泣いていーよ
※三部始まる前に考えたやつ
「そーちゃん泣かす。ぜってー泣かす」
そう環が意気込み始めたのは、壮五の誕生日を終えてからしばらく経ってからのことだった。
あの日、嬉し涙すら流せない壮五を憂いていたのは、IDOLiSH7のメンバーたちも、壮五本人も知っている。
それも性分なのだから仕方ないだろうと半ば諦めかけていた環が復活したのは、とあるテレビ番組を見てのことだった。
泣くと、抱えているストレスのいくらかが減少する。
そう聞いて、おとなしくしていられるはずがない。
ストレスを溜め込みやすく、一度はそのせいで胃に穴を開けかけた壮五を誰より心配しているのも、また環だ。
斯くして、壮五を泣かせるために、環はあの手この手を尽くし始めた。
とはいえ、悲しみから来る涙と、痛みから来る涙は、できることなら見たくない。
感動か、あるいは嬉しさから泣かせる方向に定めて、メンバーそれぞれに聞いて回った。
まず陸に、今までで一番泣いた状況を聞けば、俺すぐ泣いちゃうから、と返され、確かにそうだと納得した。
一番泣いた経験は、恐らく天が九条に連れて行かれたあの日だろうが、その涙では駄目だ。
何より、今壮五が泣くほど離れがたいとしたら、それは環も含めたIDOLiSH7のメンバーに他ならない。
そうなれば、いくら演技だとしても、壮五より先に陸や三月が泣くのは明らかだった。
やはりオーソドックスに感動ものの映画が良いのでは、とナギの提案を受け、しかしまじかる☆ここなの劇場版は早々に却下して、陸も連れ立って三人でレンタルビデオ店に向かう。
結局借りてきたのは、数年前に公開された邦画だった。
所属していたオーケストラが解散し、仕事を失ってしまったチェロ奏者の男が田舎へ戻り、ふとしたきっかけで納棺師となる物語だ。
初めは男自身も納棺師に戸惑いを抱いていたが、徐々に充実感を見出し始める。
だが周囲の理解は得られずに、それでも真摯に向き合い、取り組むうちに、周囲も変わり始める。
そんな折、幼少期に蒸発した父親の訃報が届き……といった内容だった。
リビングで始まった鑑賞会には一織も巻き込まれ、半分が過ぎたあたりで陸が泣き、終盤でナギが嗚咽を漏らし、エンディングまで見終えてから一織が目を潤ませた。
けれど、環にとってそうであったように、やはり壮五の琴線には触れなかったのか、よかったね、と一言述べただけだった。
残る三月と大和にも同じように聞いてはみたが、三月からはとあるアイドルの解散ライブのDVDを勧められ、大和からはもうゴムパッチンでいいだろと投げやりな言葉をかけられ、どちらも断った。
あとは、環が泣いたことくらいだが、覚えている限りで泣いた出来事といえば、理と再会した時だ。
ダメ元で、泣きたいほど再会したい人はいるか、と聞けば、案の定、叔父さん、と返され、この策も使えない。
万策尽きた、と思われたところで、事件は起きた。
壮五の携帯に、普段は絶対にかかってはこないところから連絡が入ったのだ。
「佐藤さん。お久しぶりで……え、父が……?」
近々行われる予定の、MEZZO”のみの収録。
その打ち合わせのために壮五の部屋にいた環だけが、その電話の内容を聞いていた。
表情を曇らせて、はい、と何度か返事をした壮五は、やがて電話を切った。
「待たせてごめんね。じゃあ、続きだけど」
「電話、なに?」
聞けば、壮五は目を泳がせた。
「……何でもないよ」
この反応は、よく知っていた。
何かがあった時の反応だ。
環の妹、理の一件で大モメしてからは、この反応はかなり減ってきていたのに。
その反応に眉根を寄せれば、あ、と壮五は呟いた。
「ごめん。何でもないわけじゃないんだ。だけど、関係のないことだから」
「関係ないって何だよ。あんたのことなら、俺に全く関係ねーわけねーじゃん」
それで仕事に支障が出たりしたら、と最初に言ったのは壮五だ。
もちろん、壮五が仕事にそれを持ち込むとは思ってはいなかったが。
壮五はしばらく悩んだのち、押し負けてようやく口を開いた。
「僕も勘当された身だから、もう関係のないことなんだ」
「家で、何かあったのか?」
「うん……父が、倒れたって」
それを聞いて、環の表情も同じように曇った。
FSCの会長である父が倒れ、入院した。それを告げる電話だった。
勘当されているから、行くべきではない、という気持ちもわかる。
環自身、父が倒れたと聞いても、行くべきか行かざるべきか悩むだろう。
それこそあの映画のように、不謹慎な考えではあるが、届いたものが訃報であったなら、もう少し迷わずに行けるのだろうが。
