有名無実の恋
冬の章
ゼミでのディベートを終え、十二月に入った。
寒さは日毎に増し、街の装いも年末のそれになる。
その間、左近からの連絡は全くなく、勝家の方からも、とても連絡する気にはなれなかった。
謝りたい、とは思っていた。
謝って、友人としては付き合いたいと。
だが、何と謝ったら良いのかわからない。
謝ったところで、左近が今更受け入れてくれるとも思えない。
ならばせめて忘れたい、と立ち寄ったコンビニで、夕飯と一緒に酒を選んだ。
こんなもので忘れられるとも思えないが、気晴らしにはなるだろう。
家で一人で飲むのなら、誰に見られることもない。
どれにすべきか悩んでいると、店内にいた一人の女性が、大声を上げた。
ずっと誰かを電話をしているようではあったが、白熱してしまったらしい。
酒でも入っているのか、声は狭い店内中に響いている。
聞き耳を立てずとも、内容は入ってきてしまった。
あなたは私の上辺ばかり見て、中身を見てくれない。
結局、私自身を好きではないのでしょう。
そんなの、好きだと言われても、好かれていると思えない。
同じ外見で中身の違う誰かが現れたら、あなたはどちらでもいいんでしょう。
傍から見れば荒唐無稽な、ヒステリックに泣き叫ぶその内容に、図らずも自分の胸の内に気付いてしまう。
左近に好きだと告げられて、それを嫌悪した自分。
左近は、今の自分を見ていない。
過去の勝家ばかりを見て、今をその続きだと言う。
過去を別物だと考えたい勝家にとって、違う誰かを好きだと言っているも同義だ。
だから嫌悪したのだろう。
違う誰かを好きだと告げられて嫌悪するくらいには、とっくに左近に惚れていたのだろう。
自分の気持ちがわかってしまえば、懸念は何もない。
左近に連絡を取ろうと携帯を手に取り、通話ボタンを押す直前で思い留まった。
過去のように、左近がふといなくなったら、どうする。
また失ってしまえば、もう立ち上がれないかもしれない。
踏み込めば、失くした時の哀惜も大きい。
あのような思いはもうたくさんだった。これ以上失くしたくはない。
そこまで考えて、自嘲した。
昔の記憶に引かれているのは、むしろ自分の方だ。
引かれている、と思うから折り合いがつかない。
記憶を受け入れられたのだから、想いだって受容できるだろう。
左近が好きだ。
きっと、その思いを、過去と完全に切り離すことはできない。
だが、左近を想う気持ちは、紛れも無く今の自分のものだ。
過去は過去として、今世でも左近を想う。
その潔さが、何より今の自分らしい。
それを左近に伝えたかった。
あの日のことを謝って、今の想いを告げれば、昔のように戻れるだろうか。
いろいろ考えたけど、私もやっぱりあなたが好きです、なんて虫がよすぎる話だ。
結ばれたいとは思わない。せめて、伝えられたら、と。
通話ボタンを押して携帯を耳に当てれば、無機質なコール音が聞こえた。
あれから何度か電話をかけてみた。
思えば、最初を除けば、勝家の方から電話をかけるのは初めてかもしれなかった。
それぐらい、左近はいつだって近くにいてくれた。
だが電話は一度として繋がることはなく、留守電の返事も、メールの返信もなかった。
嫌われて当然だ。こちらから嫌ったのだから。
何度か喫茶店を覗いてもみたが、シフトが合わないのか、左近の姿は見付けられなかった。
年の瀬も押し迫った頃。
最後にするつもりで店に立ち入れば、やはりそこに左近の姿は無く、若い女性店員に迎えられた。
「ひとつ、伺いたいことが……」
「はい、何でしょうか?」
「島さこ……清興という店員は、出勤していないのでしょうか」
店員は怪訝な顔をして、それから驚くべきことを言った。
その店員は、少し前に辞めた、と。
左近が辞めたのは十一月になる前、勝家との一件があった直後のようだった。
次のバイト先は接客じゃないところらしい、というところまでご丁寧に教わって、深く頭を下げて店を後にする。
接客が嫌になったのかな、と女性店員は言っていたが、左近の心情を勝家はなんとなく予想できた。
