愛児
「おや」
目の前にいる少年にそう呼びかければ、彼は大げさに体を震わせた。
「わあ! ごめんなさい! ぶたないで!」
大きな鍋を背負った彼はこちらを見ようともせず、頭を押さえて地面に突っ伏している。
隆景は彼の前にしゃがんで膝をつき、その手をそっと取った。
「ぶちませんよ。顔をお上げなさい」
その少年は恐る恐る顔を上げた。
涙が溜まった大きな瞳と目が合う。
おや、可愛らしい、というのが最初の印象だった。
「だ、だれ……?」
「私は小早川隆景です」
「小早川? 隆景?」
少年は目を丸くしたかと思うと、ふにゃりと笑う。
その様子がまた可愛い、と隆景はつい思ってしまった。
「父上と同じ名前だ」
同じ名前、と言うからには少なくとも姓は『小早川』なのだろうが、身内にこのような子はいただろうか。
記憶を探ってみるが、やはり見覚えはない。
歳を食ったとはいえ、記憶力に問題はないはずだった。
そもそも『父と同じ名前』と言ったのだ。
隆景に実子はいない。
養子は二人。遥か歳下の弟、秀包と、つい最近養子として迎えた秀秋だ。
そのどちらとも違う。
自分以外に小早川隆景という人物がいるのかと少年を問い詰めようとして、やめた。
この世界には『異界』なるものがあるらしい。
同名の者や同名の国のある、似て非なる世界。決して交わることのない世界。
それが、何かの拍子に交わることがあるらしい。
本当ならば面白い話だ。父上がご存命であればさぞかし彼に興味を持っただろう、と内心笑んだ。
「あなたの父上と同じ名ですか。浅からぬ縁ですね。あなたの名前は?」
「小早川、秀秋……」
「では、私の子と同じ名ですね」
「子供?」
隆景は秀秋の手を引きながら立ち上がった。
丸くふくよかな手だった。
戦なんて何も知らないような手。
「子供がいるの?」
「はい。おかしいですか?」
「そうは、見えなくて……」
あなたと同じ年頃の息子がいますよと言えば、秀秋はまた目を丸くした。
それは、目の前にいる隆景が異界の父であるなどという驚きではなく、二十そこそこにしか見えない隆景に子供がいるという驚きだろう。
実際、隆景は見た目が若いだけで、秀秋の祖父であってもおかしくないほどの年齢なのだ。
「秀秋、あなたはここで何を?」
「あの、迷っちゃって……烏城に行こうとしたんだけど、近付いてみたら僕の知ってる烏城と違うから……」
「では、行く宛がないのですか」
頷く秀秋に、隆景は再び手を差し出した。
「うちの子になりますか?」
懐かしい、と思いながら、隆景は秀秋の行動を待った。
しばらくしてようやく、秀秋は隆景の手に自分の手を重ねた。
隆景の世界の秀秋は、秀吉の養子だった。
だが秀吉に実子である秀頼が生まれたため、秀秋を含む養子たちは不要になったのだ。
「あれを、毛利の養子にしてはどうか」
とは、同じく軍師であり懇意にしていた黒田官兵衛の言であった。
「『あれ』だなんて。官兵衛殿、いけませんよ」
秀秋の姿は隆景も数度見かけたことがある。
数度見かけただけだったが、中々に可愛らしい子だったのを覚えている。
廃嫡されて落ち込んでいるらしい、と風の噂で聞いた。
「あの子を、私が頂いてはいけませんか?」
「……何と」
その時、鉄仮面で有名な彼の顔が僅かに驚いたので、隆景はつい笑いそうになった。
だがすぐにいつもの鉄仮面に戻り、厳しく言った。
「毛利はどうするのだ」
「元清の子、秀元を輝元の養子にすれば良いでしょう」
どちらも私が言えば簡単に折れますと告げれば、官兵衛は渋い顔をした。
相変わらず腹の底が読めん、という言葉は、褒め言葉として受け取っておくことにした。
「官兵衛殿はお好きでしょう? 腹の底が読めない者は」
かつて官兵衛と共に名軍師として並び称された彼を指してそう言う。
反論が来る前に、隆景はそそくさとその場を立ち去った。
向かったのは秀秋の部屋だった。