けれど、訃報では遅いのだ。
死んでしまってからでは、何も取り返せない。
環が言えたことではないのは本人もよくわかっていたが、それはこの際棚に上げた。
すぐさま携帯を取り出し、履歴から何度もかけたマネージャーの番号を呼び出す。
「もしもし、マネージャー? 明日、確かレッスンだったよな」
マネージャーがいなくても仕事のスケジュールを把握している壮五と違い、環は言われるまで予定を気にしないタイプだった。
それが、自分でもスケジュールを把握するようになったのは、壮五の影響である。
「悪いけど、俺とそーちゃん、オフにして」
「環くん!? 何を……!」
「急用。ごめん。すみません、って、先生にも伝えといて」
小さいとは言え、小鳥遊事務所も一応は芸能事務所だ。
ダンサーもいれば、ダンストレーナーもいる。
明日は幸か不幸か、ダンスレッスンの日だった。
元々ダンスが得意で覚えも早い二人だから、マネージャーも二人のオフにオーケーを出した。
渋るのは壮五だけだ。
「レッスンを休むなんてだめだよ! みんなより遅れてしまうし、先生にも迷惑が」
「明日、親父さんの病院、行こ。どこ?」
「教えるわけにはいかない。僕は、お見舞いに行くつもりはないよ」
「俺が言えたことじゃねーけど、今行かないとだめだ。ぜってー、後悔する。このまま、もう二度と会えないかもしんねーじゃん」
わだかまりが残ったまま。何も言えないまま。
そのまま突然、永遠の別れになる、ということはよくある。
環にとって母親がそうだったし、壮五にとっての叔父もそうだった。
「病院、どこ?」
黙る壮五に再び聞けば、小さな声で、病院の名前が帰ってきた。
電車で片道一時間程度の、大きな大学病院だった。
病院の前で、ごくり、と一度飲み込んだ壮五は、病室の手前でその歩みを止めた。
逢坂壮志、と名前が掲げられた個室はすぐそこだ。
時折、中にいるであろう人物の声が漏れ聞こえる。
「俺、行こーか?」
「……いや」
自分自身でどうにかしなければならないことなのは、壮五が一番よくわかっていた。
だからといってすぐに割り切れるわけでもない。
重い足取りで、一歩ずつ、病室のドアに近付いていく。
近付くごとに、中から聞こえる声は鮮明になった。
いよいよノックをしようかと手を伸ばしたところで、再び壮五の動きが止まる。
中から聞こえる父親らしき男の声は、元気そのものだった。
過労と睡眠不足で少し倒れただけで、点滴をすればすぐに帰れる、と豪語する。
周囲の声はそれを諌めるが、少なくとも命に別状がないことだけは本当のようだった。
ノックをしようと上げかけた手が、そのまま落ちる。
「そーちゃん」
「……元気そうで、良かった」
元気なら、命に別状がないのなら、顔を見せるわけにはいかない。
昨日とは違い、壮五の態度は頑なだった。
引き止める環の声を聞かず、エレベーターホールで下行きのボタンを強く押す姿は、今まで見たことのないものだった。
「壮五さん!? 壮五さんですよね!」
エレベーターに乗り込もうとした壮五を引き止めたのは、四十代半ばほどの、スーツの男だった。
佐藤さん、と壮五が呟く。
彼が、昨日壮五に電話をかけてきた相手のようだった。
仕事も私生活もお世話になっていたんだ、と軽く紹介するうちに、エレベーターは無人のまま下りてしまった。
「四葉環っす。IDOLiSH7の……MEZZO”の、そーちゃんの相方の」
「知っています。環くん。壮五さんと、公私で仲良くしてくれていると」
その言葉に、環は複雑な表情を浮かべた。
デビュー当時の、二人きりでいても何の会話もないような頃から比べたら二人の距離は近付いてはいたが、仲良しと言われることにはまだ抵抗があった。
そんな環に気付いてか、話を切り出したのは壮五だった。
「どうしてわかったんですか? 僕たちが来ていたこと」
「環くんの声が聞こえましたから。壮五さん、テレビと同じで、そーちゃんと呼ばれているんですね」
「ええ、まあ……」
あんな大声を出すから、と壮五はちらりと環を見た。
あとで全部まとめて怒られるだろう、と環は腹を括った。
それじゃあ、と壮五は再び下行きのボタンを押す。
それを、佐藤は再度引き止めた。
「ご自宅に寄って行きませんか」
エレベーターに乗り込んだ壮五と環に続き、佐藤も乗り込む。
この密室で、逃げ場はどこにもなかった。
「すみませんが、このあとレッスンが控えていますので」
「はあ? 休みにしてもらっただろ」
つい口をついて出た言葉に、しまった、と思ってももう遅い。
