有名無実の恋
夏の章 2
「さっきの子、誰? 可愛かったじゃん。付き合ってんの?」
何の気なしに問いかけた。
左近にしてみれば、軽い冗談のつもりで。
「そうだ、と言ったらどうする」
「え……」
だが勝家の答えは予想外で、絶句するには十分過ぎるほどだった。
「お前にも、そういった相手が見付かれば良いな」
更に追い打ちをかけるようにそう言われ、その場から一歩も動けない。
ただ先程の女子と、目の前の勝家に対するどす黒い感情だけが渦巻いている。
急に押し黙り、その場から歩き出そうともしない左近を不思議に思ったのか、勝家が首を傾げた。
その口が何かを紡ごうと開きかけるより早く、その手を勢いよく引いた。
咄嗟のことに反応できずに驚く勝家の手首を強く掴んだまま、その手を壁に押し付けるように追い込んだ。
「……左、近」
人が見ている、と呟くその口を、すぐにでも塞いでやりたいとさえ思った。
それができる距離に、自分も勝家もいる。
駅の出入り口の片隅。人通りは多いほどだ。
何だ、喧嘩か、という周囲の僅かな声と視線が、何とか左近を思い留まらせていた。
「……酷ぇこと言うのな」
真っ直ぐに勝家を見ることができずに目を逸らす。
顔を見てしまえば、腹の底で渦巻く感情に支配されて、その衝動に駆られてしまう。
「俺は、あんたが」
好きなのに。
そう言ってしまえば、困らせるのは目に見えていた。
勝家は薄らぼんやりと気付いてはいるのだろう。
今生では告げていなくても、過去では幾度となく伝えたのだ。
今でも勝家が好きだと、聡い彼なら察せられないはずがない。
自分は今、どんな顔をしているのだろう。
目の前にある、暗い色の双眸に、情けない自分は映っているだろうか。
瞳を盗み見るように顔を上げれば、自分の姿よりも先に、驚嘆に目を見開く勝家が目に飛び込んだ。
「……悪い」
「いや……」
慌てて、しかし名残惜しくゆっくりと手を離せば、勝家は手首を軽く振った。
細い手首に、左近の手の跡が絡みつく。
すぐに消えるだろうとはいえ、勝家を傷付けたことを後悔した。
左近が動き出せずにいると、勝家もその場から動かなかった。
こんな自分に、まだ付き合ってくれる。
それだけで救われた想いだった。
女々しい嫉妬だ、と打ち明けても、勝家は幻滅せずにいてくれるだろうか。
そんな馬鹿みたいな想いは、今はまだ話せそうにはなかった。
「……先程の話だが」
怒られる。あるいは突き放される。
心臓が跳ねる。肩まで跳ねなかったのは幸いだった。
きっと、勝家にはそんな動揺さえ知られてしまっているのだろうが。
「彼女と交際している、というのは嘘だ」
どうしてそんな嘘を、と聞く権利は、左近にはない。
今の勝家とは、今はまだ友人止まりだ。
左近がそう思っていなくても、勝家はそう思っているだろう。
何より、これ以上醜態を晒したくなかった。
「お前が、少々距離を置いてくれたら、と思ったまで」
「そんなに、俺が嫌い? 俺が邪魔?」
けれど勝家の前で、平静が保てない。
取り繕うことができない。
決して見せたくはない胸の内を、晒してしまう。
「嫌い、ではない。邪魔、という程でも……」
勝家は口を噤み、眉根を寄せて考え込んだ。
その沈黙が怖い。
直前に『嫌いじゃない』と言われていなかったら、逃げ出していてもおかしくなかった。
「邪魔だと思うなら、お前と共に居ようなどと思わない」
「じゃあ、何で……」
「……お前と居ると」
眉根を寄せたまま、勝家は左近を見据えた。
複雑な表情をしていて、読めない。
怒っているようにも、泣き出しそうにも見える。
「気持の整理がつかない」
それは、良くも悪くも左近が勝家の心を掻き乱している、ということでもあった。
それを良い方にしか捉えられないから、『恋は盲目』などと言われるのだろう。
言ってから気付いたように目を伏せるさますら、可愛いと思ってしまう。
あの花火大会の日からしばらく。
大量のビール券と携帯を握り締め、左近は考え込んでいた。
このビール券は、バイト先の店長が夏のボーナスに、とくれたものだった。
バイト全員に配ったらしいが、酒が好きでなかったり、家では飲まなかったりという理由で左近に押し付けられ、気付けば大量になってしまっていた。
このビール券で酒を買って、勝家と宅飲みをしようか、と目論んでいた。
八月初旬、勝家が言っていた盂蘭盆にはまだ少し早いが、誘ったら来てくれるだろうか。