恐らくは、うっかり自分に会うことがないから、なのだろう。
最初に会った時のような偶然が起きないように。
そこまで避けられているならいっそ清々しい。
ならばもう諦めてしまおう。
勝家は、左近で埋まった発信履歴をなぞった。
本当にこれで最後だ。
何度目になるかわからない、左近の番号を選ぶ。
やはり左近が出ることはなく、無感情な留守電のアナウンスが流れた。
「……何度も、連絡をして、すまない」
声は震えていないだろうか。
留守電の時間は短い。全て収めようと、少しばかり早口になった。
「もう一度、話がしたい。虫の良すぎる話だとわかっているが、もう一度だけ、お前に会いたい。それで、もう終わらせる。二度と関わらないと誓おう」
過去も、再会も、全て一時の気の迷いで、単なる遊びだったと決別しよう。
鉛を飲み下すような気持ちで、しかし確かに腹を決めた。
「明日の昼、あの公園で待っている。お前が現れるまで……現れなくとも、私は」
ずっと待っている、という言葉は、時間切れを知らせる音に遮られた。
彼は、やって来るだろうか。
きっと訪れはしないのだろう、とアドレス帳から左近の名前を選んだ。
『削除しますか?』という文字の上で指が悩む。
まだだ。これは、まだで良い。
もう一日だけ、左近を覚えていても許される。
あまり眠れずに迎えた翌日。
この冬一番の冷え込みになるでしょう、とアナウンサーが凍えた通りで、気温は朝から一向に上がらず、低い雲が上空を覆っていた。
東京でさえ、一部では雪が降るだろう、と言われるほどだった。
午前中に大学での用事を終え、昼食もそこそこに、公園のベンチに腰を下ろす。
吐き出した息が白く煙る。
この公園は、晴れてさえいれば、人々の憩いの場になっているようだった。
家族連れや、若者。時には恋人たち。
こんな天気でも、幾人かは訪れていた。
立ち寄っては、去っていく。
その中に待ち人の姿はない。
左近は来ない。
そうはわかっていても、諦めきれなかった。
自分はこんなに諦めが悪いのだと、漸く思い知った。
思い返せば、過去のあの頃から、惚れたものへの執着は強かった。
どれほど待っただろうか。
間も無く冬至を迎えるこの季節、日はとうに落ちて、鼻の先が赤くなり、上着のポケットに入れた指先がかじかんだ頃だ。
目の前に、ふわりと白いものが舞い降りた。
それは前髪に落ちて、すぐに消える。
見上げれば、ちらちらと雪が舞い始めていた。
そういえば左近と会った日も雨だった、と思い出す。
春のことが、昨日のことのようだった。
左近と過ごした時間は、光陰の矢よりも、更に一瞬のことだった。
それなのに、今までのどの時間よりも、濃くはっきり覚えている。
きっと、今更簡単には忘れられない。
寒空の下、左近に待たされたこの時でさえ、一生覚えているのだろう。
諦めて帰ってしまおうか、とも思ったが、それ以上に後悔したくはなかった。
今ここで帰れば、その記憶と共に、一生後悔することになる。
ずっと待つ、と言ったのだ。
まだ『今日』は終わっていない。
何より左近は、雨の中、来るつもりのなかった自分を、ずっと待っていた。
あの日の左近も、こんな気持ちだったのだろうか。
来るか来ないかわからない、きっと来ない相手を、それでも一縷の望みを賭けて待ち続ける。
時間は進み、家路を急ぐ人々の波が僅かに引いた頃、ぽそりと呟く声に顔を上げた。
勝家、と。
顔を上げれば、久方ぶりに見る、待ち人の姿。
会えた、と思うと、穏やかな気持ちが溢れる。
それを知る由もないのだろう、左近は大股で勝家に近付いた。
「さこ」
名前を呼ぶより早く、近付いてきたそのままの勢いで、抱き竦められる。
勝家より温かいその体が、何故か小さく震えていた。
「……っなんで」
「左近」
「なんで、いるんだよ!」
「待っている、と言った」
あの日とまるで反対になった。
左近は体を離すと、文句を言いながら勝家の頭を払った。
自覚はなかったが、うっすら雪が積もっていたらしい。
周りを見渡せば、一面白くなっている。
その銀世界の中、公園の端からこのベンチまで、一直線に伸びる足跡が、ただ愛しかった。
