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夜の挨拶

深爪

ぱちん、という小さな音が絶えず室内に響く。
普段は極端なほど短いというわけではない彼の爪が、これでもかというほど短く切られていく。
もう少しで出血してしまうんじゃないか、ともすれば本当に一瞬だけ出血してるんじゃないかと思うけれど、当の本人はそれを気にした様子はない。
切られた爪に四回もヤスリをかけて、切り口も表面も滑らかに整えられる。
長い時間をかけて、彼はようやく片手分の手入れを終えた。
「何か言いたそうだな?」
顔を上げずに爪切りを持ち替え、もう片方の指先に取りかかる。
「……別に」
素っ気なく答えたつもりでも、薄ら笑いを浮かべる彼にはお見通しなのだろう。
丁寧に整えられた爪が誰のためなのか、このあとに何をするのか、期待しないと言ったら嘘になる。
私を誘う前にこれ見よがしに爪の手入れをする、と気付いたのは最近のことだ。
あの指が私に触れることを考えると、目が離せなくなる。
「随分熱心に見るんだな」
「あなたこそ、随分丁寧なんだね」
「ああ」
二本目の指にヤスリをかけ終わった彼は、指先に軽く息を吹きかけた。
細かい爪の破片が飛んでいく。あとで掃除をするのは私じゃないから、何も言うつもりはない。
「こうして爪の手入れを見せると、俺が何か言う前から子猫が甘えてきてくれるからな」
「え? そんなわけないでしょ。あなたが誘うから……」
言いながら、ここ数週間の記憶を手繰り寄せた。
最後に彼のほうから声をかけてきたのはいつだっけ。
そういえば、爪の手入れをしたあとはどうせそういうことになるからと、最近は甘んじて受け入れていた気がする。
彼に何も言われなくても、私のほうから彼の手を引いていたかもしれない。
「懐いたものだな」
途端に顔が熱くなる。条件付けされた動物のようだ。
彼の手から目を逸らし、体ごと背けて拒絶すると、鼻を鳴らすような笑い声が聞こえる。
「今日はしない。絶対にしないから」
「機嫌を損ねてしまったか。どうしたら許してもらえる?」
それには答えずに、なおも顔を背け続ける。
全ての爪の手入れが終わったらしい彼は、破片が残らないよう指先を丁寧に拭き取った。
そうして綺麗になった爪が、私の顎に添えられる。
「ほら、お前のための準備ができたぜ、女王様」
「なにそれ。そんなので騙されないから」
「専用のタクシーでベッドまで運んでほしいって?」
手を差し出されても、悔しさからそれを突っぱねようとする。
けれど手入れされた爪はぴかぴかで、宝石のように柔く光を反射する。
結局その輝きに抗えずに、私はその手に縋ってしまう。

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