あるいは勝家の家でも構わないのだが。
一緒に出かけたことはあれど、家に呼んだことはない。
ハードルが高すぎる、と携帯を握り締めて早一時間。
三回鳴って出なければ諦める、といつかのように決心して、ようやく勝家に電話をかける。
一回。二回。そして三回。
四回目のコール音が鳴りかけたところで、思わず下唇を噛んだ。
よし、この話は終わりだ。
ビール券は今度、勝家にでもあげれば良いだろう。
研究室仲間と飲むはずだ。
いつも通りに出かける予定を立てようと頭を切り替えたところで、勝家の控えめな声が聞こえた。
「……何だ」
控えめというよりは、不機嫌だろうか。
いつもより三割増しで低い。
「あー、えっと、今、平気?」
「……構わない」
「……なんか、怒ってる?」
そろりと聞いてみると、勝家の声が僅かに上がる。
「いや……そう聞こえるか」
「うん、すごく」
「寝起きだ」
こんな時間に、と思わず聞き返しそうになる。
聞けば、ディベートが終わり、テストも全て終わって、疲れが出たのだろうということだった。
風呂にも入らなければならなかったから、起こしてくれて丁度良かった、と告げられる。
「用件は何だ」
「ビール券もらったんだけどさ、勝家、いらね? 研究室仲間と飲んだりするかなーって」
「……いや、彼らとはそこまでの付き合いはない」
「じゃあ、俺と飲む? 宅飲み」
諦めたはずなのに、そんな言葉が口をついて出る。
電話の向こうで、勝家が押し黙った。
ああもう馬鹿なことを、と取り消そうとした。
「そうだな。お前ならば、良い」
取り消そうとしたが、その一言に今度は左近が黙る番だった。
今、勝家は何と言った。
宅飲みをしても良いと。左近と二人で。
「左近? 寝たのか?」
「いや、そんな……あんたじゃあるまいし」
どっちの家で。どちらでも良い。
いつにしようか。八月中ならいつでも良い。
そんな問答を繰り返して、ならばもう明日でいいかと半ば強引に取り付けた。
明日、左近のバイト終わりにそのまま買いに行って、左近の家の方が近いから左近の家で。
閉店時間の少し前にそっちに行く、とは勝家の方から言ったことだ。
いつも出かけるときと同じように約束して、電話を切る。
あまりにいつも通り過ぎて、夢じゃないかとまた携帯を握り締めた。
「夢じゃなかった……」
「何を言っている」
シャッターを閉めるために外に出れば、屋根の下で待っている勝家の姿があった。
待たせてはいけない、とすぐにシャッターを閉め、掃除と次の日の準備をして、着替えてタイムカードを押して。
それでも三十分はかかってしまった。
さすがに風邪を引かせることはないだろうが、申し訳ないことに変わりはない。
近くにコンビニに入り、ビール券を使い切るだけの酒とつまみを買って、左近の家まで歩いていく。
大量にあると思われたビール券だったが、使ってみるとそんなことはなく、二人で丁度いいくらいの量だった。
研究室で飲むには足りなかっただろう。
「なあ、なんでオッケーしてくれたわけ?」
それぞれ一本ずつ手に持って、残りを一先ず冷蔵庫にしまったところで問いかけた。
逡巡の後、勝家はそろりと口を開いた。
「……四月に、一度ゼミで飲み会をしたのだが」
「うん」
「私は、酔うと饒舌になるらしい。散々管を巻き、取り留めのない話から愚痴から薀蓄から、それはひどい有様だった。と、後から聞いた」
「後から聞いた、って、覚えてねーの?」
「半分ほどしか。顔に出ない上、千鳥足にもならないから、酔っているのかいつも通りなのか判断できなくて困った、と聞かされた」
変わってないんだな、と左近は小さく笑う。
昔と同じだ。
酔うとお市のことから織田のこと、伊達のことや左近への心情まで、余すことなく話していたあの頃と。
それに驚いたのは初めだけで、慣れれば可愛いものだと笑えるようになった。
「それ以来、研究室で飲むのは避けている。あれ以上の醜態は晒さないようにしている」
「俺にはいいの?」
「宅飲みなら、少なくともお前にしか醜態は見られないだろう」
部屋を飛び出す、というようなことまでは仕出かさないらしい。
管を巻くだけ巻いて、話し終えたら眠ってしまうのだと。
「お前が心の内に留めておけば問題ない」
「どこかでぽろっと喋ったら?」
「殺す」
揃って缶を開ける音にかき消されるように、低くそう言う。
