有名無実の恋
春の章 2
咄嗟に思い付いたにしては、我ながら上出来だった。
左近は携帯の画面を眺めてはにやけ、再び眺めてはにやけ、それを何度も繰り返した。
あの日、勝家と別れてすぐ、左近の携帯に電話があった。
知らない番号。だが、思い当たる番号。
その電話には敢えて出ず、その後数回のコールも無視すれば、最後はメールの着信音になった。
これは賭けだった。
電話に出ない左近に業を煮やした勝家が、メールを送ってくるかどうか。
そうすれば、番号とアドレスの両方が手に入る。
その賭けは、左近の勝利に終わった。そんなことを勝家が知る由もない。
メールの内容は素っ気ないもので、件名に『柴田』、本文に『三月中ならば、私はいつでも良い』、ただこれだけだった。
そのメールを何度も読み返してはにやけて、アドレス帳に登録された名前を確認してはにやけて、既に30分が経過しようとしている。
そろそろ返信をしようか、とメールを打とうとして、指が止まる。
何と返せば良いのだろうか。長々と書いては迷惑だろう。
だが短すぎても軽いと思われるかもしれない。
既に30分が経過している。返事を急がなくては怒るだろうか。
けれど返事を遅らせればその分だけ、彼は自分のことを多少なりとも考えてくれるだろう。
返信が遅い、というただそれだけで良い。彼の時間を独占できるなら。
何度も悩んで、何度も打ち直して、更に30分かけてようやく、左近は当たり障りのない文面を完成させた。
勝家からのメールが来てから既に一時間。
さすがに怒っているかもしれないとメールを送ろうとする手を止める、ひとつの欲。
声が聴きたい。
電話をしても良いだろうか。出てくれるだろうか。
これ以上悩んでいられない、とメールを一度保存し、コールボタンを押した。
三回鳴って出なければ切る。
そう決めて、無機質なコール音を聞いた。
一回。二回。三回目のコール音が途中で途切れる。
「……はい」
「っあ、勝家? 俺。左近だけど」
声が僅かに上擦る。
まさか出るとは思ってなかった。今日の俺ツイてる、と心の中でガッツポーズをする。
「悪い、さっき、電話出らんなくってさ」
「構わない。それより、いつならば良いんだ」
「あー、えっと、30日とか。昼頃、とかどーよ。今日の公園で」
「了解した。ではな」
会話を膨らませようとするより早く、プツリと電話が切られる。
物足りない、とは思ったが、その思いは今度会ったら晴らせば良い。
半日ある。半日も会える。
これまでのこと。これからのこと。話すことはたくさんある。
その『今度』が今日だった。
昼頃、とだけ約束し、明確な時間は決めていなかった。
遅れたら困ると、左近は11時過ぎにはその公園にいた。
逸る気持ちを抑えられなかった。
遠足の前の小学生のようだ、と自嘲する余裕もない。
それからしばらくして、12時きっかりに勝家が現れた。
「すまない。待たせたか」
「いんや。大して待ってねーよ」
「そうか」
言いながら、勝家は鞄から財布を取り出した。
持ち主を表すような、質素な財布。
綺麗に使っているのだろう、目立った汚れもない。
「手を」
「ん?」
言われるがまま手のひらを上に向けて差し出すと、その上に500円玉が置かれた。
左近はこの瞬間まで、待ち合わせた理由をすっかり忘れており、この500円の真意はわかりかねていた。
「借りたものは返した。ではな」
言うが早いか、勝家は踵を返す。
「え、ちょっ……!」
慌てて手を掴んで引き留めると、訝しげな顔で振り返る。
そこでようやく、貸したコーヒー代を返す、という名目で待ち合わせたことを思い出した。
返金は終わったのだから、勝家にはもう用はないのだろう。
だが、左近にはある。
とりあえず今は、なんとか彼を引き留める理由を必死に考えていた。
「こんなに貰えねーよ。コーヒー、こんなにしなかったっしょ」
「迷惑料だ」
「別に迷惑とか思ってねーって」
その500円を返そうとするが、勝家は頑として受け取らない。
今は細かい金がない、ならまた今度崩れた時にでも、これ以上今度などと言ってられるか、という押し問答を繰り返す。
体温ですっかり温くなった500円玉が、互いの手を行き来する。
埒が明かない、と左近は500円玉を押し付けながら、ついでにその手を握った。
「あのさ!」
突然の大声と、握られた手に驚いたのか、勝家は小さく身を震わせた。
いつもより見開かれた目が徐々に細くなり、ついには眉間に皺を寄せる。
「……何だ」
「あ、わり……あのさ、コーヒー代ってのは、ただの口実で」
「口実?」
勝家の表情が不機嫌に歪められる。
これ以上不機嫌な表情なんてあるのか、と感心するほどだった。
握った手に汗が滲みそうになる。
「あんたと会いたかったっつか、一緒に……」
戸惑い、といった表情で、勝家は左近を見つめる。