「とりあえずどっかファミレス……いや、それよりも長居できる……ああ、くそ」
やや乱暴に手首を掴まれ、引っ張られる。
歩き出したその方向は、ファミレスのある方向ではなかった。
「どこへ行くつもりだ」
「俺ん家。話、あんだろ。お互いに」
慣れ親しんだ、と言えるほど訪れてはいない、彼の家。
それでもその部屋の異常には、一歩踏み入れただけですぐにわかった。
明らかに散らかっている。
「……わり。ちょっと手ぇ、まわんなくて」
散らかったものを乱雑にどかし、左近は二人が座れるだけのスペースを開けた。
手が回らなかったのは、新しいバイトが忙しかったからか、それとも心に余裕がなかったからか。
どちらにしても自分のせいだと、勝家は申し訳なくなった。
いつかのように温かいコーヒーが出され、それをゆっくり啜った。
どちらも黙したまま、目線すら合わないまま、ただ気まずい時間が流れる。
埒が明かない。そもそもここへは、話をしに来たのだ。
「……すまなかった」
勝家が沈黙を破れば、それは思っていたよりも大きく響く。
左近が顔を上げ、見開かれた瞳と目が合う。
「一言、謝りたかった」
「……それは、俺を受け入れられなくてごめん、ってこと?」
そうだったら聞きたくない。そんな話をするなら帰ってくれ。
そう言う左近は、怒りよりも悲しみが見て取れた。
その答えは明確にしないまま、勝家は続ける。
「身勝手な話であることはわかっている。だが、どうか聞いて欲しい。……初めて会ったあの瞬間に、全ての記憶が溢れ出した。お前への慕情さえも」
「……なら、なんで駄目だったんだ」
「私自身が転生したことすら受け入れられなかったのだ。それだけで手一杯だった。ましてやお前への想いなど、そのように大きすぎるものは。それに、あの頃の記憶に流されるままお前を受け入れたら、今の私が消えてしまう気がした。今世の私は無かったことになるのではないかと」
最初から覚えていた左近とは違う、途中から思い出してしまった勝家の、決定的な違いでもあった。
思い出さない方が幸せだったとさえ思った。
だが忘れようとすればするほど、それは鮮明に蘇るのだ。
「私と柴田勝家は別人だと、切り離して考えようとした。お前への想いも切り離そうと。だが、とても無理な話だった。ならばせめて、受け入れることにしたまで。お前は島左近で、私は柴田勝家で、それで良いのだと」
「……勝家……」
「お前が、何もかも全て、あの頃のままが良いというのなら、きっと私は付き合えない。それが嫌だと言うのなら、今の私を嫌っても構わない。ただ……左近、私は、出来ることならお前とは疎遠になりたくない」
懇願にも似た我儘だった。
全て思うままにはできない。今を全て捨て去ることはできない。過去を受容することはできても、それに追い縋ることはできない。
過去は過去として、今は今として、左近と向き合いたい。
過去は、ただの記憶の一片に過ぎない。思い出して笑い合えることはできても、執着はしない。
そんな自分を受け入れて欲しい、という都合の良すぎる我儘だ。
左近は俯いてしまった。かと思えば、深く息を吐く。
馬鹿なことを言った、と勝家はその場から立ち去ろうと、少ない荷物を手に取った。
「……ずりぃよ」
だがその言葉に、動きが止まる。
俯いたまま、左近は小さな声で続けた。
「俺、あんたには嫌われてると思ってた。昔も、今も」
「嫌忌していると言った覚えはないが」
「けど、好きだとも言ってくれなかったじゃん。だからてっきり、好かれてないだろうって、友達以上にはなれないだろうって」
おずおずと伸ばされた手に、袖を摘まれる。
左近とは思えないほど、弱く、細く。
勝家はその手を振り払って引き剥がすと、逆に強く握り返した。
弾かれたように、左近が顔を上げる。
「私が、想ってもいない相手に、気を許すと思うのか」
「でも、あんたにはあの人がいたから……あの人を忘れらんないって、わかってたから」
「ああ。だがお前には恩義を感じていた故、申し出を受けた」
