夜の挨拶
アロマキャンドル
「ただいまー」
自分の家でもないのに、誰に言うでもなく宣言しながら無遠慮に立ち入る。
一緒に入ってきた家主が、おかえり、と笑った。
二人で外で食事をして、彼の家に帰ってきたところだ。
私がカウチソファーに寝転がると、彼は仕方なさげに部屋の照明をつけてくれる。
とはいえ全灯ではない。間接照明をつけただけで、まだ薄暗いと言える範囲だ。
お腹が膨れて眠くなってくる。けれど眠りに落ちる前に、サイドテーブルに小さななにかを置きながら、彼も隣に横になった。
「それは?」
「アロマキャンドルだよ。試作品をもらったんだ」
縁のガラスを軽くなぞりながら指先から炎を生み出し、芯に火を点す。
小さな炎がゆらゆら揺れる。同時に、ふわりと香りが漂った。
この香りに覚えがある。
少し苦みのある、植物の発酵したような香り。
以前、彼が猫のように酔ってしまった香りだ。
その時の香水そのままではなく、それを淡く薄くしたようだった。
「この香り、嫌いだって言ったじゃない」
「嫌いだなんて言ってないよ。いい香りとも言った。心地よく感じられるように、調整してもらったんだ」
言いながら、間接照明を少し落とした。元々薄暗かった部屋は更に暗くなる。
お互いの顔も見えづらくなるほどだ。
その暗がりの中で、小さな炎が明るく見える。
「たまには、ベッドじゃなくてここで眠るのもいいかもね」
そう言う相手が、ベッド以外の場所で頻繁に寝落ちているのを知っている。
作業の合間や、大仕事を終えたあとだと仕方ないのだろう。
「風邪ひくよ」
「なら、ブランケットを持ってきたら?」
そうは言ったものの、二人とも動かずに見つめ合う。
ブランケットがどこにしまってあるかわかっているのに、取りに行こうとはしない。
お互いの目の中で炎が揺れる。
彼の特徴的な瞳の色もあって、この世のものとは思えないほど幻想的だ。
まるで海の底で燃える炎のようだった。
そんなものは見たことはないはずだし、そもそもありえないはずなのに、なぜかその光景は美しく脳裏によぎる。
その幻想を掻き消すように何度か瞬きをした。
今日は私のほうが香りに酔ったみたいだ。
手を伸ばしてその頬に触れると、同じようにゆっくりと頬を撫でられた。
「……もう寝るの?」
小さく問いかけると、彼は半身を起こしてキャンドルを吹き消した。
炎が消えて、香りだけが残る。
その香りの中へ、二人一緒に飛び込んで溺れていく。