翌朝
目が覚めて最初に飛び込んできた光景は、微かに差し込む光に照らし出されるシンの寝顔だった。朧げな意識と視界で、昨日は一緒に寝たんだっけ、と考えたのは一瞬だけで、素肌に触れるシーツと毛布の感触で、記憶は鮮明に蘇る。もう少し正確には、『鮮明』かどうかは怪しかったけれど、とにかくいつも通りにただ『一緒に眠った』だけではなかったのだ。
そのシンの瞼が緩く動いたのを見て、彼が目を覚ます、と理解し、咄嗟に身を返す。彼に背を向けるかたちで横になっていると、毛布が引っ張られるような身じろぎとともに、寝惚けた声で唸りながら目を覚ましたようだった。起きてすぐに、彼の腕が体の上を覆い、後ろから抱き寄せられ、後頭部に吐息がかかる。背中に彼の胸が密着する。汗のせいかどこかしっとりしていて、それなのに温かい。
「こっちを向いてくれないのか?」
恥ずかしくて、とても彼の顔なんて見られない。腕から逃れるように勢いよく体を離し、頭まで毛布を被った。シンは怒るでもなく、それどころか軽く笑いながら毛布越しに私の頭を撫でた。
「体は何ともないか?」
「……へいき」
「ならいい」
ベッドが軋む音とともに、傍らの重みが消える。ドアを開けて閉めて、やがてシャワーの音が聞こえてきた。シンが完全にいなくなったことを確信し、それでも周囲を伺いながらおずおずと毛布から顔を出す。するとメフィストが器用に扉を開けて入り込み、私をからかうように近付いてきた。そのメフィストを両手で鷲掴みにし、顔を見つめた。
「メフィちゃん!」
メフィストは鳴きながら身を捩って暴れる。それを押さえ込み、手の力を強めた。
「思ってたのと違った!」
ついに手の甲をつつかれ、痛みにやむを得ず解放する。メフィストは床の上で軽く羽撃いて翼の位置を調整すると、足早に立ち去ってしまった。逃げた、と普段なら悪態をつくところだけど、今はそれどころじゃない。
顔から火が出そうなほど熱い。自分の顔を両手で抑えながら、落ち着け、と繰り返す。
あんなの知らない。あんな、甘く柔らかな彼なんて。もっと激しくされるのだと思った。初めてだろうと構わず、遠慮なんてなく、本能のままに、気を失うまで抱き潰されるのだろうと。けれど実際はまるで反対で、彼は終始こちらを気遣って、どこまでも優しかった。他者を威圧し、支配する声は、猫撫声のように柔く、人を射殺せそうなほど鋭い視線は、愛でるように甘い。そんなものが私に向けられていたなんて。
腰の気怠さと疲労感こそ若干はあるものの、痛みも大して残っておらず、こうして起き上がって座ることもできる。ベッドの下にそっと足をついて立ち上がってみれば、生まれたての子鹿のようになることもなく、概ね普段通りに歩ける。落ちている服を拾い集めて着替えることもできた。ちょうど服を着終えたところで、バスローブ姿のシンが髪を拭きながら出てきた。
「あ……」
適度に肌蹴たバスローブから覗く胸に、否が応でも昨夜のことを思い出した。
熱い肌。熱い指先。熱い彼自身。
心臓の音が聞こえてしまいそうなほど高鳴って、体の奥がそっと疼く。
「シャワーを浴びないのか?」
「お……」
壊れた機械のように、一文字しか言葉が出てこない。むしろ今どき、壊れた機械のほうがもっとよく喋るだろう。
「おはよう! そしてさようなら!」
勢いよく踵を返し、部屋を飛び出した。赤黒いエネルギーに引き止められなかったのは、私のあんまりな態度にシンも面食らっていたからだろう。
まさか初夜のあとに逃げ出すだなんて。ほとんど私専用になっている一室に駆け込み、ベッドに突っ伏して足をバタつかせる。思い出すな、と考えるほど蘇ってくる。これからしばらく、シンの前でどんな顔をすればいいのだろう。
そう思っていたのはどうやら私だけで、その日はそれ以降シンと会うことはなかった。シンは眠ってしまったのか、あるいは仕事に行ったのか。私も翌日の仕事があるからと、早々に基地を立ち去ってしまったのだ。
