってかね?こっから六駅だからさ。近いから明日の朝も便利っしょ?」
「私の家もここから六駅だ」
彼は持っていたアンプを置くと、その場に正座した。
土下座までしそうな勢いだった。
「な、なにを……」
「お願いします! 泊まってってください! つい引き留めちまって、なんか申し訳ないっていうか、あんたとは話したいこともいっぱいあるし!」
「やめろ、人が見ている……!」
乗客の姿は近くにはないが、駅員はいる。
それに、線路の向こうに簡素なフェンスがあるだけのこの駅は、外からも丸見えだ。
彼の態度に困り果て、立ち上がらせようと腕を掴んで引っ張っても彼は立ち上がらない。
「見ず知らずの他人にそこまで世話になるわけには……」
「島左近」
そう言うと、彼はぱっと笑った。
「これで見ず知らずじゃねっしょ?」

代表取締役に食って掛かって左遷されてからというもの、できるだけことを荒立てないようにと大人しく過ごしていた。
そうでなくても、絶望した自分に残っているものなど何もなく、多くを望みはしなかった。
そうやって過ごしているうちに、いつの間にか『断れなくて流されやすい性格』にでもなっていたのか。
あれよあれよという間に彼の家に連れて行かれて、風呂から部屋着から何から何まで借りてしまった。
スーツは丁寧にハンガーに掛けられて、さっきまで着ていた靴下とワイシャツは洗濯機に入れられている。
「この部屋風通しいいから、網戸にしとけば夜のうちには乾くよ。乾いたら俺がアイロンかけとくし。あんたは明日も早いんだろ? これ食ったらさっさと寝なよ」
彼はそう言いながら、冷蔵庫にあるもので夜食を拵えた。
曰く、いつも寝るのは明け方で、起きるのは10時頃なのだと言う。
深夜は大抵曲をつくっているらしい。
彼がつくった夜食は、予想以上に美味しい。
「何故、私を待っていた」
「何故って……約束しただろ。来週も来てくれって」
「私がその約束を守ると思ったのか」
彼は頬杖をつくと、僅かに眉根を寄せた。
「守るわけねーって思った。ただの口約束だし、もう二度と会うこともないだろうってくらい他人だ。実際、歌い終わってもあんたの姿はなかったし、通り過ぎた人の中にもあんたはいなかった。見落としかもしんないけど。だけど、もしかしたら、もしかしたらって思ってさ」
「私に会って、どうするつもりだった」
「別に何も。ただ、気になって仕方なかった。先週、初めて会った時さ、あんた泣いてたじゃん」
その言葉にドキリとして、思わず箸が止まる。
彼はそれに構わずに話を続けた。
「足を止めて見てくれる人って、結構覚えてたりするもんだよ。ましてや、あんたは目立ってたから」
「目立っていた? 私が?」
「少なくとも、俺は目を引かれた。男だってのは見てすぐわかったけど、顔はきれーだし。雰囲気も」
彼は臆面もなく『綺麗だ』と口にする。
それは自分が男でも嬉しいことであり、どことなくむず痒くなる気持ちだった。
だがそれ以上に、こんな自分を『綺麗だ』と評価する彼に、嫌悪感を抱いた。
こんな自分が綺麗なはずはないのだ。
「そんなきれーな人が足を止めて聞いてくれて、嬉しかったよ。かと思ったら、いきなり泣き出すから。しかもすぐに駅の方行っちゃってさ。歌うの止めて追いかけようかと思ったよ。で、あんたのこと気にしながらも歌い終わって、さあ帰ろうって駅に向かったらトイレからあんたが出てくんだもん。しかも、『今まで泣いてました』って一発でわかるくらい真っ赤な目でさ。気にかけるには充分っしょ」
自分では大したことないと思っていたが、酷い顔だったのだろう。
少なくとも、彼の気に障るくらいには。
彼があまりにじっとこちらを見つめるから居心地が悪くなって、そそくさと夜食を平らげた。