「そうだ。そんで、あんたは義理堅いから、最期まで俺に付き合ってくれて……勝家さ、前に言ったよな。好きでもない相手に、求めたりしないって」
夏に、二人で飲んだ時だ。
記憶にうっすらと残っている。
高校時代に付き合った人を指して、そう言った。
「あの頃、勝家が俺を求めてくれたことなんてなかった。俺のこと好きじゃないって、わかってたつもりだけど、やっぱ辛ぇよ。俺はどうしたってあんたが好きだ。好きなんだよ。だから、頼むから……俺のこと、少しは好きになってよ。勝家」
「……お前は、仕方が無いな」
何もわかっていない。
告げていないのだから、わからないのも無理はない。
勝家も、左近の胸の内など知らなかったのだから。
「あの頃私を求めなかったのは、お前の方だろう。お前が私を拒むから、私はお前を求めなかった」
「俺が、いつ……!」
「何故、私の許しがなければ、触れることさえしなかった」
その許しを請うことすらしなかった。
勝家の方から、良い、と言うまで。
無論、あの頃の勝家が、自分から左近に言えたためしなどない。
「それは……それは、あんたが……」
握った手に、無意識に力が籠る。
左近は、僅かに目を見開いた。
「……そうじゃ、ねえの? 俺、あんたにずっと聞けなかった。否定されんのが怖くて、ずっと……けど」
あの時も、あの時も、あの時も。
勝家の言動や行動で、左近が密かに舞い上がっていたあの瞬間。
あれは自惚れではなかったのか、という問い全てに、勝家は頷いた。
「私は、お前ならば良いと思った。お前が相手なら、お市様よりも……私は四百年前のあの頃から、ずっと、お前と同じ胸懐だ」
「かつい……」
「好きだ。左近」
掴んでいたはずの手がするりと抜けて、代わりに肩を押された。
視界が反転し、気付けば逆光になった左近の顔の向こうに天井が見える。
押し倒されたのだ、と理解するのに時間はかからなかった。
「あとどれくらい、って思ってたよ。あとどれくらい待てば、あんたは会いに来てくれるだろうって。けど、会えないだろうとも思ってた。俺が生まれ変わって、あんたが生まれ変わらなかったのは、さよならを言わなかった俺に、腹を立ててるからだって。だったらせめて、あとどれくらい経ったら忘れられるだろうって、俺の中からあんたが消えるだろうって思ったよ。あんたを忘れたかった」
「輪廻転生は、お前が思っているよりずっと難しいことだ。二人揃って転生など、有り得ない話だろう」
「だけど、有り得た。あんたは、また俺の前に現れてくれた。今更離せねえし、これ以上待てねえ」
拒むなら今のうちだ。まだ手を離せるうちに。
嫌い、とたった一言さえ言ったなら、今なら諦めもつく。
さっきまでのは冗談だったと言ってくれ。
そう言う左近を無視して、手を伸ばしてその頬に触れた。
「お前の最期に、不満がなかったわけでもない。だが、お前が決めたことだ。私がどうこう言えることではなかった。それに、言ったところで、お前が還らないのもわかっていた」
別れはいつか来るものだとわかっていた。それがまさか早いなどとは思わなかっただけで。
これほど早く別れるのなら、胸の内を伝えておけばよかった。踏み込まなければよかった。もっと話していたかった。出会わなければよかった。
そんな相反する思いを抱えた末に、喪失を怖れてしまった。
自分が傷付かないようにと。
だが傷付いていたのは、自分だけではなかったのだ。
嫌われていると思いながらも、また会えるわけないと絶望しながらも、それでも自分を探してくれた。
また左近に助けられた、と頬を緩めれば、同じように左近も笑った。
頬に触れたままの手を取られ、手のひらに唇が触れる。
くすぐったさに左近の鼻を抓み、私の唇はそこではない、とだけ告げた。
年明けも間も無く。
もう研究室も動き出している。卒論のテーマもそろそろ絞らねばならない。
その間にも、企業説明会やらエントリーシートやら、場合によってはインターンシップもあるのだろう。
日々は目まぐるしく過ぎていく。
そうしたらすぐに春だ。
東京に来て、二度目の春が来る。
左近と出会って、幾度目かの春が来る。