main

風に運ばれる

レイは験担ぎはあまりしないタイプだった。
ゆえに、『医学の神様』が祀られているというその神社にも行ったことがなかった。
医科大学を目指す生徒や、医者を志す学生が、毎年多く訪れるのだという。
行ったことのないそこへ今更行こうと思ったのは、効果があるのかもわからない『医学の神様』が理由ではなかった。
「梅の花が綺麗なんだって。行ってみようよ」
無邪気にそう言う彼女がいたからだ。
その神社には『医学の神様』に纏わるものとして、広い梅林があった。
だが運悪く、その日は小雪がちらついていた。
まだ年明けから一ヶ月程度だ。梅の開花時期を考えればありえない話ではない。
「梅の花が散っちゃうかな」
傘を差しながら梅林を歩いていく。
彼女は梅の花に薄く積もった雪を気にしていた。
雪のせいか、周りに他に参拝客はいない。
すると、隣を歩いていた彼女は突然走り出す。
転ぶぞ、と差し出しかけた手は届くことなく、するりと抜けていく。
彼女が走っていった先には、梅に纏わる逸話を書いた立て札があった。
「医学の神様だって。レイ、知ってた?」
「お前は知っていて私を誘ったのではないのか」
「知らなかったよ。梅が綺麗ってことしか気にしてなかった」
小さく笑いながら隣に立って、札を読む。
こんな逸話がある。
今でこそ『医学の神様』と言われている男は、その昔、人の体を開くとは何事か、と咎められ、罪人としてこの地へ流されてきた。
人々がまだ神を信じていた時代のことだ。無理もない話でもある。
男は自邸の梅をいたく気に入っていて、流される前日、庭の梅の木に、私を一人にしないでくれ、と語りかけた。
すると流された男を追って、その年の冬から、この地には咲かないはずの梅が咲いた。
その子孫たちがこの梅林なのだと。
やがて長い時間を経て、男の残した書物は価値を見直され、男は『医学の神様』と無責任に崇められるようになった。
そして、この神社は医学を志す者の聖地となったのだ。
「レイ先生もお参りに来たことがある?」
「いや、ない。初めて来た」
同級生、という意識は歳が離れていたせいもあってあまりないが、とにかく同じ大学に通う学生の中には、験を気にして詣でた者も少なくなかった。
レイらしいね、と呟いて、彼女はもう一度立て札を読む。
「素敵な話だね」
傘を回して笑う彼女を見て、幻が見える。
大きな木の下で、傘を編む彼女。
初めて見るはずなのに、いつか見たような幻。
これは何だ、と疑問に思い、目を見張る。
もう一度しっかり彼女を見据えると、やはり見慣れたいつもの彼女のはずだった。
声をかけようとしたところで、突風が吹く。
足元の雪と梅の木に積もった雪が舞い上がり、風に煽られて幾らかの梅が散り、一瞬だけ視界が奪われる。
彼女がどこかに行ってしまうのでは、と馬鹿げた不安が湧いて、こびりついて離れなくなる。
思わず、そこにいるはずの彼女に必死に手を伸ばした。
彼女はきちんとそこにいた。
図らずも手首を強く掴んでしまい、突然掴まれたことに驚いたのか、彼女は目を丸くしてレイを見上げた。
「びっくりした。どうしたの?」
「お前が、攫われるかと」
「梅の花に?」
小馬鹿にしたように笑う。
その様子に不安よりも恥じらいが勝って、掴んでいた手首を離した。
だがすぐに、彼女も真面目な顔になった。
「……ねえ、私も幻を見たんだ」
「どんな幻だ?」
「傘を差した、長い髪のあなた」
その言葉にはっとする。
先程の幻、その中に自分はいたか。いたとしたら、長い髪ではなかったか。
彼女の幻と自分の幻は地続きなのか。
「お前は、私を追ってきてくれるか?」
「この梅は、この人のことが大好きだったんだね。長い距離を一節で越えてしまうくらい」
彼女はレイに向き直った。
長い髪がふわりと揺れる。
向き直り、そして力強く微笑む。
「私は、きっと追いかけるよ」
「そうか」
「でも、できることなら」
一歩近付いたかと思うと、手首を引かれた。
先程の力強い微笑みとは対照的に、遠慮がちな手だった。
「……置いて行かないでね、レイ。さよならも言わずに、どこかへ行ってしまわないで」
「……ああ」
置いて行ったりしない。きっと、もう二度と。
手首に触れた彼女の手を取り、そっと握る。
それに応じるように、指を絡めて柔らかく握り返された。

Category: