有名無実の恋
左近の話
「島、島、っと……」
人でごった返す前にクラス分けを見てしまおうと、朝一番に組み分け表の前に立ち、自分の名前を探す。
早いな新入生、こんな時間に来ても何もないぞ、と教師らしき男に笑いながら言われたのはつい五分前のことだ。
「お、あった」
一年三組と書かれた表の下に名前を見つけて、小さく呟く。
ついでに他のクラスも、と組み分け表をくまなく探す。
中学時代に見たことがあるような名前がちらほらあるが、探し物はそれではない。
自分のように、過去の記憶をもつかもしれない人。その人の過去世での名前。
いつの頃からか、見知った誰かの名前を探すのが癖になっていた。
探し始めてすぐに、彼は小さく溜息をつく。
「……いるわけねーっての」
今までに何度も探して、一度たりとも見つからなかった。
わかっているのに、組み分け表の前ではいつも探してしまう。
自分のように名前が変わっている可能性だってあるのだ。
見つかるはずがない。
腕時計に目を落とすと、教室集合まではまだかなり時間がある。
さすがに早く来すぎたな、と思いながら、その足は教室とは逆方向へ向かう。
時間はたっぷりあるのだ。少しくらい校内を探検するのもいいだろう。
校舎のほぼ中央部には、一階から三階まで吹き抜けになったラウンジがある。
生徒たちの憩いの場でもあり、中庭が雨で使えないとき、ここで弁当を食べたりもするようだ。
その二階部分から、階下のラウンジをなんとなく見下ろしてみた。
新しい学校だからか、あるいは年度末に念入りに掃除をしたのか、置かれたテーブルも椅子も綺麗だ。
自然光も入るその場所は、学校というよりはカフェのテラスのようで、ひどく不釣り合いに思える。
俺と同じかも、と半ば乗り出すようなかたちで、手摺りにもたれる。
いつかの橋の欄干とは違う、冷たい金属のそれを指の腹で撫でた。
死ぬことに後悔なんてなかった。
自分の命はとっくにあの人のものだと思っていた。
あの人が死ねと命じれば死ぬし、盾になれと言うならそれだって構わない。
あの人が、俺にとってのその人のような生きる支えを失くして、己を見失って、それを体を張ってでも戻すことができたなら、それでも良かったはずだった。
それなのに朦朧とする意識の中にほんの少しの後悔があるのは、彼を残していくせいだった。
かつての自分自身を見るような人。
自分が死んだと知ったら、彼は泣いてくれるだろうか。泣かずとも、少しくらいは悲しんでくれるだろうか。
あるいは世の常の一部だと流すだろうか。
こんなかたちで終わるなら、もっと伝えたかった。一緒に行きたい場所もあった。一緒に見たいものだってあった。
血の味しかしない口の中で小さく彼の名前を呟いて、意識は遠のいていく。
最後に会いたかった。もしも、次に会うことがあるのなら、きっと。
いや、そんなことがあるはずない。人は死んだらそれで終わりだ。
輪廻転生なんてお伽噺だ。生まれ変わったりしない。
だが、自分は気付けば生れ落ちていた。
もしも、彼も生まれ変わっていてくれたら。
「あなた」
小さな声でそう呼ばれ、肩に軽く手を置かれて、思わず体が跳ねた。
彼を呼んだらしい女子生徒も、驚いたように手を引っ込める。
「新入生でしょう? まだ時間はあるけど、そろそろ教室に行った方が良いと思うの」
「……あんた」
その生徒を知っている。
記憶とは纏う雰囲気が違うが、この顔を見間違えるはずがない。
女子生徒は首を傾げた。
「私? 私は新入生じゃないわ」
「そうじゃねえよ。そうじゃなくて」
あんた、お市さんだろ、という言葉を飲み込んだ。
この様子を見るに、彼女は何も知らない。覚えていない、という方が正しいかもしれない。
それに、彼女に会いたかったのは自分ではない。
自分が会いたかったのも彼女ではない。
そう押し留めて、彼は踵を返した。
三階の教室に行けば、既にいくつかの徒党はできており、思い思いに過ごしている。
あの頃の自分とほとんど変わらないような年齢の集まり。
だがあの頃の自分たちよりは子供に見える。
「おーい。清興」
徒党の中に中学時代の見知った顔を見付けて、手を上げてその輪の中へ入っていった。
一番会いたい人と再会する、その数年前のある春のことだった。