線
俺とあいつを隔てる、見えない線がある。
決して越えられない線。越えたら戻れない線だ。
一思いに飛び越えてしまいたい、と思うようになったのはいつからだっただろうか。
フレンがそれを許してさえくれたなら。
きっとフレンのことだから、俺がその線を超えても、怒りはしないだろうけど。
そんな優しさに縋りたくはない。
物心ついた時からずっと一緒だった。
父親は生まれた時には既にいなかったらしい。
死んだのか、出て行ったのかは今でもわからない。興味もない。
母親も俺を生んですぐにいなくなって、俺を育ててくれたのは下町の人々だった。
一緒に遊んで、笑って、泣いて、喧嘩して、叱られて。
やがてフレンが母親と二人、下町にやってきた。
だが数年でお袋さんが亡くなり、それからはハンクスじいさんたちの手を借りながら子供ながらに精一杯生きてきた。
揃って騎士団に入団して、けれど俺はすぐに辞めて、フレンは残って、別々の道を歩むようになった。
それでも兄弟同然に育ってきたのに、一体どこで踏み外したのか。
非番だ、という話を聞いて、塀や木を伝って城に忍び込む。
城の中に部屋があるというのも、騎士団長の特権なのだろう。
不用心に開け放された窓から室内に立ち入り、軽く声をかけると、フレンは小さく溜息を吐いた。
「いろいろ聞きたいことも言いたいこともあるけれど」
「どーぞ」
「まず、何をしに来た?」
「非番だって聞いたから、何してるかと思ってな」
非番のフレン、というのが想像できなかった。
昔の、それこそ幼少期のように走り回って遊びまわったりするわけでもあるまい。
騎士団に入ってすぐの頃は共に過ごしていたし、その頃の非番の様子を見ればわかりそうなものでもあったが、下っ端と騎士団長では休日の過ごし方も違ってくるだろう。
こいつのことだから、休みの日まで堅苦しい書面と向き合っているんじゃないかと思って来てみれば、案の定だ。
「何故、僕が非番だと知っていた?」
「とある情報筋からな」
非番だけじゃない。それ以外のスケジュール、いつ帝都を離れるのか、あるいはいつならいるのか。
全て把握済みだ。
俺が教えてほしいと頼んだわけじゃない。
城の中には、お節介なお嬢様がいるもんだ。
大方、アスピオからハルルに移り住んだ親友に会いに行く日を知るために、フレンのスケジュールを調べつくしたのだろう。
フレンがいては、帝都から出ることはできないだろうから。
「シュヴァ……いや、レイヴンさんかな……彼は騎士団には復帰していないはずだけど……」
本気で悩んでいる。
まさかあのお姫様が犯人だとは、夢にも思わないだろう。
入手した情報を、あの手この手で俺に報せてくれる。
「お前のことなら何でもわかる、ってことだ」
そう茶化すとフレンは眉根を寄せた。
スケジュールのことだけじゃない。
好きなもの。嫌いなもの。癖や性格。
他の誰よりも知っていると自負している。
俺のことを、親友だと信じて疑わないことも。
「ここへはどうやって来たんだ? 見張りの騎士は?」
「あんなザル警備、抜けるのなんて簡単だぜ。ちゃんと言っとけよ、真面目に働けって」
「そうだな、言っておこう。しょっちゅう城に侵入する不届き者の元騎士がいるから気を付けろと」
言われて、大仰に首を竦めてみせる。
仮にも元騎士だ。どこが警備の穴かは熟知している。
どんなに固めたところで、守っているのが所詮人なら、どうしたって穴は生まれる。
加えて、この宵闇だ。紛れるのは簡単だった。
それに先日、城の女神像が地下道と通じる抜け道だと知ってしまった。
「それから、何度も言っているけれど、窓は出入り口じゃないよ」
「よく言うぜ。開け放してたくせに」
二階とはいえ、あんなに不用心に開け放していた。
入ってきていい、と言っているようなものだ。
本気で嫌なら、窓もカーテンも閉めて、鍵もしっかり締めておくだろう。
几帳面なフレンのことなら尚更だ。
そう指摘すると、フレンは困ったように笑った。
「こんなところから入ってくるの、君くらいだよ。ユーリ」
「なら、俺を待ってたんだろ」
「そうかな。そうかもしれないな」
フレンはまた机に向かい、書面をしたため始めた。
細かい文字が書かれた、小難しい書面。
確認してはサインをしたり、あるいは白い紙に長々と書き連ねたり。
室内に、ペンを滑らせる音と、時折インクをつける水音だけが響く。
何度目になるだろうか。
フレンが書面をどけて、次の書面を出す間の、その一瞬。
一瞬、机の上が空になった隙に、そこに手をついた。
「ユーリ」
邪魔だ、と言いたげに見上げたフレンに、ずいと顔を近付ける。
この距離で見つめ合っても、赤面するどころか、目を逸らしさえしない。
自分で言うのもなんだが俺は、美人だ、女みたいだ、と言われることがよくあった。
そんなのが嘘なんじゃないかと思うくらい、フレンは何の反応も示さない。
それどころか、どいてくれ、と目を歪めた。
「好き、つったらどうするよ」
「は?」
「好きだ。フレン」
「ああ、ありがとう。僕も、仕事の邪魔をしない君が好きだよ」
ああもう、そうじゃないだろ。
机の上からどいて、フレンの横に移動する。
フレンは空になった机の上に早々に新たな紙を引っ張り出して、すぐにペンを滑らせた。
真面目に俯く顎に手を添えて、強引にこちらを向かせた。
「ユーリ、いい加減に」
ほんの、一瞬。
フレンの唇に、自分のそれを触れさせた。
キスと呼べるのかどうかもわからない。
それくらい一瞬の、子供の戯れのような、挨拶のようなもの。
俺がフレンのことを何でもわかるのと同じように、フレンも俺のことを何でもわかるのかもしれない。
なら、この意味だって。
けれどフレンは茫然とこちらを見上げているだけだった。
「……おやすみ」
その柔らかな金糸をほんの一房掬い取った。
すぐに指を滑り落ちて、すり抜けていく。
ユーリ、とその口が動く前に、開け放された窓から飛び出した。
両手両足で地面に降り立って、来た時と同じように夜の町を駆ける。
自分が冒したことくらいわかっている。
なんてことをしたんだ、と今になって顔が熱くなった。
俺とあいつを隔てる、見えない線がある。
決して越えられない線。越えたら戻れない線だ。
その線を、俺は越えてしまったのだろう。
近く、フレンは騎士団を率いて遠征に行くと聞いた。
ひと月は戻っては来ないだろう。
戻ってきたら、どんな顔で会えばいい。フレンはどんな顔をするだろう。
笑って流すだろうか。激しく怒るだろうか。泣いて拒むだろうか。
どれを想像しても情けなくなって、ひどく後悔した。