有名無実の恋
勝家の話
妙な夢を見た。
どのような夢だったのか、仔細はまるで覚えていない。
ただ、漠然と『妙』とだけ覚えていた。
妙に現実味を帯びた夢だった気がする、とだけ。
一拍遅れて枕元で鳴り始めたアラームを止めて、彼は携帯の画面に目を落とす。
今日の日付の下に『10時 駅前』と無機質な文字が表示されている。
そうだ、今日は一緒に出掛ける約束をしていたんだった、と支度を始めた。
彼にひとつ年下の『彼女』ができたのは一年程前のことだった。
同じ委員会の後輩である彼女が告白をしてきたのだ。
彼が彼女に対して同じ感情を抱いていたか、と聞かれれば決してそんなことはなかった。
だが彼は彼女の告白を無碍にするほど彼女を嫌ってはおらず、むしろ真面目な生活態度には好感をもっていた。
特に断る理由もなく付き合い始め、一昔前の中学生のような青い交際を続けて早一年。
彼は間もなく高校を卒業し、この町を出て行く。
そうなれば今までのように頻繁には会えなくなる。
なら最後に出掛けよう、と彼女が提案したのは、電車で三十分程の距離にあるそこそこ大きな博物館だった。
そこでとある武将の展示を期間限定で行うらしかった。
「私、実はちょっと歴女なんです」
そう言って彼女が恥ずかしそうに差し出したチラシには、彼と同じ名前の武将の展示だと書かれていた。
たまたま同じ名前だということもあり、彼もその武将を知っていたが、活躍まではよく知らなかった。
織田軍の一人だったらしいが、若い頃に一度信長に謀叛を起こし、そして失敗した以外は、取り立ててこれといった活躍はないのだ。
しばらく会えなくなるのだからもっと我儘を言えば良いのに、そういうところで彼女は真面目だった。
尤も、電車で三十分の距離は、二人で出掛けたなかでは一番の遠出だったが。
郷土の歴史、文化に基づいた芸術、等のありふれた常設展示を抜け、さして広くもないイベントスペースに差し掛かった。
その武将が使っていたとされる甲冑や武器のレプリカ、生まれてから死ぬまでの一生、誰かに宛てたらしい手紙、等々やはりありふれたものが展示されている。
織田信長に謀叛を起こし、失敗したものの生かされ、以降は軍の中でも軽んじられていた。
その後紆余曲折を経て、奥州の伊達の元で過ごしたようだった。
「敵方でしたけど、島左近っていう武将と仲が良かったみたいです。島の方が彼に惚れ込んでたみたいですけど」
細いながらも達筆な文字が書かれた手紙の下に、『島左近に宛てたとされる』と簡素な説明書きがあった。
内容までは説明されておらず、書かれた文字も読めるはずもない。
「『奥州は新緑の季節、大坂の青葉も見物と存じ上げる』という内容だって、前に本で読みました。一部の人は、この手紙をラブレターだって言うんですけど、どうなんでしょうね」
「ああ……」
自分の指が動く。
硯に筆を沈め、墨のついた筆を滑らせる。
回りくどい言葉で、しかし簡潔に言えば『会いたい』と綴る。
そんな、一瞬の幻を見た。
今しがた幻で見たはずの手紙は、目の前のガラスケースの中だ。
何が起きたのか自分でもわからずに、彼は数度瞬いた。
「貴女は、島という武将についてもご存知か」
「はい、詳しくはありませんが」
豊臣、正確には豊臣配下の石田という武将に仕えた若き武将だ。
豊臣、石田は授業でやった程度の知識はあったが、更に配下の島までは知らなかった。
小さな村の出身で、後に石田に仕え、最期はなんらかの理由で石田に討たれた。
諸説あったが、刑された、という説が広く一般的だった。
それは遠く離れた奥州にも届き、動揺するには充分だった。
島の死に動揺するくらいには懇意の仲だったのだろう、と彼女は言った。
「……刑されたのでは、ない筈だ」
「え?」
「石田氏の乱心であった、と……」
島の死を知って数日後、珍しく石田から文が届いた。
非常にわかり辛く、かつ高圧的な文面ではあったが、それは島の死を彼なりに詫びているようだった。
『貴様も後を追いたいのなら好きにしろ』の一文に伊達はやたらと憤慨していた。
自分はと言えば、その文が来るまでは島の死を実感できていなかった。
だが石田が敵方にまでこのような冗談を送るとは到底考えられない。
また失った。手にしたかったものは皆、この手を滑り落ちていく。
石田の為に逝けたのならきっとあの男は満足だったのだろうが、残された自分はどうしたら良い。
こんな思いをするくらいなら、もう二度と。
「……柴田さん?」
彼女の呼びかけで我に返った。
今のは白昼夢だったのだろうか。だとしても鮮明で、生々しかった。
「あの、どうか……」
「いや。何もない」
早足で歩き出せば、彼女はその後を付いて来た。
『もう二度と、誰かを欲したりはしない』と固く誓ったのは、果たして自分だっただろうか。
隣に追い付いた彼女をちらと見やる。
いつか、彼女を欲する日が来るだろうか。
そのような日など来る筈がない。
きっと、離れてしまえば早々に彼女のことなど忘れるだろう。
恨まれても憎まれても構わない。きっとどこ吹く風だと流れてゆく。
彼女の存在が再び収まる余裕もない程、彼の心は既にあの男が占めていた。