壮五はまた、環に視線を向けた。
「でしたら」
「足がありません。電車だと、ルートが面倒ですよね」
「大丈夫です。車があります」
「母と会ってしまうかも」
「奥様は、会長の傍にいらっしゃいますよ」
「それに、行く用事がありませんし」
「家を出る際に持ちきれなかったCDやDVD、そのままで良いのですか?」
反論の材料を失って、壮五はおとなしく頷いた。
病院の近くに止められた車に揃って乗って、二十分ほどの道を行く。
やがて、IDOLiSH7が寮として使う家と大差ないであろう大きな家が見えた。
「そーちゃんち、すげー……」
「僕の家じゃないよ。僕の父の家だ」
「同じことだろ」
この家に来るのも久しぶりだった。
家を出たあの日から一度も戻っていないから、もうどのくらいになるだろう。
IDOLiSH7を結成してから一年以上経つのだから、少なくとも一年は帰っていない家なのに、他人の家という感じは、まだしない。
まだ、ここが自分の家であると、どこかでその思いを捨てきれずにいた。
「お部屋も大体そのままですよ。どうぞ」
父親から預かったのだろう、佐藤は家の鍵を開け、壮五と環を促した。
案内されなくても知っている、自分の部屋。
てっきり潰されて書斎にでもされているだろうと思っていたその部屋は、大体そのまま残っていた。
大体、と佐藤が言った通り、多少の差異はある。
壁の一面を埋める本棚。その本棚には、壮五のCDやDVDが整然と並べられていた。
この中の一部は家を出る際に持ちだして、今の壮五の部屋にある。
だがさすがに全ては持ちきれず、大半は残したままだった。
その、ぽかりと抜けた半分。
壮五が持ちだしたはずの半分が、別のもので埋まっていた。
「これは……」
本棚から抜き取ったCDらしきものを眺めて停止した壮五に続き、環も本棚からCDを抜き取った。
そこには、よく知った顔が写っていた。
「これ、俺たちの……」
間違えるはずがない。IDOLiSH7のCDだった。
それ意外にも、ライブのDVDや、出演したドラマのDVD、ラベルがついた手作りのDVDが並んでいる。
ラベルには、ご丁寧に、放映日時と番組名が書かれていた。
どれも、壮五が出演した番組だった。
下段にはIDOLiSH7に関連する記事が乗った雑誌と、謎のファイルが数冊。
ファイルを開いてみれば、新聞の切り抜きや、ライブのチケットが綺麗に収められていた。
「会長は……お父様は、ずっと見ていられましたよ」
壮五が息を飲むのが、隣にいる環にはよくわかった。
その目が、大きく見開かれていることも。
「少し、見てもいいですか? 終わったら声をかけますから」
「はい。ごゆっくり」
環と二人、部屋に残される。
壮五が手にしたファイルを環が横から覗き込む形で、過ぎたライブを回想した。
一番古いチケットは、三分で完売した、二度目のライブのものだった。
ただし、それも含めて、どれも使われた形跡はなく、完全な状態で残っている。
「良かったな。親父さん、ちゃんと見ててくれたんじゃん」
「どうかな……結局、ライブには来なかったんじゃないか」
壮五の顔には、嬉しさと悲しさが同時にこみ上げたような、複雑な表情が浮かんでいる。
うーん、と環が唸った。
「わかんねーじゃん。あんたの父親なら、あんたに似て、いろいろ考えこむタイプかも」
「どういうこと?」
「行きたくて買ったけど、恥ずかしくなったとか、あんたに拒まれるのが怖くて行けなかった、とか」
こう見えても人を見る目はある、環がそう言うのだ。
例えば、壮五だったらどうだろう。
今、環やIDOLiSH7と袂を分かったとして、そのライブに行くことができるだろうか。
チケットを買うことはできても、顔を見ることはできるだろうか。
そう思えば、この使われなかったチケットたちの答えは明白だった。
何だかんだ、壮五は父親に少なからず似ているところがある。
壮五自身が、それを自覚していた。
本棚に向かったままファイルを抱えて俯く壮五の唇から、僅かに吐息が漏れる。
普段とは違う、熱と湿り気を孕んだ吐息だった。
隣にいた環は壮五の後ろに移動し、壮五の両脇からそれぞれ両腕を伸ばして、本棚に指先をついた。
ちょうど、腕の間に壮五が収まるかたちだ。
細い壮五は、体格の良い環の腕に、すっぽりと収まってしまう。
「泣いていーよ。そーちゃん」
すぐ目の前にある壮五の髪に、顔を埋める。
寮で使うシャンプーの匂いがする。
「そんな、こと……」
「今、誰もいないから。俺も、見ねーから。泣いていーよ」
やがてその頭が、小さく震えた。
