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遠くて近きもの

 彼女には、時折そういうことがある。
 その夜、マヒルは小さな声で目を覚ました。薄く目を開けて周囲を窺ってみれば、隣で眠っている彼女が何かを呟いている。普段であれば単なる寝言かとすぐに意識を逸らせるのだが、そうできない日がある。今夜は目を逸らしてはいけない日だった。
 苦しそうに呻りながら、固く閉じた瞼の隙間から涙が零れ落ちていた。
「……に、さん……」
 その声に肩を揺すった。名前を呼んで無理やり起こすと、彼女はゆっくりと目を開いた。
「起こしてごめんな。でも、お前が……」
 魘されてて、と言い終える前に、彼女はマヒルの顔に触れた。
「マヒル……」
 まだ半分眠っているのだろうが、どこか虚ろな目で、確かめるように頬を、首筋を、胸をなぞっていく。皮膚と筋肉の奥で心臓が鼓動しているのを感じて納得したのか、そのまま胸に顔を埋めた。その頭を抱き締めてやると、安心したのかすぐに寝息を立て始めた。
 初めてこうなったのはいつのことだったか。あの時も同じように夜中に目が覚めて、けれど状況がわからずに、焦ったあまりに今よりも乱暴に揺り起こしてしまった。珍しく泣きながら起きた彼女の涙を拭いながら、そっと問いかけた。
「怖い夢を見て……」
「どんな?」
 怖い夢くらいで魘されて泣くなんて、と内心笑えていたのはそこまでだった。
「あの、爆発の日……」
 その言葉にマヒルは凍りつく。肝が冷えていくのがわかった。マヒルだけでもこうして生きて戻ってきて、再会からしばらく経ってもなお、あの事件は彼女の心に深く陰を落とし続けていたのだと、その時ようやく思い知った。それを思い知ったところでどうしていいかわからず、ただ抱き締めることしかできなかった。抱き締めて、謝ることしかできなかった。謝ったところで、マヒルは悪くない、と彼女は繰り返すばかりだ。
 そのうちに、彼女が求めているのは生きているマヒルを実感することなのだと理解し、それからしばらくは彼女がそうなるたびに体を重ねていた。そういう時の彼女は意識を失うまで求めることを止められず、更には心の重さに加えて体の重さまで翌日に引きずることになる。支障が出るからやめようと提案しても彼女は首を縦には振らなかった。それならせめて、と普段から触れ合う時間をこれまで以上に多く増やした。そのおかげか、そうまでしなくても彼女を宥めることができるようになったのは最近のことだ。

