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有名無実の恋

春の章

それは、記憶と呼ぶにはあまりに突飛すぎた。
自分には戦国を生きたような記憶らしきものがある、などと。
あまりにも夢物語のようで、その内容は生々しすぎる。
それは始め、自分の妄想だと思っていた。
たまたま自分と同じ名の武将に感情移入してしまっただけなのだと。
しかし、その妄想は史実に当て嵌まりすぎている。
人並みに学生生活を送り、もちろん日本史も学校の授業程度には勉強したが、自分と同じ名前というだけで目立った活躍もない武将に入れ込むほど、興味もない。
それなのに、何故。
時折甦る記憶の中で、自分が懸想する彼女。
それ以上に想いを抱く、あの男。
それを思い出していると、自分が自分でなくなるような錯覚に陥る。
自分は今、誰なのか。織田軍尖兵なのか、あるいはただの大学生なのか。
それがたまらなく気持ちが悪い。
忘れようとすればするほど鮮明に思い出してしまい、かと言って全て思い出して受け入れる気にはならない。
忘れることができないなら、せめて思い出さないようにしよう。
頭の片隅に追いやって、触れないでおく。
そうすれば思い出さずに済む。
あんな気持ちが悪い感覚にならずに済むのだ。

春。大学生の長い春休みもあと一週間ほどで終わる。
彼、柴田勝家は少ない引越しの荷物も早々に解き終わり、残りの春休みを持て余していた。
春休みともなれば、例年は地元に帰っていたのだが、今年は引越しのために地元に帰る暇はなく、あと一週間しかない今になって帰る気も起きない。
三年次からはキャンパスが都内へ移る。それに伴う引っ越しも必要、と知ってはいたが、やはり手間ではあった。
気分転換に散歩でもするか、と荷解きもそこそこにふらりと外へ出た。
近所にどんな施設があるのか、知っておいて損はない。
確か近くには新宿御苑もある。この時期なら桜が見頃だろうか。
急ぐものでもない、そう遠くもない道をゆっくり歩いて行く。
しかし、慣れない道はやはり疲れるもので、更に新宿御苑の入り口がどこにあるのかもよくわからず、仕方なく近くの喫茶店で休憩をとることにした。
近くの喫茶店ならば、入り口の場所も知っているだろう。
カラン、とドアに取り付けられたベルが音を立てる。
機械的な挨拶は大して聞きもせず、何気なく店内を見渡した。
はっきり言って広くもなく、客も多くはない。
だがその雰囲気と、店側には失礼だろうが閑散とした感じも好きだと思える。
そのうちに、店員が近付く足音と気配に、視線を戻した。
「いらっしゃいませ! 何名様……」
瞬間、世界が止まったような気さえした。
目の前には、笑顔から驚愕に変わっていく店員の顔。
きっと自分も同じ顔をしているのだろう。
お互いがお互いを知っている。初めて会うはずの彼を、誰よりよく知っている。
「か……」
先に口を開いたのは店員の方だった。
「勝家……?」
さこん。
そう、彼の名前を呼ぼうとする口を噤んで、勝家は踵を返した。
今しがた入ってきたばかりの扉を開け、足早に外へ出て、アパートへの帰路に着く。
心臓が早鐘を打つ。騒がしいはずの周囲の音も聞こえない。
島左近。間違えるはずもない。
何故、あの男がここに。
あれは全て自分の妄想であったはずだ。
たまたまよく似た人物がいただけの話だろう。
だが彼は自分を知っていた。
何故、あの男が。
今まで妄想だと思っていたあの記憶は何だ。
何故、私がここにいる。
考えながら歩いていたせいか、あるいは周囲に気を配る余裕などなかったのか。
唐突に腕を引かれ振り返れば、左近が制服のままでそこにいた。
「勝家……!」
「ひ、人違いだ……」
「俺があんたを見間違えるわけねーよ!」
「私は、お前のことなど知らない……!」
拒むように掴まれた腕を振り払えば、その手は意外にも簡単に解かれた。
勝家はどうしても、すぐにその場から立ち去ろうとできなかった。
振り解いたその顔が、あまりにも泣き出しそうに見えて。
立ち去るタイミングを逃したまま対峙していると、彼は再び手を動かした。
突然のことに警戒するが、その手は勝家に触れることはなく、そのままポケットへと向かった。
制服のポケットからメモ帳とボールペンが取り出され、それは勝家に差し出される。
「番号とアドレス、教えて。片方でもいい」
差し出されたメモと左近の顔を、交互にまじまじと見つめる。
もう関わり合いたくない、というのが正直な感想だった。
全て終わったはずの、忘れ去ったはずの過去が、今更顔を覗かせるのがたまらなく不快だった。
こうして対峙しても、微塵も嬉しいと思えないのがその証拠だと。
「……覚えていない」
しばらくの後、絞り出すようにそう言えば、左近は何か言いたげに口を開きかけたが、すぐに閉じられた。
すぐに立ち去って欲しかった彼は、やはりすぐには立ち去らず、そのメモ帳にボールペンを滑らせた。
書き終えると、一番上のメモを剥がして、勝家に差し出した。
「これ、俺の番号とアドレス」
紙にはアルファベットと数字が羅列されている。
差し出されたそれと左近の顔を、再び交互に見つめていると、痺れを切らしたようにその紙を強引に握らされた。
いらない、と拒否するが、それ以上に強い力で渡されて、結局それは手の中に収まってしまう。
「明日の昼、四ツ谷駅の近くの公園で。まあまあ広い……っても、御苑に比べると全然狭いけど、三角形みたいな公園。待ってっからな」
それだけ言うと、彼は踵を返して走っていく。
バイトを途中で抜け出してきたのだろうから、当然だ。
記憶の中の男と何も変わらない、嵐のような男だ。
握らされたメモをくしゃりと握り潰して、それでも何故か捨てる気にはならず、鞄の奥底にしまいこんだ。