鞄の中から煙草とライターを取り出す。
「喫んでも?」
「いいけど……」
彼は空いた食器を手に持ちながらキッチンに入り、換気扇を回した。
「吸うならここで吸ってな」
外で吸ってもサッシの隙間から煙は入ってくるらしい。
ならば、室内でも換気扇の中で吸った方がまだ部屋は汚れない、と以前テレビでやっていたのを思い出した。
「俺、あんま好きじゃねーんだよな」
口に咥えて、今まさに火を点けようとしたところでそう言われて、思わず手が止まる。
「キスが不味くなるじゃん」
お前とキスをする予定はないから関係ない、とは思ったが、目の前でそう言われてもなお喫煙しようと思うほど肝も据わっていなかった。
火を点ける前の煙草をボックスに戻し、踵を返す。
「吸わねーの?」
「気が変わった」
明日も仕事がある。もう寝ようと思い床に横になろうとすると、彼に手を引かれた。
「寝るんだったらベッド使っていいよ」
「しかし……」
お前はどこで寝るのだ、と言う間もないまま、彼の匂いがするベッドに押し込まれた。
「何故ここまでする」
「だから、あんたが気になるんだって。あー、ほら、好き? っていうの? 好きな子には優しくしたくなるもんじゃん。そういうことにしといてよ」
そう言うと彼はリビングに戻り、テーブルの上に紙を広げた。
部屋が分かれているとはいえ、仕切り戸はない。
ベッドからは、作業をする彼の背中が見える。
しきりにペンを動かしながら、小さい声で歌っている。
慣れない枕のせいか、或いはベッドにまで彼の存在感があって落ち着かないせいか、なかなか寝付けない。
彼の背中をじっと見ていると、やがて彼が振り返った。
「わっ!? あんた、まだ起きてたの?」
「眠れない」
「あー、こっち側明るいと気になる?」
「いや」
すると彼は立ち上がって、部屋の隅からアコースティックギターを持ってきた。
ベッドに寄りかかって座る。
「なら、子守唄でも歌ってあげましょーか?」
頷く前に、彼はさっさとチューニングを済ませて歌い始めた。
ゆったりとした曲。それでも歌詞は希望に溢れている。
駅前でのライブと違い、囁くような優しい声が、耳に心地いい。
「そういえば、あんたの名前は?」
一曲目が終わった頃にはすっかり眠くなっていた。
夢か現かそう聞かれた気がして、動かない口で答えた。
「柴田……」
「柴田さんね。下は?」
それ以上のことには答えられずに、いつになく深い眠りについていった。

翌朝、目が覚めると彼はソファーで寝ていて、テーブルの脇にはきちんと畳まれた下着と靴下、アイロンがけのされたワイシャツ。
テーブルの上には部屋の鍵と朝食があった。
『おはよーございます。俺の服はその辺に脱ぎ捨ててくれていいよ。
 悪いんだけど、部屋の鍵だけ閉めてって。で、閉めたらドアのポストに入れといて。
 ちゃんと朝ご飯食べていくこと!』
という走り書きのメモと共に。
どこまでも優しい彼の気遣いに感謝して、朝食を食べ、着替えた。
部屋着は畳んでテーブルの脇に置き、下着は洗濯機の横の籠に入れて、
メモには『ありがとう』とだけ書いて彼の家を出る。
この一晩が夢だったのかと思うほど、いつも通りの忙しい日常に戻っていった。
だがその次の木曜日、彼はまた現れた。
「な、今日も泊まってかね?」
そんな風に誘われれば、つい流されて頷いてしまう。
それからというもの、毎週木曜日には彼の家に泊まるようになった。
木曜日だけは、彼の声に導かれて、心地いい夢が見られた。
どんなに仕事が遅くなっても、彼は駅で待っていた。
時折、本当に極稀に仕事が早く片付くことがあり、そういう時は駅前で彼の歌を聞いて。
