有名無実の恋
秋の章
宅飲み以降、左近と合わない日が続いていた。
理由は恐らく二つ。そのうちひとつは、確実に自分に原因がある、と勝家は重々理解していた。
十一月に、またしてもゼミでのディベートがあるのだ。
十月の初旬を過ぎたこの時期、また忙しくなり始めている。
それを伝えてあるために、左近は声をかけて来ないのだろうと。
だがそれ以前から、どういうわけか左近に避けられているような気がしていた。
六月の様子からすれば、頻繁とまではいかなくとも、メールなり電話で連絡を取ってきそうなものだ。
九月、それが数えるほどしかなかった。
思い当たる節は、あると言えばある。
もう一つの理由、そのきっかけは、宅飲みの日の帰り際のことだった。
あの日、目が覚めた時、勝家は空き缶の入ったビニール袋を抱え、未開封のポテトチップスを枕にしていた。
どうやら日付は翌日、それも日が高く昇った時間帯らしく、家主である左近の姿はない。
玄関を見れば勝家一人分の靴しかなく、買い物にでも行ったのだろうかと携帯電話に手を伸ばしたところで、玄関の鍵が開けられた。
「おっ、起きてる。おはよう」
「ああ……出かけていたのだな」
「ちっと、コンビニにな。ほい、朝飯」
手渡された袋には、いくつかのおにぎりと、ペットボトルのお茶が二本入っていた。
好きなの取って、と言われ、その言葉に甘えて梅と昆布のおにぎりを取り出し、残りを返す。
勝家の手にある梅と昆布を見れば、左近はやっぱりなと笑った。
もそもそ、という効果音が似合いそうなほどゆっくりと、たった二つのおにぎりを平らげ、それからようやく散らかした部屋の片付けを始めた。
とはいえ、勝家が寝ている間に左近がある程度まで片付けていたようで、残った作業はほとんどない。
空き缶の袋を縛り、床に掃除機をかけるだけだ。
勝家が枕にしていたせいで粉々になったポテトチップスは、あとでサラダにでもかける、と左近が戸棚にしまいこんだ。
「昨日のことって、やっぱり覚えてねえの?」
「覚えている……とは思うが。いや、忘れていることすら解らないが正しいな」
「高校時代の元カノの話は?」
「……記憶にない」
そんなことまで話したのか、と頭を抱えたくなった。
酔うと饒舌になる上にそれを覚えていないという自分の奇癖は承知していたが、ひどいものだ。
相手が左近だから、油断したのか。
そろそろ帰る、と立ち上がれば、左近は玄関まで見送りに来た。
「また、そのうちに」
「……なあ、勝家……」
帰り際、蚊の鳴くような声で左近は何事か呟いた。
ほんの数秒、沈黙が流れる。
「……よく聞こえなかった」
そう答えれば、左近はへらりと笑う。
「なんでもねえよ。じゃ、またな」
いつも通りだと思った。
いつも通りの別れのはずだった。
原因があるとすれば、左近の問いかけに答えなかったことか。
よく聞こえなかったと嘯いたことか。
左近は、それを怒っているのかもしれなかった。
答えようがなかったのだ。
勝家自身、未だわからずにいる、その問いには。
「もしもし。あのさ、今時間いい?」
昼休み。学食で昼食を注文し、丁度席についたところで、左近からの着信があった。
正直なところ、まだ煮え切らない今の気持ちで、左近と話したくはなかった。
だが左近からの連絡が減って、それを寂しく感じる自分も確かにいる。
「こないだ、忘れ物したろ」
「いや……そのような覚えはない」
酔っていたとはいえ、帰り際には酔いは覚めていたし、部屋の掃除も二人でした。
その後、何かが足りないということもなかったはずだ。少なくとも日常生活に必要な物は何も。
何より、八月の忘れ物に、今頃気付くだろうか。
これまで何度か、頻度こそ減ったものの確かに連絡をくれていたが、その間は一言もそんなことは言わなかった。
「掃除したら出てきたんだよ」
そんな勝家の心中を察してか、左近がそう告げる。
その言葉に、益々わからなくなった。
掃除をしなければ出てこないような、恐らく小さいもの。
「どんなものだ?」
「えーっと、何だろう……よくわかんねえや」
「私ではなく、他の誰かの忘れ物ではないのか」
「けど、あれ以降、誰も部屋には上げてないし。俺のじゃなきゃ、あんたのっしょ」
小さく、一見するとよくわからないようなもの。
思い当たるふしがまるでない。
勝家はそんなものはないと言って引かず、左近もまた確かに忘れ物だと言って聞かない。
押し問答だ。
賑わう学食の中とはいえ、徐々に大きくなっていく勝家の声に、周囲も様子を伺い始めた。
先に折れたのは勝家の方だった。
「俺、明日ならいるから」
「わかった。寄らせてもらう」
電話を切って、深く溜息を吐く。
左近に対してではない。
つい今しがたの自分の言動を反芻して、だった。
行くと言ってしまった。
長居して話でもされたら、どうしようもない。
左近は、今の勝家を、過去の勝家の生まれ変わりだと信じている。
実際そうであるし、勝家もそこを今更否定するつもりはない。
そのくらいには受容できた。
だが、だからといって、あの頃と同じように左近とは付き合えない。