始まりはいつ、どこでのことだっただろうか。
絶望の淵にいた自分に手を差し伸べて、救い上げてくれたのが彼だった。
その彼に、簡潔に言えば好きだと告げられた。
自分が彼ではない誰かを想い続けていても良い、とまで言う彼を、どうして無碍にできようか。
気付けば、密かに逢瀬を重ねる仲になっていった。
やがて、想い人よりも彼の方が心を占めていったのは、いつからだっただろうか。
そのような自分の胸の内を彼が知るはずもなく、いつまでも遠慮がちで、許しがなければ触れることすらしなかった。
それでも良い。この時間が続いていくならば。
それなのに、彼は突然去った。
指の隙間を零れ落ちていくように、大事なものはするりと消える。
それが報いだと言うのなら、甘んじて受けよう。
もう二度と、何も欲したりはしないと。

重い瞼を開く。夢見は最悪だった。
昨日、左近に会ってしまったせいだ。
枕元に置いたままにした携帯電話を見ると、時間はまだ六時前だった。
やっとの思いで眠ってから、まだ一時間も経っていない。
もう一度寝ようと、そのまま目を閉じる。
だが、眠ってもすぐに目が覚めてしまう。
短い睡眠と覚醒を繰り返し、満足に眠れないまま、気が付けば十時を過ぎていた。
最悪な気分のままベッドから這い出て、目を覚ますために朝の支度をする。
朝食を食べるのも面倒なほど気怠い。
明日の昼、四ツ谷駅近くの公園で、と一方的に取り付けられた約束だけが、はっきりと頭の中に響いていた。
昨日言われたのだから、今日の昼だ。
行くつもりはなかった。これ以上、彼と関わり合いたくない。
窓の外を見れば、今にも降り出しそうな空模様だった。
こんな天気ならば、彼も来やしないだろう。
気分転換のつもりでテレビを点けてみても、気は晴れない。
考えるな、忘れてしまえ、と思えば思うほど、その約束は色濃くなる。
時計の針が進む音だけがいやに耳につく。
やがて聞こえた雨が窓を叩く音に、勝家はほっとしていた。
この雨の中、いつまでも来ない自分を待ったりはしないだろう。
ほっとしたら、眠れなかったツケが回ってきた。
そのままソファーに横になって目を閉じると、朝のことが不思議なくらい、すんなりと眠りに落ちた。