そんな日が三か月ほど続いたある日。
大きな仕事がひとつ片付いた金曜日、どうしようもなく彼に会いたくなった。
駅前には当然、彼の姿はない。
元々約束なんてしていなかったのだから、当たり前だ。
彼に誘われていないのに家に行ってもいいのかと悩んだが、いてもたってもいられなくなり、反対方向の電車に乗り込んだ。
思えば、自分から行動を起こしたのは本当に久しぶりのことだった。
何度も訪ねた彼のアパート。
だが、電気は点いておらず、鍵も開いていない。
何の約束もしていなかったし、今から行くと連絡も入れていない。
そもそも彼の連絡先を知らなかった。
諦めて帰ろうかと思ったが、どういうわけか体は意に反して、ドアの前に座り込んだ。
少し出かけただけかもしれない。待っていれば、そのうちに帰ってくる。
そんな気持ちが心の奥底にあったのかもしれない。
座り込んで、膝の間に顔を埋めて目を閉じた。
「うわっ!?」
それからどのくらい経ったのか、流石にうとうとしかかった頃、頭上から聞こえる声にはっと顔を上げた。
驚いたように目を丸くしてこちらを見下ろす彼がいた。
「びっくりしたー。どうしたの、あんた」
彼に手を引かれて立ち上がる。
季節は夏から秋に変わり、大分涼しくなった頃だった。
自分でも気付かないうちに手は冷え切っていたらしく、彼の手がとても熱く感じた。
「何か用事? 忘れものとか?」
「いや……」
「ま、とりあえず上がってよ」
彼は導かれるまま、見慣れた部屋に上がる。
淹れたてのコーヒーを啜ると、冷え切った体の芯まで温まっていくようだった。
「で、どしたの?」
「……会いたくなった」
「……え」
彼はまた目を丸くした。今日は驚いてばかりだと思った。
「今日、仕事がひとつ終わった」
「やらかしちまった、ってこと?」
「違う。納期だった」
「ああ、そーいうこと。お疲れさん」
で、なんで俺? と彼は首を傾げた。
そんなこと、自分でも不思議に思っている。
「ひと段落したら、何故かお前に会いたくなった」
「なんとなく?」
「可笑しいか?」
「いんや」
突然の訪問だったにも関わらず、彼は笑った。
彼のこういう優しさは、嫌いではなかった。
「てか、かなり待ったんじゃね?」
「大事ない」
「俺が気にすんだけど」
彼は先ほどまで肩に背負っていた鞄を漁ると、ひとつの封筒を取り出した。
それをテーブルの上に置いて、こちらに差し出してくる。
「何だ?」
「合鍵。そのうち渡そうと思っててさ。今日バイトの前につくってきた」
取り出してみると、確かにこの部屋の合鍵だった。
何故こんなものを自分に渡すのか、彼の真意がわかりかねる。
「必要ない」
「ひっで」
「お前のいない部屋に一人でいても意味はない」
「それもそっか」
そう言うと彼は合鍵を封筒に戻し、引き出しに仕舞い込んだ。
なんとなく手持無沙汰になって、鞄から煙草を出す。
けれど彼の前では吸う気にはなれなくて、ボックスの蓋を指先で開け閉めしていた。
思えば、彼の家で煙草を吸ったことは一度もなかった。
それどころか、以前は気持ちが苛立つ度に吸っていた煙草も、量が減ってきている。
今ではひと箱吸いきるのに三日はかかる。
「なー、俺先に風呂入ってきていい?」
「家主はお前だ」
自分に断わりを入れる必要はないだろうに。
彼は、外で待って冷え切った自分の体を気にしているようだった。
「構わない」
「じゃ、遠慮なく」
彼の姿がなくなると、リビングは途端に寂しくなった。
ぐるりと見回すと、部屋の隅に乱雑に積まれた紙の束が目に入った。
手に取ってみると、それは歌の歌詞のようだった。
彼がつくった歌なのだろう。
普段は明るい歌ばかり歌っているのに、その歌は報われない恋の歌だった。
