愛の形はそれぞれ
朝から散々だった。
近所のおばさんにはゴミの分別で叱られて、私のじゃないという説明に15分もかかってしまった。
協会についたらついたで、山のような書類仕事が待っていた。
それなのに今日に限ってワンダラー発生の緊急出動が二回もあった。
そのせいで書類も片付かず、残業をしてやっと終わったと思って協会を出たら予報外れの大雨だ。
「ほんと、ついてない……」
誰に言うでもなくそう呟いて、屋根の下から厚い雲のかかった暗い空を見上げた。
今日は大切な約束があったのに、仕事が終わったら病院まで迎えに行くねと言ってあったのに、これじゃあ待ちぼうけさせてしまっているだろう。
今日はもうやめよう、と連絡をしようとスマートフォンを取り出したところで、目の前の道路に見慣れた車が止まった。
運転席の彼はこちらを見ると、窓越しに手招きする。
「レイ!」
駆け寄って、急いで助手席のドアを開けて滑り込む。
たったこれだけの距離なのに髪の毛はかなり濡れてしまった。
レイはタオルを取り出すと、私の頭を拭いてくれる。
「待たせてごめん……」
「何事もないならよかった。お疲れ様」
その言葉に胸がじんと熱くなる。
いつだったか、レイは私に会うと甘いものを食べることが減ると言っていた。
私のことをお菓子かなにかとでも思ってるの、とその時は少し呆れたけれど、私も同じみたいだ。
疲れたときに会うレイは、甘い甘い御褒美みたいだ。
この御褒美があれば、どんなことだって乗り切れるのだ。
「なにを笑っている?」
「今日は厄日だと思ってたけど、この時間のためにあなたが仕組んだの?」
笑いながらそう告げて、袖を引っ張って目を閉じる。
同じように小さく笑う声が聞こえたあと、甘い甘い唇が降ってきた。
うとうとしていた真夜中、ふと電話の着信に起こされた。発信者の名前を確認して、すぐに電話を取る。
「もしもし?」
「寝てたか?」
相手の声がほんの少し遠ざかる。このままでは切られてしまう、と咄嗟に思って、必死にあくびを噛み殺した。
「寝てないよ」
電話口から低い笑い声が聞こえる。
協会に言われるがまま、遠く離れた地に出張に来た。出張に来るとなぜかいつもシンに会うのに、今回ばかりはそんな偶然もなかった。寂しい、と少しは思うけれど、あと三日もすれば帰れる。
ふと、電話口から聞こえる歌が耳に入った。とある映画のエンディングテーマだ。
「映画を見てたの?」
「ああ。時間が空いたんでな」
「その映画、確か続編があったよね。同時に再生したら一緒に見てる気にならないかな」
臨空とここでは時差はほとんどない。ただ赤道を挟んでいるせいで、暖かな臨空と裏腹にこちらはとても寒い。だから一緒に見ている気になりたかった。気分だけでも近くにいたかった。毛布に包まってスマートフォンを操作し、今シンが見ていた映画の続編を探す。
「俺に会いたいのか?」
からかうような言葉に、いつものように意地を張った返事が咄嗟に出てこない。そのぐらい、一人ぼっちのここは寂しい。
「……うん」
一瞬の息を飲む音のあと、ソファーから立ち上がるような衣擦れの音がした。
「一晩待て。すぐに行く」
「え、来なくていいよ。三日もすれば帰るんだし」
「俺がお前に会いたいんだ」
来なくていい、今すぐ行く、の問答を繰り返し、その問答がどう決着したのか、私は途中で寝落ちてしまって覚えていない。
けれど翌朝、ホテルのロビーでソファーに座る、見慣れた背中が確かにあった。
「もしも私たちが離れることがあるとして」
何気なくそう問いかければ、セイヤは一瞬だけ眉間に皺を寄せた。
「そのとき、セイヤは平気でいられる?」
「どうだろうな……」
顎に手を当て、難しい顔で考え込む。
いいえ、と即答してほしかった。これは試し行為で甘えだと自覚している。だけど、我ながら面倒くさいと思うけれど、いいえ、と言われたかった。
「あんたはなんて言ってほしい?」
それを見透かされたのか、先程は一転して、セイヤは穏やかな顔で問いかけてくる。
「……嘘を言われたり、誤魔化されるのはいやだな」
「じゃあ本音なら、何を言ってもいいんだな?」
その言葉に不安になる。きっと、セイヤは平気なのかもしれないと。
「その前に聞かせてくれ。あんたは、俺と離れても平気か?」
大丈夫、と強がるつもりだったけれど、セイヤの目を見ると、それも言えなくなる。嘘を言われたり、誤魔化されるのはいやだ、と私が自分で言ったのだから。
私が答えられずにいると、セイヤは更に言葉を続ける。
「俺は、案外平気かもしれない」
「……そうなんだ」
「ああ。何度離れたって、何度もまた見つけ出して、また出会う。そう決めてる」
迷いなくそう言う彼を見ると、本当にそんな気がしてくる。
「だからもし離れることがあっても、あんたは笑っててくれ。俺があんたを見つけやすいように」
「笑っていれば見つけられるの?」
「きっと見つけられる。一番明るい星のように」
だけどやっぱり、離ればなれにならないことが一番大事ではある。この例え話が本当にならないように、ずっと離れずにいたい。
そう言うつもりで、寄り添って手を繋ぎあった。
いつだったか、ホムラが半分道楽で入院したとき、彼は私が来ないことに拗ねて、記憶喪失のふりをしようとした。そして今、また同じような状況になっている。数週間ぶりに訪れた彼の家、インターホンを押すとそっけない声が聞こえた。
「どちらさま?」
「……連絡もしなかったことは謝るよ。ごめんなさい。とりあえず入れてくれない?」
するとインターホンはぷつりと切れ、数秒後には唇を尖らせたホムラが玄関の扉を開けてくれた。お邪魔します、と立ち入ろうとすると、邪魔するなら帰ってね、と嫌味が飛んできた。本当に帰ろうとしたら引き止めるくせに、とは思ったけれど言わなかった。
アトリエは少し荒れていた。何かを描き殴ったであろうカンバスは塗り潰されていて、床の上にはやはり描き殴られたクロッキーが丸められていくつも捨てられている。
「君が連絡もくれないから、創作が進まなくてね」
「それって私のせいなの?」
「そうだよ。僕を蔑ろにして、それなのに夢の中では簡単に会いに来るんだ。だから目覚めたくなくなった。とんだ悪夢だよ」
ひどい言われようだけど、それだけ私を想ってくれているとわかると嬉しくもある。ホムラは文句を言いながらも、ソファーの上に私が座れるだけのスペースを簡単に用意してくれて、お茶も淹れてくれる。
並んでお茶を飲み、やがて少し落ち着いたようにホムラは小さく息を吐いた。
「いっそ御伽噺のように眠り続けてしまおうかと思ったよ」
「そうなったら、私が起こしに来るよ」
「どうやって? 王子様みたいに?」
私は小さく笑うと頷いて、それから少し背伸びをしてホムラの頬に唇を寄せた。ホムラは一瞬だけ顔を赤くして頬を押さえたけれど、すぐにその手を離してはにかんだ。
「僕の唇はそこじゃないんだけど?」