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fortunate error

ハードな任務だった。
体力的にきついだとか、拘束時間が長いだとか、そういう内容ではなかったけれど、とにかく気を張っていた。
そんな任務を終えて、翌日からは数日間の休日のはずだった。
だのに、緊張の糸が解けたからか、翌日から見事に熱を出した。
寒気がして、咳も止まらない。
有り体に言うなら風邪だった。
休日を一緒に過ごすはずだった相手にメッセージを送れば、スーパーへ寄りながらこちらに来るという返事が来た。
彼はスーパーなんて行ったことがあるのだろうか。
きっと初めてだろう。
彼が初めてのスーパーに戸惑うかもしれない様子や、そもそも彼とスーパーが似合わない光景を思い浮かべて、少しだけ気分が晴れる。
買ってきてほしいものを送り返して、ベッドの上で目を閉じる。
下腹部が重く沈むように痛む。
運悪く、月のものも重なってしまった。
体調と感情がジェットコースターみたいだ。
一人で家にいる心細さで泣きそうになって、次の瞬間には不甲斐ない自分に苛つく。

やがて、インターホンの音がした。
念のためマスクをつけて、ドアを半分ほど開ける。
いくつものビニール袋を手に下げたシンがそこにいた。
半分ほど開けたドアの間から荷物を受け取る。
「……ありがとう。それじゃ」
そう言ってすぐにドアを閉めようとしたが、シンはすかさず足を捩じ込んできた。
「用が済んだらポイか? そりゃあんまりだろダーリン?」
「体調が悪いって言ってるでしょ。早く帰って」
「勝手に寛ぐから気にしなくていい」
「あ……!」
あなた、と言葉を紡ごうとして息を吸い込んだ拍子に、激しく噎せ込んだ。
息もできず、目に涙が滲む。
ドアを押さえることができずに、気が付いたらシンの侵入を許してしまった。
心配するように、肩に大きな手が添えられる。
「……あなたに、うつしたくないの」
やっとの思いでそれだけ言うと、頭を撫でられた。
「滅多なことじゃうつらないから、安心しろ」
頭がぼーっとするせいもあって、それ以上の反論が浮かばない。
早々に根負けし、シンを家の中に招き入れた。
「リビングでもキッチンでも、好きに使って。カーテンは閉めたままでいいけど、念のため換気はしてね。寝室には来ないで。……それじゃあ」
シンは早々に窓を開け、私はそれを見届けてから寝室に戻ろうとする。
「ちょっと待て」
呼び止められて立ち止まると、開けられた窓からメフィストが飛び込んできて、私の肩に止まった。
「そいつを連れて行け。何かあったら俺を呼べ。どんな些細なことでもいい」
「……うん」
言われるがまま、メフィストを連れて寝室へ向かった。
メフィストは最初こそ物珍しそうに飛び回ったり歩き回ったりしていたが、やがてヘッドボードを止まり木にし、動かなくなった。
見張られているみたいだ。実際、メフィストがシンに情報を送っているのだろうから間違いではないのだけど。
私が死ぬのを待って、屍肉を啄むタイミングでも伺ってるのだろうか、という気分になりながら、すぐに眠りに落ちてしまった。

どれくらい眠っていたのか。
カーテンの隙間から僅かに見える外はすっかり夜になっていた。
水が飲みたい、薬も飲まなきゃ、と体を起こしたところで、ぐらりと目眩がする。
頭が痛い。お腹も痛い。気持ちが悪い。
口元を手で覆い、込み上げる吐き気を必死に抑えて、ふらつきながら部屋を出た。
どうした、と背後から聞こえる声に応える余裕もない。
すぐに目的のドアに辿り着くと、勢いよく顔を突っ伏した。
咳き込んで、えずきながら、胃の中のものが逆流する。
吐瀉物がぼたぼたと水の中に落ちていき、胃液特有の匂いが充満する。
すぐにやってきそうな第二波に警戒していると、背中に手が添えられた。
「……シン……?」
隣にしゃがんで、こちらを見下ろしている。
そんな不安そうな顔は初めて見た。
けれど、今の私はそれに構っている余裕すらなかった。
汚いかもしれない、とは思ったが、片手でシンを押しのけようとする。
「……っみないで……」
「わかった。見ない」
言われるがまま、シンは目を閉じた。
「見ないから、全部出しちまえ」
大きな手に背中をさすられ、もう一度吐き戻す。
もともと大して食べていなかったためか、二度目に固形物はほぼなかった。
二回吐いて、ほんの少しは楽になった。
ふらふらと立ち上がりながら壁のボタンを押して中のものを流し、洗面所で軽く口を濯ぐ。
薬を飲もう、とリビングに向かおうとしたところで、子供のように、シンに抱きかかえられた。
「え……」
「見ていられないな」
急に揺れた視界に本能的に危険を感じ、咄嗟にシンにしがみつく。
歩いて数歩のリビングにはすぐに到着し、ソファーに降ろされた。
「何か食べるか?」
「食べたくない……」
「少しは食べないと、体力が戻らないぜ」
「じゃあ、ゼリー。あとお水」
かしこまりました、と軽口を叩くシンを見送って、傍らのキャビネットから薬を探す。
抗生剤と、鎮痛解熱剤。空腹時に鎮痛解熱剤を飲むなら胃薬も併用しろ、と言われたのを思い出し、胃薬も取り出した。
薬をシートから外していると、ゼリー飲料と水を両手に持ったシンが戻って来た。
水を一口飲み、そのまま薬も流し込む。
その後でゼリー飲料の蓋を開け、パックを押しながら吸い出した。
「順番が逆じゃないか?」
「胃に入れば一緒でしょ……」
溜息をつきながら肩を竦めるシンを見上げる。
彼は、昼からずっとここにいたのだろうか。
「……シンは何か食べた?」
「あとで適当にデリバリーでも頼む」
「お金、あとで返すから」
「そんな心配はしなくていい」
ゼリー飲料を食べ終え、首の冷却シートを取り替えた。
このゼリーも、冷却シートも、シンが買ってきたものだ。
またふらふらと寝室へ向かおうとすると、今度は横抱きにかかえられた。
「お嬢様を寝かしつけてやらないとな」
もう言い返す気力も体力もない。
触れ合う体温が心地いい。すぐに眠気が襲ってくる。
こんなところで眠ったら迷惑になる。眠らないように何か喋らなきゃ、と回らない頭で必死に考えた。
「……シン……」
「ん?」
「ありがとう……」
ふわりとベッドに降ろされる。
肩まで布団をかけられ、頭を軽く撫でられた。
もう目を開けることもできない。
「おやすみ」
意識を失う直前、その言葉と同時に、額に何か柔らかいものが触れた気がした。