彼にしては珍しいと思いながら、鞄からペンを取り出して余白に滑らせる。
自分の人生を変えるほど恋い焦がれたあの方は、今となっては思い出そうとしなければ思い出せなくなっていた。
以前はあんなに、自分の心を占領していたのに。
確かこんな顔だったと、彼女を描いてみる。
「ただい……って、あんた、何して……」
彼は戻るなり自分の手元にある紙を見て、慌ててそれを引っ手繰った。
風呂から上がったばかりのせいか、顔が赤い。
「な、み、見た?」
「ああ。お前にしては珍しい歌だな」
「ああ、まあ……」
「私は普段のお前の歌の方が好きだ」
彼はもう一度紙に目を落とすと、あ、と呟いた。
「これ、あんたが描いたのか」
「そうだ」
「へー、上手いんだな。美人だし。何かのキャラ?」
「以前お慕いしていた方だ。美しい方だった」
彼はふーんと言いながら、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出して、テーブルの脇に座った。
受け取った缶ビールに口をつけて、なんとなく問いかけた。
「お前は、どうして歌っているんだ? 歌手になるのか?」
「さあねー。声がかかればなるかもな。けど、本気で歌手になろうって気は、あんまないんだ」
彼は横で、缶ビールを開けながら答えた。
一口飲むとテーブルに置いて、缶を指先で突いている。
「歌手になりたいってのは、単なる夢っつーか。絶対に叶えたい目標じゃねーんだよ。信じらんねーだろうけど、俺結構なエリートだったんだ。そこそこの大学出てさ。そこそこのとこに就職したよ。知ってる? 筒井商事っての」
その名前に、少しの緊張が走る。
自分が以前いた大企業が買収したところだった。
「俺そこでスピード出世とか言われててさ。すぐ係長になったんだ。けど、突然辞めさせられた。ODA社って大企業、あんだろ。そこに買収されて、係長が派遣されてきてさ。新しいやり方に反発したら、バイバイだってよ」
ODA社。そこに、自分はいた。
自分が左遷されたのは、筒井商事を買収したすぐ後のことだった。
きっと苦しい期間は同じだったはずだ。
「俺、しばらく荒れてたよ。もう何もしたくないって、絶望してた。そしたら、昔筒井商事にいた先輩……今はそこそこの会社で課長してんだけど、その人が『今は好き勝手してみれば良い。どうしようもなくなったら来い。俺の権限で雇ってやる』って。で、今は好き勝手してるとこ」
どうして、彼は這い上がれたのだろう。
どうして、自分は這い上がれないのだろう。
その差を考えるとどうしようもなくなって、自分に苛立った。
「って、俺の話はいいんだよ。あんたの話、聞かしてよ」
「私の、話……」
彼はビールを飲みながら、こちらをじっと見た。
「取るに足らない、話だ……」
そして、彼に全てを話した。
似た境遇だったから、話す気になったのかもしれない。
ODA社にいたこと。代表取締役の妹に恋をしたこと。食って掛かったら左遷されたこと。
毎日こんな時間まで働いていること。多くを望まず、ただひっそりと生きようとしていること。
それでも。
「私は、お前のように生きてみたかった。お前の歌のように。青臭くても、希望をもって精一杯に。そう思ったら、涙が零れただけのことだ」
そう言うと、彼は顔を真っ赤にして、頭を掻いた。
酔った、というわけでもなさそうだ。
「あー、それってさ……」
先ほどまでとは打って変わって、目線が泳いでいる。
初めて彼の家に来た日、ドキリとさせられた真っ直ぐな目はなんだったのかと思うほどに。
「俺の歌に感動してくれた……ってことでいいんだよな?」
「感動……?」
