夜の挨拶
歯磨き粉
香りに関する記憶というのをプルースト効果と呼ぶらしい。
そんな呼び名も、呼び名の由来もどうでもいいけれど、私にとってそれは『ミントの香り』かもしれない。
ジャスミンの香り、と言いたいところだけど、残念ながら彼本人はそこまでジャスミンを纏ってはいない。
仕事を終えた帰り道、翌朝が早いと言っていた彼を呼び出す気にはなれず、市街を歩く。
ビルの前では新商品だというアロマの宣伝をしており、その香りにふと足を止めてしまった。
(……ミントの匂い……)
そうなるといてもたってもいられず、こちらいかがですかとにこやかに勧めてくる販売員も振り切って、家とは違う方向へ走り出していた。
普段、車で通勤するくらいの距離だ。タクシーを捕まえればよかった、とすぐに後悔した。
息を弾ませながら目的の場所についた時には深夜に近かった。
窓から見える照明は消えていて、もう眠っているのだろうなと覚悟する。
一度だけ。たった一度だけインターホンを鳴らして、それで返事がなければ帰ろう。
門の前でボタンを押し、カメラに自分が映るように立つ。
スピーカーから返事はないが、一分も経たないうちに玄関扉の照明だけが点き、ほぼ同時に扉が開いた。
「……来ちゃった」
既に支度を終えて寝姿になった彼は私を見るなり目を見開き、慌てたように私を招き入れる。
私をリビングのソファーに座らせ、手際よくお茶を用意してくれた。
暖かく、甘い香りのするお茶に、ほっと息をついた。
「やはり迎えに行くべきだったな」
優しく頬を撫でる指先に、小さく首を振る。
「私が断ったんだから、気にしないでよ」
「なぜ来ようと思ったんだ?」
その質問には答えられない。
まさか、ミントの香りがしたから、なんて言えなかった。
空になったカップをテーブルに置く。
「もう寝るところだったでしょ?」
「ああ」
「なら、早く寝ないとね」
洗面所へ向かう背中を見送りながら、カップを片付ける。
彼はいつも、寝る前にこうして歯を磨く。
私がいるといないとに関わらず、いつもだ。
けれど予想より少し長いその時間に寂しくなって、洗面所を覗き込んだ。
ちょうど歯磨きを終えたのか、彼は口を濯いでいた。
「ちゃんと洗えた?」
「お前は私の母親か」
「チェックするよ!」
彼を見上げながら口を開けさせ、顔を近付けて中を覗き込む。
彼の洗面所には二種類の歯磨き粉がある。
無味無臭のものと、ミントの強いもの。
ミントのほうが洗浄力が高いのだけれど、ミントが辛いからという理由で、普段遣いはしていなかった。
けれど、まさか、今日に限って。
いつもより時間をかけて磨いたせいもあってか、ふわりとミントの香りが漂った。
私と夜を迎える時、彼はこうして、ミントの歯磨き粉でじっくりと歯を磨く。
「……明日、早いんじゃないの?」
私の言葉が意図するところに、彼はふっと笑った。
「私は何も言っていないが?」
逆に頬に手を添えられ、彼の顔が近付く。
目を閉じたのを合図にしたかのように、唇が触れる。
待ち望んだ、ミントの香りが口の中に広がった。