有名無実の恋
夏の章
何故あの時断らなかったのだろうか。
都合がつけば、というのは断る時の常套句の筈だ。
それなのに、その後に誘いに、素直に頷いてしまった。
自分は嘘がつけない性格だっただろうか。
思い返してみればそんなことはない。
確かに、自ら進んで嘘を口にする性格ではなかったが、嫌なことをやんわり断るくらいはできていたはずだ。
相手が彼だから、断りきれなかったのか。
あるいは、心のどこかで嫌ではないと思っているのか。
その理由もわからないまま、月に二度程度のペースで彼と出かけるようになっていた。
出かけるといっても、遠出をしたり一日中一緒にいるわけではない。
休みの日は昼過ぎから夕方頃まで、どちらかに用事のある日は夕方から数時間、特に何をするわけでもなくただ話し込む。
彼は饒舌だ。話に引き込まれることも多い。
時折、昔はこうだったな、と口にすることがある。
それを言った後、決まってバツが悪そうに目を伏せる。
自分が、きっと好まない表情をしていたのだろう。
事実、まだ受け入れきれないでいた。
「ところで、左近」
「ん?」
六月の後半のとある休日。
緩やかに雨の降るその日も、向かい合って座っていた。
この後は勝家が求める参考書を探しに本屋へ行く。
その後は左近に付き合って服屋だったか。
動き回る前にきちんと伝えておこうと、口を開いた。
「七月、少々多忙になる」
「なんかあんの?」
「ああ。ゼミのディベートと、レポートが」
五月にも一度ディベートはあった。
が、まだ初回だったため準備に然程の時間も取られなかった。
しかし今回は、五月のようにはいかないだろう。
加えて、五月にはなかったレポート提出まである。
休みの日だからと遊んでいられないのが予想できた。
日頃から真面目にやっていると自負している勝家でさえ、休日を返上しなければならないほどだ。
大して真面目とも思えない同期生もいる研究室が忙しなくなるのは目に見えていた。
「後半、夏休みに入る直前は休みなく、それこそ働き蜂のように動き回っていることだろう。すまないが、誘われても応えられない」
すまない、と多少なりとも思っていた自分に驚いた。
左近に対して、感謝の気持ちも、罪の意識も、気付かないうちに持っていたらしい。
「じゃ、七月の頭は?」
「その時期ならばまだ、なんとか」
「なら、ちょっと遠出しね? 七夕祭りなんだけど」
遠出、というとどの程度だろうか。
日帰りで帰って来られる距離ならば問題はない。
けれど電車やバスに長時間揺られるのはあまり好きではない。
七夕祭り、と聞くと有名なのは仙台だが、仙台まで連れて行かれるのだろうか。
「お前の地元は、東北なのか」
「東北? なんで?」
「七夕祭り、と言っただろう」
「ああ、それで仙台? ちげーよ。俺、出身は関西の方」
思わず手が止まる。
意外だった。
関西、という割に言葉の節々にその特徴は見られない。
どうしてなのかと聞けば、まあ色々、と濁される。
「それより、七夕祭り。行くの?」
「何処だ」
「平塚」
確かに仙台ほど遠くはない。
人によっては近いと言うだろう。
遠くもないけれど近くもない、電車を乗り継いでおよそ一時間二十分。
その程度の距離だ。
多少交通費がかかるとしても、日本三大七夕祭りに数えられるほどのものだ。
「日にちは」
「最終日にすっかな。七月五日、日曜」
「予定はない」
「なら、よかった」
次回の約束を取り付けて、別れる。
いつも通りだった。
その日も、しばらく話し込んでから、いつもと同じように別れた。
「……浴衣じゃねーじゃん!」
「着てこいとは言われていない。何より持っていない」
新宿で待ち合わせた時、驚いたのはお互い様だった。
勝家は、まさか左近が浴衣を着てくるとは考えていなかった。
電車で一時間以上もかかる場所へ、慣れない服と靴で行くとは。
それも男同士でただ遊びに行くだけだ。着飾る必要などないだろう。
だが左近はそうではなかったらしく、勝家が浴衣を着てこなかったことにひどく落胆していた。
「何でだよ……俺だけ浴衣とか、浮くじゃん……」
男二人で並んで浴衣を着ていても浮くと思うが、という言葉は心の内に閉じ込めておく。
祭り、とはいえ、的屋が軒を連ねるようなものではない。
近所の商店街が出店し、特設ステージでは催しがひらかれる。
ステージの催しには興味がない、と互いの意見が一致し、出店を見てまわることにした。
七時半から八時まで、規模は小さいながらも花火大会が行われる予定だった。
それまでに腹ごしらえ、と左近はどこか上機嫌だった。
徐々に日が落ちるなか、煌びやかな飾りの下を歩く。
人が多いせいで早くは歩けないが、だからこそ良い。
「悪くないな」
「だろー。誘ってよかったー」
「左近、いつかもこうして」
そこまで言って、押し黙る。
お互いに黙ったままだ。
いつかもこうして、祭りに行ったな。
その『いつか』はいつだったのか。本当に『私』だったのか。
遠い昔のような気がして、それ以上何も言えなかった。
「あ、短冊発見! 勝家、短冊書こうぜ!」
