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以前の通り、とはいかないまでも、少しずつ穏やかな日々を取り戻しつつあった。
その日も彼女の家に招かれて、特に何をするでもなくゆったりと過ごしていた。
ふと彼女が席を外した拍子に、テーブルの上に置いたままだったスマートフォンが小さな通知音を鳴らす。
傍らのソファーに座ったまま一瞬だけ顔を上げ、すぐに彼女に呼びかけた。
「何か届いた」
「どこから?」
「これは……市役所?」
「市役所?」
同じく疑問形で返してきた彼女は、首を傾げながら戻って来る。
隣に座る彼女に、さすがに内容を見るわけにはいかないから、とスマートフォンを差し出した。
彼女は通知から内容を確認する。その画面は見えないが、彼女の顔が見る見る曇っていった。
曇りながら、表情を消していく。
かと思えば画面を消し、乱暴にテーブルに伏せて、深く息を吐いた。
「……何かあったのか?」
「……何も無いよ」
何も無いわけがない。
彼女が市役所から通知を受け、そんな顔を見せるような心配事が、今あっただろうか。
記憶を引っ張り出して巡らせるが、思い当たることはない。
ただひとつ、絶対に触れられたくないであろう出来事を除いて。
その『ただひとつ』が原因ならば、放っておくわけにはいかなかった。
不躾だとわかっていても、食い下がる気でいた。
「何かあるなら力になりたい」
「何も……ううん……」
レイにならいいか、と小さく呟いて、彼女は目を伏せる。
何か言うまで、じっと横顔を見つめてその時を待った。
やがて彼女はもう一度息を吐くと、こちらの肩に凭れてきた。
遠慮がちに指を絡ませて手を繋ごうとする。絡めた指を軽く握り返すと、凭れかかった頭がぴくりと震えた。
「……兄さんとおばあちゃんの死亡届が、正式に受理されたって」
その言葉に、何も言えずに思わず喉が鳴る。
彼女の兄と祖母が、自宅の爆発に巻き込まれたあの日。
家の残骸から二人の遺体は見つからなかったため、彼女はあくまでも『行方不明』として届け出ていた。
だが現場の状況から生存はしていないだろうと、警察は早々に捜査を打ち切って死亡届に変更するよう進言してきた。
当然彼女が納得するはずもなく、けれど彼女一人が納得しなかったくらいで警察が動かないのもまた事実だった。
捜査が打ち切られて長期間経ち、その事件から間もなく一年経とうかという今になって、警察はついに死亡扱いとし、市役所もまたそれを受理した。
二人の死亡扱いに伴って、祖母と、兄と交わされていた養子縁組も全て解除され破棄された。
元々遺産も借金もなかったから引き継ぐものも何もなかったけど、と彼女は乾いた言葉を続ける。
「……これで私、一人になっちゃった」
それは、きっと自分には永遠にわからない孤独だろう。
離れているとは言っても両親ともに健在で、連絡を取ろうと思えば取れる、大人になった今でも誕生日にプレゼントを贈ってもらえるような自分には。
永遠にわからなくても、分け合うことすらできなくても、何もせずにはいたくなかった。
ソファーから体を起こし、片手を伸ばして彼女の頭を撫でる。
彼女は耐えきれなくなったように、胸の中に飛び込んでくる。
縋るように小さく震えるその体を抱き締めると、鼻を啜るような音が聞こえた。
どうして、今になって。一年近く経って、ようやく彼女の心の整理がついたのに。

彼女を一人にはしておけない。
泊まっていく、と半ば無理やり押し切って、ソファーで寝るために毛布を借りようとした。
だが彼女は袖を引いてくる。
「……レイ、なぐさめてよ……」
彼女が何を望んでいるかはわかったが、今その望みを叶えるつもりはなかった。
これ以上彼女を傷付けるわけにはいかない。
誘われるまま一緒にベッドに潜り込み、ねだるような視線と唇を躱し、ただ強く抱き締めた。
あやすように、寝かしつけるように、背中をゆっくりと撫でる。
「もう、何も考えたくない……気絶したい……」
「それには協力しない」
なんで、どうして、と抗議する彼女を、それでも必死に宥め続けた。
やがて泣き疲れたのか、彼女は小さな寝息を立てる。
眠ってはいるが眉間に皺は寄ったままで、時折苦しそうな吐息が零れた。
「……にい、さ、ん……」
離しかけた体をもう一度近付け、また抱き締める。
頭を撫で、背中をさする。
「……大丈夫だ。お前は絶対に『オレ』が守ってやる」
兄の口調を真似して声をかける。
昔、まだ幼かった頃に、彼女の家に泊まったことがあった。
彼女の兄と、彼女を真ん中に挟むように雑魚寝をしたこともあった。
その時、怖い夢を見たと泣きつく彼女を、兄は同じようにあやしていた。
幼い頃は、その役目が自分にも回ってくればいいのに、と子供心に思っていたが、今になって回ってきてほしくはなかった。
数度声をかけて宥めてやると、彼女の睫毛が震えて、ゆっくりと目が開く。
こちらをぼんやりと見上げていた。
「兄さん……?」
見間違えたのだろう、とすぐにわかる。
だが彼女はすぐに正気に戻った。
「……レイ」
「魘されていた」
「魘されてた……? だって、幸せな夢だったのに」
兄と祖母がいた、あの日々。
幸せだったあの日々。
そんな日々は、目を開けたら消えてしまった。
「……こっちが夢ならよかったのに」
そう言ってまたすぐに眠りに落ちる。
それは子供のような、叶わない戯言のつもりだったのだろう。
それでも今の自分には、所詮兄の代わりにはなれないのだと突き付けられるような気持ちだった。
落ち込んでいる場合ではない。勿論、拗ねている場合でもない。
兄とも祖母とも違う形であれ、彼女に寄り添うと決めたのだから。
涙を湛えそうなその瞼に唇を寄せて、自分もまた目を閉じた。

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