家に帰ってからもスマホを握り締め、シンのメッセージ画面を開いて一時間が過ぎていた。昨夜は、と打っては消し、また今度、と打っては消し、そんなことばかりしていた。結局、ようやく送れた一文は『明後日また行く』の一言だけで、シンもスタンプを返してきただけだった。
その宣言通り、二日後に基地を訪れたはいいけれど、今日は忙しいからと袖にされ、たまにはそんな日もあるのだろうと受け止めた。けれどそれから二週間、足繁く基地に通ってみても、やはりどこかシンはよそよそしく距離を取ろうとする。
あわよくばもう一度味わいたいと思った触れ合いに発展する様子は一度もなく、それどころか基地に泊まり込むと言ってもおやすみのキスをくれるだけで一緒に寝てはくれず、そもそもおやすみ以外のキスもしてもらえない。早い話が避けられている。未だかつて、シンにここまで避けられたことがあっただろうか。原因があるとすればあの夜、もしくはその翌朝以外に考えつかない。
シンはあの夜、不満だったのだろうか、私が初めてだったせいで至らなかったのか、と考えても答えはわからない。わからないなら考えるだけ無駄だと、シンがいるリビングに突撃して、ソファーに座るシンの真横を陣取った。今夜、仕事らしい仕事がないことはアキラとカゲトに確認済みだ。
「どうして避けるの」
彼の手からスマホを取り上げて睨むように見上げれば、シンは神妙な顔で目を伏せた。
「お前が、俺の顔なんて見たくもないだろうと思ってな」
「私のせいにしないでよ。どうしてそう思ったの」
「『思ってたのと違う』んだろ?」
何の話、と一瞬だけ首を傾げた。とぼけたつもりは全くない。期待外れだったから、あの日、逃げ帰るように飛び出したんだろ、と言われ、あの朝の話をしているのだとようやくわかった。確かにメフィストにそんなことを言ったけれど。
「どうして知ってるの?」
「メフィストに話したことは、全て俺の耳に入るんだ」
当たり前の話だ。メフィストのボスは、他でもないシンなのだから。そんな当たり前のことすら忘れるほど、あの時の私は混乱していた。
「違う、あれは……」
「お前が嫌なら、もうしない」
幻滅したと思われかねない態度に、取り繕うように慌てて彼の手を取った。
「嫌なわけじゃないの……!」
むしろ、その二度目を期待して、ずっと待っていたのだ。私達の間には誤解がある。ちゃんと話さなきゃ、と思うけれど、つい手で顔を覆った。
「は……恥ずかしくて……」
「それじゃ、まだ理由になってないな」
シンの声色が若干和らぐ。毛先を弄られているのか、髪が僅かに引っ張られた。
「……怒らない?」
「内容によるな」
ひどい態度だったのは私のほうだ。その理由もまたひどい。正直に話せば怒られるかもしれないし、二度目も訪れないかもしれない。それでも何も言わないまますれ違い続けるよりはずっといい。シンの様子次第ではちゃんと謝らなきゃ、と決意して口を開いた。
「その……あんなに、優しくされると思わなくて……」
確かに普段の私への態度を見ていれば、彼が優しいであろうことは予想できたはずだ。けれど出会った頃に受けた仕打ちや、敵対する相手に見せる苛烈な様子もまた事実だ。
「もっと、痛くて、苦しくて、ひどくされると思ってた。けど……」
あの夜の、言語化できなかった、あの感覚。それを表現するすべを、私はちゃんと見つけてきた。
「き、きもち、よくて……」
顔を覆っていた手を外され、代わりに頬にシンの手が添えられる。その手の平の温度もわからないほど、私の顔はまた熱くなっていた。
シンと目が合う。この目にまた捕らわれる。欲望を引き摺り出すという右目は鳴りを潜め、ただ私を愛でるように細められる。
「なら、またしてもいいってことだな?」
普段は低く冷徹な声も、今は淫靡に掠れて私の耳を撫でていく。
「……うん」
「それが今夜でも?」
これ以上は聞かないで。
彼から隠れるつもりで、その胸に顔を押し付けた。途端に彼に抱き上げられ、基地の中をゆったりと歩き出す。どこへ向かうかなんて聞かなくてもわかってしまう。目的の場所に辿り着くと、そっとベッドの上に降ろされた。見上げたまま目を閉じた私の上に、止むことのないキスが降り注ぐ。