感動した、とは少し違うような気がした。
焦がれたのだ。
「私には、お前にとっての『先輩』のような人がいなかった。大丈夫だと言って、導いてくれる人が」
「なら、俺の歌をそういう存在にしてくれよ」
近頃は、誰かに命令されることばかりだった。
自分で考えないことは楽だったが、命令に従うのは苦痛になる時もあった。
だが、彼の命令は、どういう訳か心地が良かった。
「……ああ」
頷くと、彼は嬉しそうに笑った。
「そういえばあんた、煙草やめたんだな」
「止めてはいない。減っただけだ。何故わかる」
「匂いが薄くなったから」
気を付けていたのだが、匂っていただろうか。
あるいは彼の鼻がいいのか。
「やっぱ吸わない方がいいよ、煙草。キスした時に煙草の味すんのやだし。子供にも悪いって言うじゃん」
男である自分に胎教の話などしてどういうつもりなのか。
彼の言動は時々理解に苦しむものだった。
それからというもの、木曜日以外も彼の家に行くことが増えた。
週末に泊まりに行って、次の日は家で何もせず無為に過ごす。
そんな日もあった。
いつしか煙草の本数はどんどんと減っていき、気付けばほとんど吸わなくなっていた。
彼といて、苛立つことがないわけではない。
だが、彼はどんな苛立ちも解消させる不思議な力があるようだった。
彼の家に自分の荷物が置かれるようになり、日に日に増えていった。
自分の家よりも、彼の家に帰ることの方が多くなった。

左遷されてから、一年が過ぎた頃だった。
ODA社から仕事の話が来た。
間にいくつかの下請けを通さずに、こんな末端の中小企業に直接話が来るのは珍しいことだった。
仕事はいつも以上に厳しく、やがて会社や近くのカプセルホテルに泊まることが多くなり、次第に家にも、彼の家にも帰らなくなった。
その頃から、彼は駅前に姿を見せなくなった。
最後に会ったのは、「今抱えている仕事が忙しい」と愚痴を零した時だった。
何度か家に足を運んでみたが、生活リズムが合わないのか、どうしても彼に会うことができなかった。
連絡して待ち合わせてみようかとも思ったが、所詮は赤の他人だった。
自分は未だに、彼の連絡先を知らなかった。
今はこのプロジェクトに集中しようと、次第に彼のことも薄れていった。
煙草を吸う本数がまた増えた。
プロジェクトは難航し、予想以上に進まなかった。
このままでは間に合わないと喘いでいると、豊臣商事という大企業から新たな仕事が舞い込んだ。
何故大企業がこうも中小企業に構うのだと思いながら、今はそれどころではない、と返答した。
すると豊臣商事の担当者は、今進めているプロジェクトに手を貸してやる、その代わりそれが終わったら今度はこちらに付き合ってもらうと言ってきた。
高圧的で神経質そうな男だったが、指示と仕事は的確で、尊敬に値する人物だった。
ODA社から出された仕事を終え、豊臣商事とのプロジェクトも無事終わると、その人物との食事会があった。
「伊達コーポを知っているか」
伊達コーポレーションと言えば、ODA社や豊臣商事には及ばないにしても、かなりの企業だ。
ODA社、豊臣商事と並ぶ大企業・徳川社の傘下であった。
その三社、とりわけ豊臣商事と徳川社はライバル関係にあり、傘下の伊達コーポとも何かと競っていた。
「そこの役員の男から、『このプロジェクトのリーダーは誰だ』と聞かれた。自分を唸らせるなんて大したものだと。あまりに五月蝿く聞かれたから、貴様の連絡先を教えたぞ」
なんてことを、と言う間も無く、すぐにその役員なる男から連絡が来た。
伊達コーポへの引き抜きだった。
二つ返事で了解した。
元いたところよりも遠く、電車を乗り継いでいく必要があるため、朝は早く夜も遅くなりがちだ。