そこから丸一日以上、ほとんどの時間を眠って過ごした。
時折起きては水を飲んだり、ゼリーを食べたりした。
あれ以降吐き気に襲われることもなく、ゆっくりと体力が戻っていく。
多少すっきりした気分で目が覚めた時、外は白み始めていて、夜明け直前といった時間帯だった。
ベッドの上に起き上がって体を伸ばすと、傍らのメフィストが鳴く。
そうだ、シンはまだいるのだろうか。
最後に起きたのは何時間前だったか。
その時も自分のことで手一杯で、シンがそこにいたのか、何をしていたのか、全く覚えていない。
寝室を出てリビングに向かうと、スマホを見つめるシンがいた。
すぐにこちらに気付いて顔を上げる。
寝室から出てきたメフィストが、その肩に止まった。
「おはよう」
「お、おはよう……」
およそシンには似つかわしくない挨拶をされて、少しの距離を開けて隣に座る。
「体調は悪くないようだな」
「だいぶよくなったよ。ずっといてくれたんだ」
「当たり前だろ」
「そんなに暗点を空けて大丈夫?」
「数日俺がいないくらいでどうにかなる奴らじゃない」
それはそうだ。アキラもカゲトもいるのだから。
「……ありがとう」
お礼を言うと、シンはふっと笑った。
「この数日で、一生分の礼を言われたようだな」
「じゃあ撤回するよ。返して」
「返品不可だ」
そんなくだらない言い合いをしていると、お腹が情けない音を鳴らす。
体力が戻ってきたら、お腹が空いた。
シンはまた笑うと、スマホを置いてキッチンへ向かった。
冷蔵庫から米を取り出すと、水とともに鍋に入れて火にかけ、更に卵と酒と塩を追加する。
手際よく調理を進め、器に盛られたお粥が出てきた。
「いただきます」
「召し上がれ」
レンゲの上に掬って、息を吹きかけて冷ましながら食べる。
シンは私のその様子を、どこか楽しそうに眺めていた。
「……なに?」
「俺の作ったものがお前の血肉になると思うと、妙な支配欲が込み上げてくるな」
「言い方」
認めたくないが、美味しい。
大きめの器に盛られたお粥は、食べる前は多いかもと思っていたが、全て平らげてしまった。
私が薬を飲む間に、シンは器を片付けてくれる。
正直に言って、ここまで世話を焼いてくれるとは思っていなかった。
片付けを終えたシンが戻ってきて、隣に座る。
さっきまで眠っていたせいか、あまり眠くない。
空には陽が昇り始め、臨空の街を照らしていた。
「帰らないの?」
「帰ってほしそうだな?」
「そういうわけじゃないけど……」
「こんな昼間に俺に外を歩けと言うつもりか? 日が暮れたら帰る」
「じゃあ、それまではいてくれるんだ」
口が滑った、と思った時には遅かった。
シンは口の端を上げて笑うと、座る位置をずらして距離を詰めてきて、肩を抱き寄せられる。
「ちょっと、やめて。二日もお風呂入ってないんだから」
髪も体もベタベタする。
それなのにシンは、お構いなしに髪に顔を埋めてくる。
「確かに、いつもより匂いが濃いな」
「だから、ほんとにやめて! 汗臭いし、せ……」
「だが、お前の匂いだ」
血の生臭い匂いだってするだろうから、と突き放すより先にそう言われ、それ以上何も言えなくなってしまう。
「へ、変態……」
そう絞り出すのが精一杯だった。
顔が熱くなるのがわかる。
「シャワーはまだやめたほうがいい。本調子じゃないからな」
「わかってるよ」
「それとも、俺が一緒に入ってやろうか?」
「ば、ばか!」
手の平でシンの頬をぺちんと叩く。
シンはそれすらも嬉しそうに目を細めた。
「あの……買い物とか、デリバリーの分とか、本当にちゃんと返すから」
「金はいらないと言ったろ。これでもまあまあ稼いでるからな」
「それはそうだけど……」
「なら、他のもので支払ってもらおう。お前からの『お返し』、期待してるぜ」
厄介な相手に大きな借りを作ってしまった。
買い物だけでなく、数日間にわたって自分の家に閉じ込めて世話をさせたなんて。
そのツケをどう払おうか。
シンが満足するものなんて私から差し出せるだろうか。
せっかく体調が回復したのに、そのことで頭がいっぱいになり、また数日間頭を悩ませることになりそうだった。

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