待ってるから。
そう言う彼の声を夢現に聞いた気がして、ソファーの上で目を覚ます。
外はいつの間にか日が落ちて、すっかり夜になっている。
点けたままのテレビが、夕方のニュース番組を映し出していた。
流石に眠りすぎた、と頭を振る。
雨は昼間よりも強くなっているようだった。
窓の水滴で歪んだ街が光る。
待っているはずがない。この雨だ。
この雨の中で待っているとしたら、余程の馬鹿か、あるいは。
待ってるから。
彼の言葉がもう一度反響する。
悩んだ末、一人用のビニール傘だけを持って家を出た。
左近がそこにいないことを確認するためだ。
平日の新宿は人で溢れていた。
雨の人ごみを掻き分けて、目的の公園へ向かう。
馬鹿なことをしていると勝家自身もわかっていた。
いないとわかっているものを、何故探しに行こうと思うのか。
もし仮にいたとしても、それで風邪を引いたりしても、自分には関係のないことだ。
『もし仮にいたとしても』という今しがたの胸の内を反芻して、改めて馬鹿だと思った。
左近はいない。いるはずがない。それで良いのだ。
迎賓館の前、西洋風の小さな公園。
大きな水たまりほどの大きさしかない噴水に、雨粒が落ちていく。
その片隅のベンチに、彼はいた。
ぴくりとも動かず、俯いて座っている。
「……左近」
小さく名前を呼ぶと、彼はゆっくりと顔を上げた。
雨の音のせいで聞こえないだろうと思っていたが、彼は真っ直ぐに勝家を見据えた。
怒るでもなく、泣き出すでもなく、彼はへらりと笑った。
近付いて傘を差しかければ、彼に降る雨粒はようやく止まった。
それでも髪から滴り落ちる水滴は止まらず、その濡れ具合から、ずっとそこにいたのだろうとわかった。
「何故、いる」
「待ってる、って言ったかんな」
小さな傘に二人は収まらない。
左近に差しかけたことで、勝家の肩にも傘から零れた水滴が落ちる。
春先とはいえ、まだ寒さの残る時期に、この冷たい雨の中を何時間も。
それを彼の勝手だと突き放せるほど、勝家は非情ではなかった。
「あっ、勝家、肩! 肩濡れてんじゃん!」
「お前は、肩どころではないだろう」
タオルの一枚も持ってこなかったことを後悔した。
このまま風邪にでもなられたら、益々夢見が悪くなる。
何か言いたげに開きかけた彼の口は、その直後に飛び出したくしゃみに全て遮られた。
「あ、わり……っぐしゅ!」
「……コーヒーくらいなら出す」
「マジで!? ありがとな!」
立ち上がる彼に傘を半分差しかけながら、普段財布を入れているポケットに手を伸ばす。
だが、そこに財布の膨らみはない。
よくよく思い出してみれば、傘以外は何も持ってきていなかった。
全て家に置いてきたのだ。携帯電話さえも。
家の鍵をきちんと閉めて持ってきたことだけが幸いだった。
「……財布を忘れた」
「え、そーなの? んじゃま、寒ーしとりあえずどっか入ろうぜ。今日は俺が出すから」
「私がお前に奢られる所以は無い。金があるなら、傘でも買って帰るといい」
「いーじゃん、せっかく再会したんだし」
傘の柄を掴んだ手ごと握られ、引っ張られるように歩いて行く。
すっかり冷たくなった手に包まれて、それを振り払うこともできない。
握られた手ばかりに意識が向いて、帰る言い訳も碌に思い付かず、更に彼には地の利もあり、すぐに近くのファミレスに連れ込まれた。

