夜の挨拶
直球
『上』は今日も静かだ。天井越しに物音ひとつ聞こえない。
彼は時折、パートナーの私を置いて一人でどこかへ行ってしまう。
今回もその悪癖が出ているようだ。
こういう時、彼は大抵、ひどく疲労困憊して帰ってくる。だから少し心配だった。
スマホには未だ何の通知もない。メッセージ画面を開き、『いつ』と文字を打ちかけてすぐに消した。
その時、窓の外が仄かに光る。
まさか、と思うよりも先に、僅かな隙間から鋭く入り込んできた。
「おかえ……」
挨拶をする前に、目も合わせずに強く抱き締められる。
耳元で深い呼吸と、疲れた、という掠れた声が聞こえた。
そのまま体重をかけられて倒れそうになり、慌てて背中を軽く叩く。
どこで何をしていたか、聞いてもきっと教えてはくれない。
今の私にできるのは、おかえり、と迎えることだけだ。
「シャワーを浴びたら? 着替えは用意しておくから」
「そうする」
彼の服は何着か私の部屋にも置いてある。そのほとんどはゆったりとした部屋着だ。
それを脱衣場に置いて、軽く食べられるものはあるだろうかと冷蔵庫を探った。
運悪く、簡単に用意できそうなものや出来合いのものは何もない。
食材ならば多少はあるが、今から作り始めたら遅くなってしまう。
かといって、こんな時間から一人で買いに行くのも気が引ける。
どうしようか、と悩んでいると、早々にシャワーを終えたのか、出てきた彼に後ろからまた抱き締められた。
「早かったね。ちゃんと温まった?」
けれど何も答えず、肩口に顔を擦り寄せられた。
下にスウェットは履いているが上は着ていないらしく、服越しに体温が伝わってくる。
濡れたままの髪から垂れた水が私の肩を濡らした。
「ちょっと、髪くらいちゃんと拭いて……」
お腹の前に回されていた手がトップスを軽く持ち上げ、その隙間から侵入しようとする。
指先が臍を掠め、体が竦みそうになる。
慌ててそれを阻止するように押さえた。
「したい」
「だ、だめ……」
「どうして」
耳元で囁かれる声は確かな熱を帯びていて、流されそうになる。
私だって数日ぶりに会って、思うところがないわけではない。
寂しかったのも、彼に会いたかったのも間違いではないのだけれど。
「今はだめ……疲れてるんでしょ……」
「疲れてない」
さっき疲れたって言ったじゃない、という言葉は、脇腹を撫でられて喉の奥へ引っ込んだ。
体力はとっくに限界のはずだし、お腹も空いているだろうに、私を閉じ込める腕の力強さはとてもそうとは思えない。
私のほうが力が抜けそうになる。
だめだ、抵抗しなきゃ、と声を振り絞った。
「それに、明日も仕事で……」
「わかってる。無理はさせない」
これまでのことを思うと正直あまり信用できない。
けれど耳朶に唇を這わされて、思わず体が小さく跳ねる。
私もその先を期待している。お互いにもう限界だった。
「……い、一回だけ、なら……」
その言葉を待っていたかのように、勢いよく抱き上げられた。
急な浮遊感に驚いてしがみつくと、小さな笑い声とともに見下ろされて、柔らかなマットレスへと運ばれていくしかなかった。