勢いのある言い方ではなかったのに、本当に人でも殺せそうだ、と思わず身が竦んだ。
「冗談だ」
勝家は口を開けた缶を、同じく左近の手にある缶に軽くぶつけた。
こん、と小さな音を響かせて、缶を口に運ぶ。
白い喉が上下に動くのを眺めながら、左近も缶を口に運んだ。
テーブルの上につまみのカスが散乱し始め、傍らに置いたビニール袋の中に空き缶が溜まり始めた頃には、勝家はすっかりできあがっていた。
やはり、顔には出ない。
目が熱を帯びる、ということもなく、至っていつも通りだ。
それなのに左近が口を挟む間もないほど一人で喋り倒し、内容も過去と現在を行ったり来たりする。
いつもと同じように、淡々と、けれど延々と喋るのだ。
それはさながらモノローグのようだった。
昔から思っていたことだが、左近はこうなった勝家が、なかなか愉快で好きだった。
本人に言えば怒られるだろうから、決して口にはしなかったが。
「なあ、俺も話したいんだけど」
「話せば良いだろう」
「じゃ、質問していい?」
「よし、来い」
普段であればまず言わないような返答に笑ってから、左近は口を開いた。
「これまで付き合ってた人いんの?」
ずっと気になっていたことだ。
先日、同じゼミの学生だという彼女と勝家の会話を見てから、いつか聞こうと思っていた。
「高校生の頃、短い期間ではあったが。今にしてみれば、付き合っていた、と言えるのかどうかわからないが、少なくとも当時はそのつもりだった」
「どんな子?」
「一学年下、同じ委員会の、真面目な……」
ひとつひとつ思い起こすように話していたが、そこでふと黙った。
「今ではもう、顔も名も朧げにしか覚えていない」
「付き合ってたのに忘れちまったの? 好きだったんだろ?」
「好き?」
勝家は小さく首を傾げ、そして缶を呷った。
「好感こそあれど、恋慕ではなかった。告白され、断る理由もなかった故」
それはきっと性格的なものであり、また事実でもある。
昔から、自分がどうしたいかを二の次に回しがちだった。
だがその言葉が、その性格が、今の左近には突き刺さった。
「キスとか、した? それ以上のことも」
「それ以上とは、つまり」
「言わなくていいから! したの!? してねーの!?」
「いや。そういったことを求めてくる女性ではなかった」
「あんたから求めたりは?」
「想ってもいない相手に、求めなどしないだろう」
酔っ払いの言うことだ、と割り切ってしまえばいいのに、勝家の言うことは一応全て本心だから、無視できない。
あの頃、勝家の方から求めてきたことなどあっただろうか。
思い出せるのは、いつだって自分が勝家に迫ったことだけだ。
それが控えめで奥ゆかしくていじらしい、と当時は思っていた。
けれど、今の言葉がきっと勝家の本心だ。
あの頃の自分も、きっと簡単に捨てられる。
「そうだ、最後のデート……デートだろうか……とにかく最後に出かけた時だ。博物館でとある武将の展示を期間限定で行って、それを見に行った」
「その惚気、俺聞かなきゃダメ?」
「私の展示だった」
聞きたくない、と耳を塞ごうとしたのに、その言葉で一気に興味を引かれる。
今生の勝家が、過去の勝家の生涯を見に行ったというのか。
想像すれば笑える様だ。
勝家が、そこで初めて思い出したのだ、と続けたがために、笑えない話にはなったが。
「そこで、私が書いたという書状を見た。『奥州は新緑の季節、大坂の青葉も見物と存じ上げる……』」
大坂、と聞き返すより早く、勝家はその手紙をそらんじた。
聞いているうちに顔が熱くなる。
紛れもなく、自分に宛てられた手紙。
何度も読み返した中の一枚。左近も内容を全て覚えている。
几帳面な文字が、今でも目の前に浮かぶ。
小難しく回りくどい言葉で、要約すれば『会いたい』という内容。
それを読んで、どうにか無理をして、すぐに馬を走らせたのを覚えている。
「好きだったのだな、あの頃の私は」
「じゃあ、今は?」
勝家はじっと左近を見つめた。
聞きたい。けれど。
開きかけた勝家の口を、片手で押さえる。
驚く勝家に、へらりと笑ってみせた。
「やっぱ、ダメ。悪いんだけど、それ、酔ってない時に言ってくれる?」
手をどければ、わかった、と言いながら、開いた口に缶を押し付けた。
その口から出るはずだったのは、果たしてどっちだったのか。
楽しみは精々とっておくさと、左近も缶を呷った。