入り口でタオルを借り、簡単に頭と服を拭いて、案内された窓際の席につく。
雨のせいか、店の中は閑散としていた。
「あー腹減ったー。俺、何か食べるけど、あんたは?」
「特に、必要ない」
「遠慮すんなって」
遠慮などではない。
朝から食べていないにしては、空腹感はない。
一日中寝たり起きたりを繰り返していたせいだろうか。
そもそも、食べるということに、元から拘りはないのだ。
「ま、いいや。あ、すいませーん。ホットコーヒー二つと、あと……」
注文の間、手持無沙汰になって、窓の外に目を向けた。
外が暗いためか、自分の顔が映る。
見慣れたはずの自分の顔さえ、急に別人のそれに見えてしまう。
客も少なければ注文も少ないのか、注文したものはすぐに来た。
運ばれた食事に手を付ける左近を尻目に、また窓の外に視線を移す。
外には道路があるだけで、何も面白いものなどない。
水たまりを撥ねて行く車がいるだけだ。
不意に窓の水滴が流れ落ち、自分の頬と重なったそれは、まるで涙のようだと馬鹿げたことを考えた。
「左近」
「んー?」
「食べ終えたら、ここでしばし待っていてほしい。財布を取ってくる故」
「今度でいいって。あんま長居しちゃ、店にも迷惑っしょ」
喫茶店で働いている彼らしい意見ではあった。
そういった客に迷惑している、と暗に言っているのだろう。
しかし勝家は、今度、という約束はできることなら取り付けたくはなかった。
単に、金銭の貸し借りが好きではない、という理由もあったが。
「見ず知らずのお前に頼るわけにはいかない」
「見ず知らず、って、何だよそれ」
左近は食事の手を止めて、眉を顰めた。
雨の中何時間待たせても怒りもしなかった彼にしては、珍しい表情だった。
「私は、お前のことなど知らない」
「知ってんだろ。俺の名前、呼んだじゃん。俺、名乗った覚えねーけど」
「……いや、名乗ったはずだ。メモを渡された際に」
「島左近です、って?」
「そうだ」
「なら、やっぱ名乗ってねーな」
言いながら、彼は濡れてしまった財布から何やら取り出した。
カード型のそれを渡され、印刷された写真の彼と目が合う。
どこにでもある、取ろうと思えば誰でも取れる運転免許証。
その名前の欄に、目が留まる。
「俺の名前、清興だし」
そこにははっきりと、『島清興』と印字されていた。
そんなはずはない。
では誰かが、きっとあの店の誰かが彼を左近と呼んだのだ、と納得しようとした。
だが、いくら思い返せど、そんな場面は記憶にない。
あるいは本当に初対面なのだとしたら、彼が本名ではない『左近』と名乗るはずはない。
それなのに勝家は、彼を『左近』と呼んだ。
「納得した?」
左近に免許証を返しながら、それでもどこか受け入れられないでいた。
妄想だと思っていた記憶らしきものは、全て本物。
あれは紛れもなく、自分の記憶。
頭ではわかっていても、心がそれを拒む。
織田軍尖兵としての柴田勝家と、どこでにでもいる大学生としての柴田勝家。
そのどちらともが本物で、突然のことに許容量を超えそうだった。
あの頃の自分と今の自分は、生い立ちも、境遇も、考え方でさえも、あまりにも違う。
「あー、っと、その、大丈夫?」
頭を抱えていると、その顔を覗き込まれた。
「なんか、ごめんな。混乱、させた? よな……」
「いや……これはお前のせいではない」
ただ、自分の気持ちに折り合いがつかないだけだ。
彼が火付になったことは間違いないが、謝られる謂れは無い。
導火線自体は、高校生の頃に自分の過去を垣間見たことで引かれてしまっていた。
「それより、借りたものは返す。明日、またあの公園で良いだろうか」
「あー、明日は無理。二日も連続でバイト休めねーからな」
「二日?」
「今日」
自分に会うために、わざわざそんなことをしたのか。
自分のためとはいえ、大馬鹿だ、と思わざるを得ない。
しかしそれを言い出せるはずもなく、ひっそりと溜息を吐くだけに留めた。
「ならば、いつなら空いている」
「悪い、シフト表、家に置いてきちまった。あんたの都合もあるだろうし、あとで電話かメールしてよ」
な、と言って小首を傾げる彼が、狡いと思った。
約束を取り付けるだけでなく、勝家の連絡先まで手に入ってしまう。
非通知で電話しようか、という目論見は、ちなみに非通知着拒ににしてるから、の一言で簡単に先手を打たれてしまった。
「狡猾だな」
「よく言われる」
褒めたつもりはない。
それ以上のことは言わずに、温くなってしまったコーヒーを啜る。
連絡先を書いたあのメモはどこへやっただろうかと、また窓の外へ目を向けながらぼんやりと考えた。

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