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天使の輪の上で

ややあって、私は休みの日は毎回天行へ行くことにした。
もちろんマヒルの家だ。
仕事が終わったあとそのまま雲中列車に乗って、マヒルの家に泊まって、休みが終わる日は天行から出勤する。
何をするでもなく、ただ一緒にいるだけだ。離れていた時間を埋めたかった。

その日も仕事が終わって、すぐに天行へ行くつもりだった。
けれどモモコに誘われて、夜ご飯を食べることになった。
それ自体は問題はない。モモコとご飯に行くね、という連絡は送ったし、了解、と返事も来た。
予想外に話に花が咲いてしまって、お店を出る頃には午後十時を回っていた。
「お兄さん、心配するよね?」
「大丈夫だよ。十二時までに帰れば」
「どうして十二時なの?」
「……シンデレラの魔法が解けるから?」
それはマヒルがよく言う冗談のひとつで、十二時になったら魔法が解けるから、それまでに帰ってこい、と何度も言われたのだ。
その話をすると、可愛いね、とモモコは笑う。
尤も、私は階段を降りるのではなく、空に駆け上がっていくのだけど。
天行が遠いと言っても、まだ充分間に合う時間だ。
そう思って特に急ぎもせずに駅へ着くと、更に予想外のことが起きていた。
「うそ、遅れてるの?」
何かトラブルがあったのか、雲中列車は遅れていた。
駅は天行行きを待つ人々で溢れかえっていて、運行が再開してもすぐには乗れなさそうだった。
列車が遅れていて、とマヒルに送ろうとして、その手が止まる。
遅くなると何度も連絡して心配させたくなかったし、何より、遅くなるなら今日は来なくていい、と言われるのが怖かった。
結局私はマヒルに連絡をしないまま、一刻も早く再開することを祈っていた。

祈りが通じたのかは定かではないが、列車は案外早く運行を再開した。
このぶんなら十二時にはギリギリ間に合うだろう。
人混みに潰されながら飛び乗って、列車は空を昇っていく。
天行駅に着いたらすぐに降りて、改札を抜けて小走りでマヒルの家に向かった。
電子錠に指紋を通すと、解錠音とともにドアが開く。
時計を見ると十二時を六分回っている。
家の中は照明が消えて暗くなっていた。
もう寝てしまったのだろうか、と静かに入り、洗面所で手を洗ってリビングのほうを向き直ると、そこには暗がりに立つ人影があった。
思わず声を上げそうになる。
が、近付いてくる人影がマヒルだとわかると、私もその人影に歩み寄った。
「ただいま」
そう声をかけると、マヒルに軽く抱き締められる。
こちらに体重を預けるように、肩に頭が乗せられた。
「十二時を過ぎたぞ」
「列車が遅れてたんだよ」
「なら、なんで連絡しない?」
「それは……」
来るな、と言われるのが怖かった、なんて言えない。
苦し紛れに、言い訳を絞り出した。
「間に合うと思ったんだよ」
「今度からはちゃんと連絡してくれ」
わかったよ、と背中を叩くと、マヒルはようやく体を離した。
その目がどこか暗く陰っている。
この目を知っている。マヒルは昔から、時々こんな顔をする。
それがいつも私に関わることだ、と知ったのは最近だけど。
離れていこうとするマヒルの手を掴んで、指を絡めた。
「今日は一緒に寝よ?」
そう問いかけると、その目が大きく揺らいだあと、マヒルは小さく頷いた。

私達の『一緒に寝る』には、文字通り『一緒に寝る』という意味しかない。
体を重ねたことは一度もない。それどころか、キスだってしたことがない。
二人並んでベッドに潜り込んで、向かい合って手を繋ぐ。
「おやすみ」
そう声をかけて、体を伸ばしてマヒルの額にキスをすると、マヒルも同じように私の額にキスを返してくれた。
おやすみの挨拶はしたけれど、お互いに眠れない。
至近距離で見つめ合うだけだ。
静まり返った部屋で、ただ自分の息遣いと鼓動だけが聞こえる。
「……ごめんな」
先に口を開いたのはマヒルだった。
「どうして謝るの?」
「結局、お前を閉じ込めてるみたいだ」
マヒルには昔からそういう悪癖があった。
近所のガキ大将から守るため、として屋根裏に閉じ込められたり、天行に来てからもこの家に閉じ込められたり、艦隊に閉じ込められたりした。
けれど、ちゃんとわかってる。
彼が私を閉じ込めるのは、いつだって私を危険に巻き込まないためだった。
だから謝ることなんて何もない。
そう言うつもりで首を振ると、でも、とマヒルは続ける。
今日のマヒルは手強いようだ。
「時々、不安になる。お前を縛り付けてるんじゃないかって」
その言葉に体を起こして、マヒルを押し倒すように肩を押さえつけた。
彼の胸元で、私が贈ったペンダントがかすかに光を反射する。
縛り付けられてなんていない。縛り付けてるのはむしろ私のほうなのだ。
遠いと言っても今生の別れでもなく、会おうと思えば週に一度は会える程度の距離に行くだけの彼に、『When U come back』なんてペンダントを贈るくらいには、私の気持ちは重い。
それなのに彼はいつも、彼の気持ちだけが重いかのような言い方をする。
「先に好きになったのは私。先に首輪をかけたのは私。あなたに縛られてるんじゃない。私が、あなたを縛ってるんだよ」
愛とか恋とか、あるいは束縛とか独占欲とか、その程度の気持ちではきっと足りない。
自分の中に渦巻くどす黒い感情の名前を、私自身もわからないでいた。
ただ、マヒルと離れたくない。ずっと一緒にいたい。マヒルにもそう思っていてほしい。
顔を近付けると、マヒルが息を飲む。
このままキスしてしまいたかった。
けれど、マヒルが踏み越えないよう留まっているその一線を、私が越えるわけにはいかない。
私の許可が貰えるまでは、とマヒルはずっと踏み留まっている。
私はとっくに許したつもりだけれど、マヒルの中では何かが許されないようだ。
だからマヒルの中の何かが許されるまで、私も待たなければいけない。
唇に触れるのはやめた代わりに、彼の唇の端、頬との境目に軽くキスをした。
彼は何か言いたげに目を見張ってこちらを見上げる。
その目に僅かな光が戻ってきた。
彼の大きな手に頬を撫でられ、軽く引き寄せられる。
ただそれだけで、結局唇は触れ合わなかった。
私はまたベッドに潜り込んで、彼の胸にしがみつく。
彼の手が背中に回され、苦しいくらいに抱き寄せられる。
足を絡ませ合って、隙間を埋めるように密着する。
境界線がなくなるほど抱き合いながら、二人揃って眠りに落ちていった。

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