それでも、以前よりも遥かに充実した日々だった。
けれど、時々ふと彼のことを思い出すことがある。
あの駅は毎朝毎夕通過するだけになった。
彼は今も、あそこで自分を待っているのだろうかと。
そんな馬鹿げた考えが拭いきれずに、とある木曜日、その駅に立ち寄ってみた。
ちょうど帰宅時間で、人々が足早に駅に向かう。
辺りを見回してみても、路上で歌う人の姿はない。
最後に彼と会った日から、一年が過ぎようとしていた。
あれはきっと短い夢だったのだと思うことにして、駅に戻ろうとした時だった。
小さく、彼の声が聞こえる。
初めて会った日、ここで歌っていた歌が聞こえる。
声の出所を探してもう一度見回すと、花壇に座る男と目が合った。
どこにでもいる、普通の会社員の男だ。だがその顔には見覚えがあった。
間違いなく、彼だった。
「……久しぶり」
近付くと、彼はへらりと笑った。
笑った顔は、ますます彼だった。
髪型こそあの頃のままだったが、色はあの頃よりも少しだけ濃く、黒に近くなっている。
更にかっちりと着こなされたスーツ。
見慣れない姿に驚いていると、彼はスーツのポケットから名刺を取り出した。
「俺、こういうもんです」
そこには『豊臣商事  島 左近』と書かれていた。
「豊臣、商事……!?」
「言ったっしょ。俺の先輩、そこそこのとこにいるって。な、ぶっちゃけ怖かったろ、先輩」
怖かった、と言われて思い当たる人物がいる。
自分はそうは思わなかったが、周囲の人間はその人物を怖いと口々に言っていた。
自分を伊達コーポに勧めた、神経質そうなあの男だ。
「あの人が……」
「先輩、あんたのことべた褒めしてたよ。よくできるって。あんなによくできるのに、あんな会社じゃ役不足だって」
「……お前が口利きしたのか」
「ちょっと進言しただけだよ。小っちゃい会社だけど、あそこと仕事してみるのどうかって。きっとおもしろいっすよ、って」
おもしろい、とは、言ってくれる。
けれど、連絡もなく疎遠になった自分を気にかけてくれていたのは、心から嬉しいことだった。
そう思うと、自然に口元が緩んだ。
「……笑った」
「何だ?」
「笑ったとこ、久々に見た」
そうだっただろうか。
確かに表情は乏しい方だが、彼の前ではよく笑うばかりだと思っていたのに。
「なー、いい加減あんたの連絡先教えてくれよ。すれ違いなんてもうごめんだし。俺、あんたの名前も知らねーし」
「ああ」
携帯を向い合せにすれば、お互いの連絡先が行き交う。
目の前の小さなディスプレイに『島左近』と表示された。
「勝家」
彼は笑いながらそう呼んだ。
呼ばれ慣れた名前なのに、彼に呼ばれると変にくすぐったい。
「やっと呼べた」
そう言うと、彼は立ち上がった。
自然と並んで歩き出す。
「あんた、また煙草吸ったろ。キスが不味くなるじゃん」
「関係ない。お前とキスをする予定などない故」
「わかんねーじゃん。いつかするかもよ」
戯言を、と思いながらホームに並んで立って、久しぶりに感じる彼の存在感にほっとした。
「なあ、今日俺ん家来ねえ? 見せたいもんがあるっつーか、聞かせたいもんがあるっつーか。あんたの荷物もあるし」
「ならば行く。それに、お前の家の方が、伊達コーポには近い」
ホームに着くと、急行電車が通過する、というアナウンスが流れる。
「ならさ、もういっそ住んじゃう? 一緒に」
「そうだな……」
すぐに急行電車が来て、ホームに風が吹き、髪がほんの少し持ち上がる。
「……それも良いな」
持ち上がった髪を掬い取られて、そこに小さく口付られた。

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