今を『あの頃の続き』だとはどうしても思いたくなかった。
今の勝家には、『生まれ変わり』ではなく『一人の人間』としてこれまで生きてきた時間がある。
過去世に囚われず、思うように生きてきた時間が。
今をあの頃の続きだと言うのなら、そうして過ごしてきた二十年足らずを捨てることに等しかった。
そうでなくても、左近に気持ちが傾いている自分がいる。
友人として以上に、彼を好ましいと思う気持ちが。
この気持ちが今の自分の気持ちなのか、それとも過去に引っ張られているだけなのか、まだわからなかった。
だからあの時、すぐに答えられなかったのだ。
蚊の鳴くような声で聞かれた、俺のこと好きなの、という問いには。
独り暮らし用のマンションにありがちな、申し訳程度のオートロックに、先日訪れた部屋の番号を入れる。
今開けるよ、という簡潔な返事と共に、ガラスの扉が開く。
階段をひとつ上がって、目的の部屋のインターホンを、もう一度鳴らした。
すぐにドアが開き、見慣れた顔がへらりと笑う。
「いらっしゃい。まあ上がって上がって」
「ものを受け取ったらすぐに帰る」
「そう言わずにさ。それとも明日、何か用事でもある?」
特にないが、と言ってしまえば、あとは流れこむように部屋に連れ込まれた。
少しくらいなら、といつかのように床に敷かれたラグに座れば、温かいコーヒーが出された。
砂糖もミルクも入っていない、少し濃い目のブラック。
好みを知られているというのは厄介だ。
つい一息ついてしまう。
「それで、忘れ物とは何だ」
「あー、うん、えっと」
煮え切らない返事。
目が泳ぎ始める。
まさか、とは思いつつも、次の言葉を待った。
「……嘘なんだ」
「帰る」
「待ってくれって!」
立ち上がろうとした腕を強く掴まれた。
そんな怖い顔しなくても、と言われるあたり、相当な表情をしていたらしい。
勝家本人には自覚はなかったが。
「ちゃんと、あんたと話さなきゃって思った」
まるで逆だった。
勝家は、まだ話したくない、と思っていた。
あわよくば、そのまま有耶無耶になってしまえ、とさえ。
そうならないことがわかっていたからこそ、そう思っていたのだろう。
手を引かれるまま再び腰を下ろせば、左近は小さく息を吐いてから話し始めた。
但し手は掴まれたまま。
「気付いてないわけないよな」
「……何を」
「俺が、あんたを」
そこで左近は頭を振った。
「……なあ。ちゃんと言う。ちゃんと言うから、ちゃんと聞いて」
真剣に見つめられ、同じように見つめ返す。
何を言われるのかはおおよそ検討がついていて、だからこそ聞きたくなかった。
「好きだ。あの頃からずっと、今でも。あんたのことだけが好き」
今はまだ聞きたくなかった言葉。
思わず目線を逸らした。
戸惑い、というよりは、嫌悪に近かった。
その嫌悪の理由は、勝家自身もわからなかった。
ただ、自分の眉根が寄ることだけがわかる。
「嘯くな」
「え?」
「私に懸想しているなどと嘯くな」
「嘘じゃない! 嘘なんかじゃ」
「虚言でないなら世迷言だ」
睨むつもりで見上げれば、不安そうに瞳が揺れた。
男にしては大きな、人懐っこそうな瞳が歪む。
「お前は、昔の記憶に引かれているだけだ」
それは、自分に言い聞かせているようでもあった。
「昔の記憶じゃない。確かに前世ではあるけど、俺の記憶だ」
「その記憶の中の『柴田勝家』に傾慕しているのだろう」
「そうだ。あんたにだよ」
掴まれた手に力が込められる。
それ以上の力で、その手を振り払った。
声には出さずに、口元だけで、触れるな、と呟く。
「かつ、」
「清興」
名前を呼べば、左近の表情も動きも固まった。
紛れもなく、彼の名前だ。今の彼の名。
「お前は『左近』ではない。『清興』なのだろう。私も柴田勝家ではない。ただ同じ名前というだけの、ただの学生だ」
「勝家」
「私が、その『柴田勝家』だという証拠がどこにある。顔が似ているだけの、別人だとは思わないのか」
屁理屈だと自覚していた。
現に自分にはあの頃の記憶がある。
左近もそれを知っているはずだった。
「違う、あんたは勝家だよ。で、俺は左近だ。あの頃と同じ」
「お前が懸想しているのは、あの頃の『柴田勝家』だ。それは私ではない」
勝家にとっては同じではない。
戦国の世で過ごしたあの日々は、過去のことだ。
今世で柴田勝家として過ごしてきた年月は、あの頃の続きではない。
「私は、お前が欲しているものにはなれない。欲している言葉も言えない」
だから、もう構うな。
そこまでを言うことはできなかった。
そうまで突き放すことはできないと口を噤む。
そうさせたのは過去からの記憶なのか、良心の呵責か、泣き出しそうな左近の顔か。
荷物をまとめ、立ち上がって部屋を出ても、左近は追いかけては来ない。
嫌に大きな音を立てて閉まった重い扉が、永遠の別れのようにすら思える。
これでよかったのだ、きっと。
勝家がそうなれないのと同じように、勝家が求める『左近』にだって、きっと彼はなれない。
それなのに、胸中の暗雲は晴れない。