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果てまでついていく

帝都には番犬がいる。
その噂話が流れ始めたのは、つい一年程前のことだ。
一年前、空は得体の知れないものに覆われ、学術都市アスピオは消え去り、いつしか空は元に戻っていた。
人々の知らないところで何かが起きていた。
それが何だったのか、帝国から説明はあったものの、全て理解できた者は僅かだった。
ただ漠然と、弱冠21歳で騎士団長代理に任命されたフレン・シーフォの活躍があったのだろう、とだけ。
やがて帝国と騎士団は、人々に魔導器を手放すよう促した。
生活の一部であった魔導器を手放そうという者はやはり少なかった。
だが新しい魔導器がつくられることもなく、更に帝国魔道士は修理すら拒む。
稀代の天才で魔導器馬鹿と謳われたあのリタ・モルディオでさえ、苦々しい顔をしながらも修理を拒むほどだ。
人々は魔導器を手放さざるを得なくなり、この一年で魔導器の数は一割減ったとされていた。
しかし、魔導器の恩恵から逃れられず、それに縋りつこうとする者は後を絶たない。
そういった者が闇の市に手を伸ばすのにそう時間はかからなかった。
その闇の市に、帝都の番犬の噂が付き纏っていた。
人々の多くはその噂を信じてはおらず、あるいはここが帝国のお膝元だから程度の理由で流していた。
今この時、隠れた魔道士から魔導器を買い取り、それを法外な値段で売ろうと考えるこの男も、また。

男はやっとの思いで手に入れた魔核を手に、帝都の路地を駆けた。
貴族であるこの男は、闇の市で魔導器を売り捌いているうちの一人だ。
新たな魔導器を売りたいからつくれと魔道士に命じれば、それには魔核が必要だと返される。
魔核は何処にあるかと聞けば、海辺にある青の洞窟にあると魔道士は言った。
青の洞窟には魔物が棲む。
夜な夜な咆哮が聞こえる分、帝都の番犬よりは信用できる噂だった。
その洞窟の奥、魔物を越えた更に奥に、それはあるのだと魔道士は繰り返した。
戦い慣れない男が一人で行けるような場所ではない。
加えて、その洞窟には昼にしか入ることができない。
夜には満潮で埋まってしまうのだ。
内容が内容だけに、ギルドに依頼するわけにもいかない。
そもそも魔物が出る洞窟にわざわざ踏み入ろうなどと考えるのは魔狩りの剣くらいだ。
そこで男は、魔導器を欲しがる人々にその情報を与えた。
魔核を持って来れば、安く売ってやる、とも。
その結果幾人もの人間が洞窟に踏み入り、そして帰って来なかった。
満潮で溺れ死んだか、噂の魔物にやられたか。
だがある時、一人の人間が、送り出した日の夕方に帰って来た。
その手に小さな魔核を持って。
聞けば、洞窟の入り口に小さな魔導器が落ちていたのだという。
何に使うものだったのかもわからず、筐体も痛んでいたが、魔核は無事なのではないか。
そう考えて、魔核だけを持って帰って来たのだ。
それを受け取り、男は市民街の外れ、下町に近い場所に住む魔道士にそれを渡しに行くつもりだった。
魔核を持って来たあの人間に魔導器を安く売るつもりなど最初からない。
口約束しかしていないことをいいことに、いつも通り法外な値段で売りつける予定だった。
「おい」
突如、闇の中から聞こえた声に、男は足を止めた。
人の気配はない。姿もない。
しかしそれは空耳ではなかった。
確かにはっきりと呼びかけられたのだ。
「おい、あんた」
先程より近く、すぐ背後で声がする。
振り返ると、そこには人が立っているようだった。
暗いこの道では目立たない黒い服に、黒い髪。
ぼんやりと、人の輪郭が見えるだけだ。
「あんた、やりすぎたな」
細身で髪の長い、けれど背丈と声は紛れもなく男。
男は魔核を強く握り締めた。
「な、何だ貴様は! これは私のものだ!」
「んなもん欲しがっちゃいねーよ。それより、あんたの行動のが問題だ。魔導器造らせて売り捌くまでは、まぁ目ぇ瞑ってたけど、市民を洞窟で見殺しは頂けねえな」
その人物は左手を振った。
手に持っていたのが剣だと、男はその時にやっと理解した。
鞘から抜かれ、剥き出しの刀身が、月明りで白く光る。
男は思わず息を飲んだ。
だが許してくれなどと請うのは、貴族の矜持が許さなかった。
「何が悪い! あいつらが魔導器を欲しがったんだ! 材料を取りに行かせて何が悪いか!」
「へえ、そーかい」
剣を突き付けられ、男はついに腰を抜かした。
これは番犬などではない。
纏う雰囲気は、まるで狼。
手に持っていた魔核が音を立てて落ちる。
目の前の人物は落とした魔核を拾い上げた。
「き、貴族の俺に、何たる……! 今なら、まだ見逃してやっても良いぞ! その魔核をこちらに渡すならな!」
「で? 死んだやつらに詫びるか? 何て詫びる? 死を以て、か?」
「死んで詫びるだと!? あいつらの命がこの俺と同等と!? ふざけるな! 下民など何人集まろうと、俺と同等では……」
刀身の光が揺らめいたのは一瞬だった。
気付けばその人物は男の背後にいて、男の肩からは剣が生えていた。
ぐちゅり、と音を立てて抜かれれば、遅れてやってくる痛み。肩から血が噴き出る。
刺された肩の、その先の腕と手の感覚がなくなっていく。
男は自らの悲鳴の中で、その低い声を聞いた。
「次、またやってみろ。今度は肩じゃ済まねえぞ」
その人物が立ち去るのを見届ける前に、男は地面に倒れこんだ。
翌朝市民に発見され、なんとか一命は取り留めたが、意識が戻ってからはずっと恐怖に怯えていた。
あれは番犬ではない、狼だ、とうわ言のように繰り返しているらしかった。

