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夜の女王のアリア

「……何があったんだ、これは」
約束の地での契約を終えて、鋼牙が人界へ帰ってから、しばらくが過ぎた。
その日、彼には少し、ほんの少しだけ時間に余裕があった。
そのため、普段なら滅多にしないことだが、彼の方からカオルの元を訪ねてみたのだ。
「鋼牙!? 来るなら来るって言ってくれたら……よりにもよって今日なんて」
だが、彼女の部屋は、いつになく散らかり放題で、文字通り足の踏み場もないほどだった。
けして広くはないアパートの一室。
そこに、今まで彼女が描いたであろう絵を広げている。
「なんだ、カオル。引っ越すのか?」
「違うわ、ザルバ。ちょっとね、昔の絵を整理してて」
「何故、突然そんなことを始めたんだ?」
「出版社の人に言われたの。昔の絵を見せてくれませんかって」
『白い霊獣と仮面の森』という絵本を出版してから、カオルはそれなりに名の通った作家となった。
それから何冊か絵本を出版し、つい最近、画集を出さないかと提案されたのだ。
その画集に収録するために、昔の絵を引っ張り出していた。
「……手伝う」
「え、いいの?」
「ああ」
「鋼牙にしては珍しく、気の利いた申し出だな」
ザルバが茶化すと、鋼牙は少しだけザルバを睨んだ。
カオルは一瞬だけ喜んだが、そのあとすぐに、しまった、という顔をした。
そして、部屋に上がろうとする鋼牙を両手で制した。
といっても、散乱した絵のせいでその場からは動けなかったため、両手を広げて突き出しただけだったが。
「やっぱりちょっと待って!」
「……何だ」
鋼牙は出しかけた足を降ろし、その場に留まった。
「恥ずかしいっていうか……昔の絵だから、その、下手だったりするから」
「構わない。第一、俺には絵の上手い下手はわからん」
「でも、あたしが嫌なの!」
昔の絵が下手で、それを鋼牙に見られるのが恥ずかしいわけではない。
鋼牙が芸術関係に疎いのは、彼女も知っていることだった。
カオルはどちらかというとズボラな方で、部屋の片付けなどは得意ではない。
そのため、絵をどけると、その下から脱ぎ散らかした服や下着が出てくるかもしれない。
そちらの方を危惧していたのだ。
鋼牙も鋼牙で、普段ならカオルに止められれば大人しく引き下がるのだが、彼女があまりに必死に止めるものだから、つい意地になっていた。
手伝う、手伝わないの長いやりとりで、先に折れたのはカオルの方だった。
決定打となったのは、恐らく鋼牙の、気に入った絵があったらもらってもいいか、だっただろう。
何やかや、カオルも鋼牙には弱かった。
「……それじゃあ、お願いします」
「ああ」
大丈夫。昨日は服や下着を脱ぎ散らかしたりしてないはず。
カオルはそう自分に言い聞かせて、作業を再開した。
「探してる絵があるの。えっと……女の人の絵で、全体的に黒っぽい感じで……裏に『夜の女王』ってタイトルが書いてあるかな」
「夜の女王?」
「うん。高校生のときに『魔笛』っていうオペラを見てね。その中に『夜の女王のアリア』が出てくるんだけど、それに感動しちゃって。それで、イメージして描いた絵なの。その絵で初めてコンクールで入賞したから、すごく嬉しくって。うーん、どこにしまっちゃったんだろう……」
「……おい鋼牙。今のカオルを見てると、約束の地にいたあいつらのことも、少しはわかるって気がするな」
ザルバが小さく呟くと、鋼牙は無言で小さく頷いた。

散らかった絵が半分ほど片付いた頃、鋼牙はとある絵を取り上げた。
カオルの言ったとおり、全体的に暗い色使いで、でもその女性だけは極彩色で描かれている。
保存状態がよくなかったのか、ところどころ絵の具が剥がれてしまっている。
裏には確かに『夜の女王』と書かれている。
その下に少し小さな字で、『2-C 御月カオル』とも。
「カオル。これか?」
「そう! それ!」
カオルは少ない足場を踏んで、鋼牙の元へ来て、絵を受け取った。
「うーん、やっぱり絵の具が剥げちゃってる……しょーがない、修復しようかな」
鋼牙はカオルの手の中にある、絵の具の剥がれたその絵を見つめて、そして思い立ったように口を開いた。
「カオル。この絵をもらってもいいか?」
「これ? うん。修復が終わったら、一度出版社に持って行くけど、その後でいいなら」
「いや、今だ。修復はしなくていい。今欲しい」
「今? このまま? 絵の具がダメになっちゃってるけど」
「構わない」
「それなら、はい。どうぞ」
差し出された絵を見て、鋼牙は少し目を見開いた。
「いいのか?」
「いいも何も、鋼牙が欲しいって言ったんじゃない」
「だが、出版社に持っていくのは……」
「これ以外の絵でもいいし、この絵も構図を少し考えて描き直すわ。やっぱり改めて見ると、ちょっと拙いし」
カオルはその絵を押し付けるように渡すと、部屋の片付けを再開した。

あらかた部屋が片付いた頃、カオルは突然、今度は別のチェストを引っ掻き回し始めた。
「何だ?」
「思い出したの。確かこの辺に……あった!」
カオルが取り出したのは、1枚のLDだった。
20年以上昔に発売されたらしいそのLDには、オペラ『魔笛』が収録されていた。
「父さんの遺品の中にあったの。これを高校生の頃見せてもらって、あの絵ができたの。今は再生機器がないから、見れないんだけどね」
「夜の女王、だったな。おまえが好きだと言ったのは」
「そう。内容はよく覚えてないんだけど、確か復讐の歌だったかな」
「復讐か」
「って言っても、結局はこの女王が黒幕で、最後は倒されるんだけどね。この時夜の女王を演じた女性も、最近はあんまり見なくって……忘れられちゃったのかな」
カオルがそう言うと同時に、LDのケースから一枚の写真が落ちた。
鋼牙はそれを拾って、まじまじと見つめた。
「これは……」
「その人よ。この魔笛で夜の女王を演じた人。私が、すごく感動した人」
その女性は、鋼牙が約束の地で出会った、ジュダムという女王によく似ていた。
ジュダムは綺麗なものや綺麗な歌が好きだと言った。
『魔笛』には、彼女が好んだ綺麗なものも、綺麗な歌も溢れているのだろう。
「カオル。もし、おまえさえよければ」

夕暮れ。鋼牙はカオルからもらった絵を片手に、帰路についていた。
「しかし、本当によかったのか? カオルの親父の遺品までもらってきて」
「あいつは構わないと言っていた」
もう片方の手には、『魔笛』のLD。
「そんなんもらってどうするんだ?見ることだってできないのに」
「見なくてもいいんだ。ただ、忘れさえしなければ」
鋼牙は立ち止まって、『夜の女王』の絵を見つめた。
暗いながらも極彩色で、どこか怖さを残すその女王の絵は、ジュダムを彷彿とさせた。
「どちらかがジュダムだったのかもしれないな」
「かもな。だがもしそうなら、おまえは約束の地でもカオルに振り回されてたってことだぞ、鋼牙」
ザルバに言われた鋼牙は、片付けで疲れ果ててすぐに眠ってしまったカオルのことを思い出し、薄く笑った。

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