「ふ……ぅ……」
小さく細く、油断すれば聞き逃してしまいそうな嗚咽。
ぱた、とファイルに涙が落ちる音がした。
環は、壮五を抱きしめたい衝動に駆られた。
昔、よく泣いていた理にそうしていたように。
けれど、見ない、と言った手前、そうすることもできない。
万に一つ、壮五が頼ってくるまでは。
「……っごめん……」
「ん? なに?」
「甘えたことを、言っても良いかな……」
両手でファイルを抱えていた壮五は、片手を離し、傍らにある環の袖を抓んだ。
弱々しく、振り払おうとすれば簡単に振り払えてしまう。
そうすればきっと、二度と触れては来ないだろう。
「涙、止めて……」
「え?」
「わからないんだ……泣くのは、久々すぎて……」
我慢が利かなかった。
愛しい、と思った。
泣くこともできない、やっと泣けたと思ったら、今度は涙の止め方もわからない、どうしようもなく不器用な、彼を。
肩を掴んで勢いよく壮五の体を反転させ、驚いたその顔を見もせず、突然のことによろける隙すら与えずに、細い体を抱きしめた。
ファイルが音を立てて床に落ちる。
ファイルに潰された足の痛みを気にする余裕もない。
一層強く抱きしめれば、堰を切ったように、子供が泣きじゃくるように、壮五は声を上げた。
背中に回された手も、涙で濡れる肩口すら愛おしい。
あやすように、軽く頭を叩けば、それからしばらく壮五の涙は止まることはなかった。
今まで我慢していた分を全て流しきるかのように、壮五は泣き続けた。
「大丈夫? 目元、腫れてないかな?」
ひとしきり泣いたあと、鏡で目元を見ながら、聞いてくる壮五に、だいじょーぶ、とそれなりに返事をする。
このやり取りももう三度目だ。
この際だからと本棚に残った私物を鞄に詰め込む壮五は、先ほどまで泣いていたとは思えない。
長居するつもりはなかったのに、気付けば日は傾き始めていた。
これから帰ります、と壮五がマネージャーにラビチャを送るのと、環が部屋のドアを開けるのは同時だった。
「さとーさーん。そーちゃん、泣き止んだー」
「た、環くん!」
現れた佐藤は何も言わず、ただにこりと微笑むだけだった。
それがまた恐ろしい。壮五が泣いていたことを見透かされているようだった。
「近くまで送っていきますよ」
「すみません、お忙しいのに」
「お構いなく」
会長である父親が不在の今、彼が父親の分まで仕事をこなしているであろうことは容易に想像できた。
だが佐藤はそれを態度には出さない。
それどころか、事務所まで送ってすらくれる。
「環くん。今日のこと、みんなには黙っていてくれる?」
「今日のことって? どこからどこまで?」
「全部だよ。父さ……父が倒れたところから、その、僕が泣いたところまで」
「あー、それなら……」
「まさか、もう言ったのか?」
「俺じゃねーよ。マネージャーからラビチャあって、がっくんからFSCの会長が倒れたって連絡来たー、って」
FSCはTRIGGERの番組のスポンサーでもある。
その会長が倒れたのだから、連絡がいくのも納得できる話だった。
マネージャー、それにIDOLiSH7のメンバーが知っているのはそこまでだ。
そこまでだが、今日突然休みを取った二人が会長のお見舞いに行ったであろうことは、恐らく全員が予想しているだろう。
実際その通りだけど、と壮五は小さく溜息をついた。
「みんなに心配をかけてしまうな」
「いーんじゃね。心配かけても」
「僕が泣いたことは、くれぐれも」
「わーってるって。言わねーよ」
独り占めしたいし、という呟きは壮五には届かなかった。
届かなくていいことだ。独り占めしたいその理由もわからない、今は、まだ。
「……そーだ、さっき調べたんだけどさ」
環は肩を寄せて携帯の画面を覗かせた。
つられて覗くと、ストレスについて書かれたページのようだった。
「知ってる? 涙流すのもだけど、ハグされんのもストレス減るんだって。俺さっき両方やった」
「そうだね。ありがとう」
得意気に言う環にお礼を言って、小さく笑う。
すると環は、今にも触れ合いそうだった指を触れさせて、指先を絡めた。
「環くん?」
「あと、触るのもいい、って書いてあった。だから、しばらく、こーしてよ」
だめ? と聞いてくる環を無碍にできるはずがない。
いいよと頷けば、環は笑った。壮五が好きな顔のひとつだった。
お互い、絡めた指先がひどく熱い。
けれどどちらにとっても嫌な熱さではなく、むしろ心地いい温度だった。
今日流した涙も、抱きしめあったことも、車を降りるまで繋いだ指も、二人だけの秘密になった。