鯨
鯨はかつて、進化の過程で陸に上がったことがあると学者は言った。
折角陸に上がったのに、やはり海が住み易くて、海に戻ったのだと。
「……離縁して、ほしい」
二人向き合った喫茶店。
膝の上で手を握り締め、意を決してそう言えば、左近は動きを止めた。
からん、と氷の転がる音が空しく響く。
とあるお方に、月並みな言葉で言うならば一目惚れをした。
その方に恋人がいると知ったのは、その一か月後。
それでも想いを伝えて、大方の予想通りあえなく玉砕したのが更に一年後。
その時に泣き言を聞いてくれたのが左近だった。
そのままあれよあれよという間に付き合うことになり、もう二年が過ぎた。
「お前との二年は、決して悪いものではなかった。お前と一緒にいるのは楽しく、一時でもあの方を忘れることができた」
だが、私の心の中にはあの方がいる。あの方が未だ心を占める。
左近に連れられて陸に上がってみても、やはり陸は眩しすぎた。
人に愛される、という感覚がどうにも居心地が悪い。
暗く、恐ろしくもあるあの海の底に、私は惹かれてしまう。
誰かに惹かれる感覚の方が、余程居心地が良い。
「まあ、そっか。そうだよな。なんとなく、気付いてたよ」
その泣き言を聞いてくれている時だったか。
振り返ってくれる見込みがなくても想い続けるのか、と聞かれた。
想い続けていたい、と私は答えた。
その想いが今、図らずも左近を傷付けている。
もしかしたら、その時も。
「じゃあ、まあ、サヨウナラってことで」
「……すまない」
「謝んなよ。あんたが悪いわけじゃないし」
左近はいつものように笑ったあと、俯いて頬杖をついた。
俯いているせいで、表情はわかり辛い。
やはり、怒っているのだろう。
どうしたら良いかわからず、その場から動けずにいると、左近は口を開いた。
「……あのさ。一緒に店出るのも変な話だし、あんたが先に行ってくれよ」
「……お前は、どうする」
「俺は、もう少し」
すまない、という言葉を飲み込んで、わかった、と言いながら立ち上がった。
財布から千円札を取り出してテーブルに置くと、グラスの水滴で端が濡れた。
貨幣に写る偉人が泣いているようだ、とらしくもないことを考える。
「縁があれば、また」
「おー。じゃーな」
会計は彼が後に一緒に、と店員に告げ、足早に店を出た。
振り返らずにただ真っ直ぐに歩く。
そうして私は海に還る。引き込まれれば戻れない、あの海に。
私は、哀れな鯨だ。
陸に上がることもできず、波間を漂うこともできず、ただ宛てもなく泳ぐ。
いつか再び陸に上がるとすれば、それは海に拒まれ、打ち上げられて死ぬ時だろう。
ぽつりと目元に雫が滴る。
雨だろうかと見上げても、空は嫌味なほど晴れ渡っていた。
ならばこれはきっと、海から零れた雫だろう。
堪え切れずに溢れたそのひと雫は塩辛い。
海なのだから当然だ、とまた歩き出した。