それを察したのか、左近が勝家の手を引く。
簡素なテーブルの上に、短冊とペンが用意されていた。
願い事を書くべきなのだろうが、内容が思い浮かばない。
何の気なしに隣の左近を見やると、はっきりと目が合った。
「内緒!」
「……別に、興味はない」
見えないように短冊を隠されたが、見たかったわけではない。
書くことがなく、時間を持て余していただけだ。
隅に名前だけ書いて考えあぐねていると、左近が横からそれを覗き込んだ。
「そんな深く考えなくても。かるーい気持ちでいいんだって」
「そうか」
このあと雨が降らないといい。
それだけ書いて、笹に吊るす。
天気予報では一日中晴れだと告げていた。
勝家の願いは早々に叶うことになりそうだと左近は笑った。
「それで、お前は何を書いたんだ」
「だから、内緒だって」
どうあっても話すつもりはないようだった。
勝家にしてみれば、左近の願いに興味はないはずだった。
だからどうでもいいと思っていたのだが、どうにもおもしろくない。
自分だけ願いを見られた、というのが少しばかり癪ではあった。
見られたものが、軽い気持ちで書いた、本気ではない願いだとしても。
「私には言えない内容なのか」
「えっ、何それ」
詰め寄ってみれば、困ったように曖昧に笑う。
そのまま睨み合って、やがて困り果てた左近が、観念して口を開きかけた時だった。
その場の空気も、周囲の喧騒も切り裂くように、夜空に花が咲く。
少し遅れて、体を震わせる轟音。
一瞬の静寂のあと、いくつかの火種が打ちあがる。
種は競うように空へ昇り、花を咲かせる。
咲いた花は一瞬で散り、ばらばらに堕ちて、消えていく。
遅れた音が鼓膜を震わせる。
勝家も左近も、それまでの話を忘れてただそれを見上げた。
無理をしてでも浴衣を着てくるべきだった、と後悔してももう遅い。
左近の隣に、自分はひどく不釣り合いな気がした。
「たーまやー! 綺麗だな、勝家!」
「ああ」
それはとても綺麗すぎて。
「綺麗だ」
何故かとても、泣きたくなった。
「楽しかったなー! なあ、この次は……って、しばらく無理なんだっけ」
電車を乗り継いで、都会の喧騒に戻ってくる。
駅前の人ごみの中で、いつものように別れる直前の挨拶をする。
「左近」
「んー?」
改めて、思う。
何故彼が自分を誘うのか。
彼は自分をどう思っているのか。
ただの友人だというならそれで良い。
けれど、もし少しでも懸想の気持があるのなら、これ以上彼とは一緒にいられない。
手放せる。今なら、まだ。お互いに入り込む前に。
「いや……」
それを勝家の方から聞くのは憚られた。
勝家にとって左近は友人。
それでいいじゃないか、と葛藤する。
目の前の左近が口を開きかけた、まさにその時だった。
「柴田さん?」
高い声に呼ばれて振り返れば、同じゼミにいる女子学生の姿があった。
休日でどこかに出かけていたのか、いつも大学で会うよりは小洒落た恰好をしていた。
「今、時間取っても大丈夫? 少し相談したいことがあって」
彼女はちらりと左近を見やる。
友達がいるのに不躾だった、と彼女自身も解っているのだろう。
そこまで非常識な人ではない。
けれどそれをしても、今急ぎの用事があるということだ。
勝家も彼女に倣って左近を見れば、左近は片手をひらひらと振った。
揃って道の端に寄り、彼女が差し出した紙を覗き込む。
身振り手振りも交えて説明され、要約すればディベートの内容で少し行き詰っている、ということだった。
こうでああでと相談され、その度にああでもないこうでもないと返していく。
三十分ほどそうして話し合い、彼女は紙を鞄にしまいこんだ。
「ありがとう、助かっちゃった」
「いや、構わない」
「ディベートが終わったら、またみんなで飲みに行こうって考えてるの。今度は柴田さんも来てね。私、少しくらいなら奢るから」
考えておこう、と行く気のない返事をすると、彼女は困ったように笑った。
しまいこんだ紙と入れ違うように、定期入れを手に持つ。
「じゃあ、また明日」
手を振って駅の中に消えていく彼女を見送ってから、隣でずっと待っていた左近にようやく顔を向けた。
怒っているのか、複雑そうな顔を浮かべている。
「すまなかった」
「いや、別にいいけど」
だったらその顔は何だ、とは口には出さない。
気にはなるが、勝家には関わりのないことのはずだった。
本来は気にすることすらおかしいのだ。
「盂蘭盆の時期には落ち着いていると」
「さっきの子、さ」
話を遮られる。
左近はこれまで、人の話を遮るようなことはしなかった。
だからなのか、少しばかり面喰って、言葉が詰まる。
左近は左近で、笑っているのに目が泳いでいる、というまたも複雑な表情を浮かべていた。
「さっきの子、誰? 可愛かったじゃん。付き合ってんの?」
これで付き合っていると答えれば、多少の距離は置いてくれるだろうか。
これ以上入り込めば、お互いに戻れなくなる。
『友人』ではいられなくなるだろう。
「そうだ、と言ったらどうする」
そう返すと、左近は打ちのめされたような顔をした。