仮にもかつて養子だったというのに、廃嫡された今となってはこんなに小さな部屋に押し込められている。
部屋に入れば、秀秋は不安そうな顔を向けた。
「うちの子になりますか?」
その時も同じように、そう言って手を差し出したのだ。
そしてやはり、同じようにしばらく躊躇ってから、秀秋は隆景に手を伸ばした。
お腹が空いたと言う秀秋に、近くの飯処で食事を取らせていた。
食事を頬張る秀秋の前で、これからどうしたものか、と考え込む。
烏城には本物の、と言うべきか、この世界の小早川秀秋がいる。
どちらの秀秋にも事情を説明するのは少々骨が折れそうだ。
こう言っては身も蓋もないが、頭の出来はそこそこなのだ。
となれば、行先はひとつだ。
「決めました」
「うん? どうかしたの?」
「安芸に行きましょう。私と一緒に」
安芸の三原には、隆景が隠居する庵がある。
しばらくはそこに匿うことにした。
安芸、と言った瞬間、秀秋の表情が強張る。
「あ、安芸……? 大丈夫かなあ……」
「何故です?」
「だって、毛利様、怖いじゃない……」
「輝元が、ですか?」
隆景からすれば輝元は出来の悪い甥だ。
毛利家の当主がそんなことでどうすると何度か引っ叩いたものだが、秀秋はそんな輝元が怖いのだろうか。
すると秀秋は、違うと頭を振った。
「毛利元就様……すごく怖いんだ」
「……え?」
こわくないの、と聞いてくる秀秋に、そんなことはありませんと曖昧に返す。
何よりも尊敬していた父だ。
畏敬の念はあれど、恐怖を感じたことはない。
敵であれば手強そうだ、と思ったことならあるが。
しかし、何故秀秋は一応の祖父である元就を怖いなどと。
「まさか、知らないのですか? 毛利元就が、あなたの、」
「え? な、なに?」
よくよく考えれば、秀秋が元就を知っているはずがない。
元就は秀秋が生まれるより前に逝去しているのだ。
だが目の前の秀秋は元就のことは知っていて、それでいて隆景が元就の子であることは知らないらしい。
異界はまた事情が違うのかと口を噤み、一足先に立ち上がった。
「先に外に出ています。ゆっくり食べて、いらっしゃい」
「うん」
しばらく秀秋が過ごすのなら、いくらかの服が要るだろう。
近くの反物屋に入り、それとなく生地を眺めていた。
赤い紅葉の柄。
赤い頬のあの子に似合いそうだと小さく笑う。
しかし少し派手だろうか、と手に取るのは憚られた。
そうして四半時は店の中を見ていたが、いつまで経っても秀秋が出てくる様子はない。
どうかしたのかと思いながら、先程の店に戻ってみた。
「秀秋」
中に秀秋の姿はない。
外に出てしまったのか、と思ったが、食事は全て食べ終えてはいなかった。
それに、万が一外に出たとしても、すぐ近くの反物屋だ。表からも見える。
そこにいて、お互いに気付かないはずがない。
「あら、あの子」
女将が小さく声を上げた。
それが秀秋のことを指しているのではないかと、隆景は女将に尋ねた。
「さっきまでいたんだよ。本当に、ついさっきまで。ほんの一瞬目を離しただけなんだけどねえ」
「そうですか。わかりました」
ありがとうございますと頭を下げて店から出る。
異界への出入り口はどこにでもあって、ふとした瞬間に繋がるらしい。
一度繋がった異界はすぐに閉じてしまうが、その際に彼のように紛れ込んでしまえば、またすぐに異界に戻される、と。
噂でしかないが、それより他に頼るものもなかった。
きっと元の異界に戻ったのだろう。
それとも、もしかしたら、あの小早川秀秋という存在そのものが、隆景の創り出した幻だったのか。
「歳は取りたくないものですね。いえ、取ってみるもの、でしょうか」
そうひとりごちて、安芸への帰路に就く。
途中、赤く染まった紅葉を手に取り、あの子の手のようだと頬を緩める。
異界の子でも、幻の子でも構わない。
大切な、もう一人の、私の子。