何故自分と、と思ってはいるのだろうが、それを口に出そうとはしない。
左近が勝家と一緒にいたい理由は、薄々気付いているはずだ。
握ったままの手を離し、その中にあった500円玉も回収して、落ち着くために数度息を吐く。
「これはありがたく貰っとく。で、さ。今日、この後、ダメ?」
「……特に予定はない」
「じゃあ」
「が、お前と共に過ごす理由も」
その言葉は、ぐう、という音に遮られた。
朝、少ない食事を食べたきりで、もう昼過ぎだ。
腹が減るのも仕方が無い。
わかってはいるが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
それも勝家の前で、と顔を手で覆ってしまいたくなった。
勝家は特に気にした風でもなく、笑い出すわけでもない。
「っはは……えっと、昼飯くらい一緒してくれてもいんじゃね? あんたもそろそろ食べる時間っしょ?」
「……そうだな」
腹の音に多少拍子抜けしたのか、勝家は昼食の誘いを了承してくれた。
場所は勝家に任せると告げると、すぐに歩き出す。
後を追いかけ、追い付いて、並んで歩く。
そうしているとまるで、あの頃の続きのように思えた。
ファストフード店に入れば、店内は若い客で溢れていた。
春休み中の学生がほとんどだろう。
注文を終え、なんとか空いている席を見つけ、向かい合って座る。
勝家が頼んだのは、大して量もないセットメニューだけだった。
セットメニューの他に単品でも注文した左近からすれば、足りるのかと不安になる量だ。
周りの客を見ても食べる量はまちまちであり、勝家が特別小食というわけではないにしても。
「なあ、これからもこうやって、俺と二人で会ってくれたりとか」
する? と聞くより早く、勝家の目線に気付いて言葉を止めた。
食べる手を止め、じっとこちらを見つめてくる。
怒っているわけではないようだった。
ただただ戸惑いの色が浮かんでいる。
これまで会った様子、今のこの様子からして、勝家から声をかけてくることはないだろう。
ならば、こちらから声をかければ良いだけのことだ。
「勝家って、大学生?」
三月中は休み、という言葉から察するに、今は春休み中なのだろう。
念のためにと聞いてみれば、小さく頷いた。
「なら、土日は空いてるんだよな」
土日が休みの日に誘えば、付いてきてくれるだろうか。
あるいは学校が終わった後に。
今日、こうして昼食に付き合ってくれている勝家のことだ。
面と向かって誘えば、きっと断ったりはしないだろう。
「どこの大学?」
「教える義理は無い」
あの頃と変わっていないならば、勝家は自分と同じ歳だ。
そうなると、浪人や留年をしていなければこの春から大学三年生ということになる。
真面目な彼ならば、そんなことは有り得ないだろう。
これまでは出会わなかったのだから、三年生からキャンパスが都内に移動にでもなったのだろうか。
都外にもキャンパスを持つような大きな大学、と左近は考えを廻らせた。
思い当たるいくつかの大学の名前を、ひとつずつ順番に出す。
勝家はどれも、違う、と否定するが、その中のひとつだけ、僅かに反応があった。
常人では見破れないような細やかな反応だ。
嘘を見破るのが得意な左近でなければ、加えて相手が勝家でなければ、絶対にわからなかっただろう。
「よし、あそこの大学だな」
確認のつもりでそう言えば、驚いたように目を見開く。
嘘は通用しない、と悟ってくれれば良い。
そうして本音で接してくれたなら。
そこまで考えて、思わず小さく自嘲した。
本音で接してくれたら、なんて。
あの頃の自分も、本音をぶちまけてなんていなかったくせに。
一番大事なことは最期まで言えなかったくせに、それを勝家には求めるのかと。
「なあ、もし、今後も俺がこんな風に誘ったら」
言い終える前に気付く。さっきも聞いたことだ。
そして勝家は戸惑いの色を浮かべた。
今も全く同じだ。
ただ、わけがわからない、という顔をする。
「俺、フリーターっしょ。高校卒業してからこっち出てきて、同世代の友達ってなかなかいなくてさ。あんたも今年からこっち来て、そうかなって」
違う、彼は大学生だ。
同じようにキャンパス移動になった学友ならいるはずだ。
ならば、どうする、と必死に思考を巡らせた。
「それに俺、あんたよりは詳しいよ。東京の地理って、慣れてないと迷うよ。俺とあちこち行けば、覚えられるっしょ」
勝家はついと目を逸らして、考え込むような顔をした。
少しの後、そうだな、と小さく呟く。
「都合がつけばな」
それは、単純に面倒くさい猛攻をすり抜けるための嘘だったのかもしれない。
あるいは断る建前を今のうちにつくっておいただけかもしれない。
けれどその時の左近には、その言葉はまるで、来てくれると言っているに等しく聞こえた。
そうとなったらどこへ行こう。
頭の中は、これからのことで一杯になる。