「……ということが先日あったんだが、身に覚えは?」
「さあな」
「ユーリ……全く、君って人は」
用事を終えて箒星に戻ってみれば、そこには珍しくフレンがいた。
多忙な団長代理が非番、というだけでも珍しいのに、更に珍しいことに、ユーリに用事があったらしい。
何事かと話を聞いてみればこれだ。
身に覚えは、と聞かれてしらを切ってはみたが、フレンはもう察しているのだろう。
毎度のような長い小言を覚悟したが、フレンは小さな溜息をついただけだった。
「手をこまねいている、とは言ったが、君にどうこうして欲しかったわけじゃない」
「わかってるよ。俺だって、お前のためにやったわけじゃないからな」
あの貴族が気に入らなかったのは本当だ。
制裁の理由は十分にあった。
それが結果的に、フレンのためになっただけだった。
「頼むから、これ以上罪を重ねないでくれ。君と法廷で会うなんてごめんだ」
「こっちだってごめんだ」
今の時点で、ユーリの犯した罪は全て保留にされていた。
そのうちのいくつかは清算されたことになっている。
騎士団との揉め事は相変わらず絶えないが、牢に入れられたのは、旅に出る直前のあれが最後だった。
その時の原因であったモルディオ邸への侵入、及びエステリーゼの誘拐はそれぞれ本人の口から異を唱えられたため帳消しになった。
脱獄の件は、モルディオ邸への侵入はなかった、あれは侵入ではなく呼び寄せたのだとリタが主張したことで、誤認逮捕として形式的な謝罪までされた。
バルボスやアレクセイの件はフレンの手柄として数えられ、ラゴウの死亡は紅の絆傭兵団との仲間割れで一先ず片付けられた。
キュモールの一件はそもそも知る者が少ない。ギルドの面々か、フレンが口を滑らせなければ済む話だった。
全てフレンが見逃し、隠し、後回しにした。
もちろん、追々きちんと裁かれるべきである、とフレンもユーリも思っている。
一先ず問題を先送りにしただけだ。
騎士からは疑問の声が絶えないのは当然のことだった。
他の騎士がやっていれば許せないようなことを、フレンにさせている。
フレンがそれを快く思わないことも知っていて、下町仲間だから情が湧いていると罵倒されているのも知っていて、全て押し付けた。
だがバルボスやラゴウの件は、フレンであれば到底手が出せない問題であり、それをユーリが背負ったことにフレンは気を揉んでいるらしかった。
今や互いの罪を互いに科す関係になってしまった。
いつか、どちらかがどちらかに裁かれる日が来るだろう。
法廷か、あるいは暗い路地裏か。いつか対峙するだろう。
夕暮れの中、光に溶け出すように箒星を出ていくフレンを見送って、心の中で呟く。
それまではせめて寄り添ってやるさ。
影は光がなければ存在できない。
だったら、どこまでだって付いて行ってやる。
光の後ろにできる影の部分なんて、お前は見なくていい。
俺だけが知っていればいい。
ただ時折振り返って、影がそこにあることを確かめてくれたら、それでいいんだ。

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