 翌朝、いつもの時間に目が覚める。長く習慣になっているせいで、目覚ましをかける必要もなかった。腕の中で眠る顔が少しは穏やかになっていることに安心はしたが、いつものように朝のジョギングに行くことはできなさそうだ。隣にマヒルがおらず、家の中にもいなくなれば、彼女はまた平静を失ってしまう。あの夢を見た翌日は、彼女が眠っている間に家を出るのは絶対に駄目だと、たった一度の経験からマヒルは固く心に誓っていた。ジョギングを削った分、もう三十分ほど彼女を抱き締められる。髪も、パジャマも、マヒルと同じ匂いがする。同じ匂いなのにどこか甘く感じるのは、彼女が纏っているからなのだろう。
 やがて、彼女の目覚ましが鳴る少し前の時間になり、名残惜しくも体を離してベッドから起き上がった。急に温もりを失って彼女の手が一瞬だけ宙を彷徨うが、布団をかけ直してやるとすぐにおとなしくなった。その頬に軽くキスをして、足はキッチンへ向かう。パンをトースターにセットしながら、冷蔵庫からベーコンと卵を取り出し、熱したフライパンに落とした。蓋をしているあいだにオレンジを剥き始めると、彼女が目を擦りながら起きてきた。どうやら今日は目覚ましに勝ったようだ。
「おはよう」
「ん……」
 声をかけると彼女は裸足のまま近付いてきて、マヒルの背中に抱きついてくる。
「そんなところで二度寝するなよ」
 努めて軽い調子で注意して、軽く手を撫でてからそっと引き剥がした。
 今、彼女が求めているのは『兄さん』だ。昔のように、家族らしい態度を取らなければ。
「顔を洗ってこい。それから、皿とコップを出しておいてくれよ」
 額を指先で軽くつつくと、彼女は気の抜けた返事をしながら洗面所に消えていった。そのあいだにパンは焼き上がった。フライパンの中も間もなく調理が終わるだろう。結局マヒルは自分で皿をコップを用意し、それぞれにパンとベーコンエッグを盛り付けて、傍らの小皿にオレンジを置き、冷蔵庫から出した牛乳パックを傾けて注いでいく。洗顔と歯磨きを終えた彼女が戻って来る頃には準備はすっかり整っていた。
「タイミングばっちりだったね!」
「ああ、そうだな」
 笑いながら向かい合って座り、いただきます、と手を合わせる。パンにベーコンエッグを乗せてかぶりつくマヒルに対して、彼女はソースをかけながら箸で黄身を割って、眉を顰めた。
「マヒル、また固焼きにしたでしょ」
「オレは固焼きが好きなんだ」
「私はとろとろが好きなの」
「文句があるなら自分でやるか?」
 そう言うと彼女は観念したように、固焼きの黄身をもそもそと食べ始めた。文句は言うが自分でやりたくはない、その我儘も可愛いものだ。
 朝食を早々に終え、さて久しぶりの休日をどうしようか、と彼女に判断を委ねる。すると彼女は意気揚々とマヒルの腕を掴んできた。
「デートしよ!」
 当然、マヒルに断る理由はない。彼女の状態がどうであれ、魅力的なお誘いであることには違いない。
「マヒルは今日は私の言いなりだからね。仕事の連絡はしちゃダメ。スマホも置いていって」
 いつもだろ、と笑い飛ばすが、彼女は急に黙って、真面目な顔でマヒルの腕を掴む力を強くする。やはり、まだ機嫌は治っていないのだ。
「誰にも邪魔させない。私だけのマヒルなんだから」
 そんなことしなくても、オレはお前だけのものなのに、とは言わなかった。言ったところで、今日の彼女は素直に聞き入れてはくれないから。
 こういう日のデートの時、襟の詰まった服やネクタイは厳禁だ。今が比較的暖かい季節で助かった。これが冬場なら、黒のロングコートも、手袋も許されなかった。『艦隊のマヒル執艦官』とはかけ離れた姿を見せなければならない。そうでなくても、彼女は艦隊の制服を着たマヒルを苦手としているのだ。
 艦隊以外の急な連絡や、万が一のこともあるから、と彼女を説得してスマホそのものは持ち出せたが、約束通りそれを見ることは一度もなかった。ただ彼女の気の向くまま、ゲームセンターに行ったり、スポーツ施設に行ったり、休憩としてカフェでスイーツを食べたり、なんてことないいつも通りの日だ。
 クレーンゲームで手に入れた大きなぬいぐるみを抱えながら次はどこへ行こうかと頭を悩ませていた彼女が、ふと街頭のモニターを見上げた。つられてマヒルも見上げると、深空トンネルに関するニュースが流れる。トンネル内部で謎の信号を受信し、艦隊が調査を始めている、という内容だった。
「……マヒル、スマホに連絡きてるんじゃない?」
「ああ、多分な」
「見ていいよ」
 浮かない顔の彼女に促されるままスマホを開けば、案の定リアムからのメッセージが来ていた。すぐに艦隊に戻るようにとの要請だ。横から覗き込んできた彼女は浮かない顔のまま眉間に皺を寄せる。
「……バカみたい。艦隊に行くことを『戻る』って言うなんて」
「……そうだな」
 さっきのニュースとこのメッセージを見て、さすがに無視はできない。対応が遅れれば、市民にも街にも被害が出るかもしれない。それは彼女もわかっているだろう。
「行ってきていいよ」
 苦しそうな表情で、彼女はマヒルの手を放した。腕に抱かれたぬいぐるみがマヒルの代わりのように潰されている。少しは落ち着いたようだが、まだそばにいたいだろう。それはマヒルのほうも同じだ。今しがた放された彼女の手をもう一度引いて、路地へ身を隠した。
「マヒ……」
 ぬいぐるみを陰にしながら、その口を塞ぐ。触れるだけでは留まらない。情事の前のように吐息を絡めて、深く触れ合う。彼女もマヒルの肩に手を回してそれに応じた。
 ようやく唇を離したあと、彼女がマヒルの服を掴み、襟元を下げる。鎖骨のあたりに、噛みつくように唇を押し当ててくる。小さな痛みのあとで、そこに赤い痕が生まれた。初めてこれをされたのも、やはりあの夢のあとだった。その時は抱き合っている最中に、こうして痕をつけられた。痕だけではない。彼女は実際に噛みついてもきたのだ。その痕はすぐには消えず、こんなに痕をつけるなんて、と咎めたら、どうせ制服で見えないでしょ、と機嫌が悪くなったのを覚えている。
 彼女には、時折そういうことがある。所有の証を刻むように、マヒルの体に痕を残すのだ。今では、マヒルもその行動をよしとしている。今回の痕も、制服を着たらどうせわからない。
「すぐに戻ってくる」
「それは深空トンネル次第なんだからわからないでしょ」
 彼女はマヒルの頬を撫でて、そのままネックレスをなぞった。まるで首輪がかかっていることを確かめるようだ。
「約束するよ。さよならも言わずにいなくなったりしない」
「前科があるから信用できないよ」
 ぬいぐるみが邪魔をして、彼女はマヒルに抱きつきたくても抱きつけずにいた。それならば、とマヒルがぬいぐるみごと抱き締めると、彼女もマヒルに体を預けてくる。
「絶対に帰ってきて。遅くなってもいい。骨になっても、ネックレスだけでも、帽子だっていいから、私のところに」
「……ああ」
「あなたは私のマヒルなんだから。帰ってこなかったら、次の日からこの子がマヒルだよ」
 居場所を奪われるのは勘弁してほしい。お前には渡さないぞ、とぬいぐるみを小突くと、彼女はようやく曖昧に笑った。
 行ってくる、と告げて手を放す。次に会うまでは振り返りはしない。今のマヒルはもう『兄』の顔をしていない。
 それから数日後に彼女のもとに帰った時、彼女はすっかり元通りになっていて、二人が『兄妹』になることはしばらくなかった。

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