夏が飛んでいく
それから間もなく夏休みに入ると、勝家は学校で行われる夏期講習に参加していた。
成績の良くない生徒に補習として、それ以外の希望者には塾がわりとして無料で行われていた。
左近は前者として講習に参加していたが、講習の後、必ずといっていいほど、アイスを食べに行こう、と誘われていた。
勝家はそれに乗り気なこともあったし、乗り気でないこともあったが、大抵は付き合っていた。
あまりに一緒にいるあまり、周囲の生徒には「あいつらはデキてるんじゃないか」と思われたほどだった。
左近がどう思っているのか勝家にはわからなかったが、勝家は言わせておけばいいと放っておいた。
そんな日がしばらく続き、学校が再開された9月。
夏期講習中の癖で、最早左近と一緒に昼休みを過ごすことさえ日課になっていた。
勝家は、それが嫌ではなかった。
「しっかし、九月になったってのに暑いなー」
「そうだな」
校舎の外。中庭のベンチが、いつの間にか指定席だった。
左近は相変わらずカッターシャツをだらしなく着崩している。
それも、最早見慣れた光景だ。
左近の弁当は、勝家のそれよりも倍以上の量があるが、いつも勝家よりも早く食べ終える。
よく噛んで食べろ、と言ってみたら、お母さんみてー、と言われたのでもう言わないことにした。
「つか、あんたって少食だよな」
「そうなのか?」
「そーそー。三成様といい勝負だよ」
三成。
左近の口から出たその名前に、勝家の心はざわめきたった。
左近が彼の話をするときはいつもそうだった。
心がざわざわとして落ち着かない。
そのざわめきは、決して心地の良いものではなかったため、勝家は左近がする石田の話が嫌いだった。
「石田氏は、食が細いのか」
「そ。けど、食べるのは早いよ。ながら食べだけどさ。パン一個とか、おにぎり一個とか、ひどい時はゼリーだけ。それを作業しながら食べんの。身体に良くねーと思うんだけどなあ」
「しかしお前も食べるのが早いのだから、石田氏と食べた方が良いのではないか。私と一緒では、」
「いーんだよ」
左近はひとつ伸びをすると、少し身を乗り出して勝家をじっと見た。
あまりにまっすぐ見つめられて、思わず目を逸らしてしまう。
「俺、勝家が飯食ってるとこ見んの好きだぜ」
「……随分変わった趣味だな」
「なんか、可愛いじゃん」
男相手に何を言っているんだと、勝家は眉根を寄せた。
第一、自分は食べているところを見られるのはあまり好きではない。
こんな姿を見せられるのは左近だけだ。
勝家はその後、自分に向けられる熱視線のせいで碌に味もわからないまま、弁当を食べ終えた。
「あ、そうだ。ちょっと待ってな」
左近はすっくと立ち上がると、渡り廊下から校舎に入っていく。
忘れ物だろうか、それならもう教室に戻れば良いものをと思ったものの、待ってろと言われた手前、ここを離れるわけにもいかない。
すぐに戻ってくるだろうと高をくくっていると、すぐに左近の声がした。
「おーい、勝家ー!」
あたりを見回しても、姿は見えない。
すると笑い声のあと、上だよ、と続いた。
見上げると、二階の窓から左近が顔を出している。
確か、あそこは生徒会室だったはずだ。
左近は生徒会役員ではないが、石田が役員のため、左近は雑用係を買って出ているのだ。
「これ、今から落とすから、受け取れよー」
手にはアイスをふたつもっている。
どこにでも売ってる棒アイスだ。
しかし、何故生徒会室にそんなものがあるのか。
左近が落として寄越したそれを、勝家はふたつとも無事に受け取った。
上では左近がナイスキャッチ、と嬉しそうな声を上げる。
「何故こんなものが生徒会室にある」
中庭に戻ってきた左近に問いかける。
左近はアイスのパッケージを破きながら笑った。
「生徒会室ってさ、どういうわけか冷蔵庫があるんだよ。冷凍室をちょっと拝借してな」
「石田氏に見つかったら叱られるぞ」
「うーん、叱られるで済めばいいけどな」
そう言って笑う左近は、それでも嬉しそうだった。
きっと自分よりも、石田といた方が楽しいはずだ。
そんな思いが渦巻いて、なかなかアイスを食べ進めることができない。
「あっ、勝家!」
すると、右手に持っていたアイスが不意に軽くなった。
かと思うと、足の上に冷たさが広がる。
考え事をしているうちにアイスが溶けて、塊のまま落下したらしい。
よく見れば、溶けたアイスが手首まで伝っている。
「……すまない。勿体無いことをした」
「いや、別にいいよ。高いもんでもねーし」
じわりとスラックスに染み込んでいく。
振り払わなければ、と思うのに、手が動かない。
「とりあえず、そのへんの水道で洗ってこいよ。下はジャージにでも着替えれば……勝家?」
左近が何か言っている。何を言っているのか、頭に入ってこない。
振り払おうとするほど、石田のことが過ぎっていく。
それと同時に、ざわめきのようなものが苛立ちに変わっていった。
手にしたアイスの棒が折れそうなほど力を込めた時、不意にその手が左近に取られた。
左近はそのまま口を近付けて、勝家の手についた溶けたアイスを舐めた。
「っ……さこん……!」
一瞬で意識を引き戻される。
思わず、アイスの棒を落としてしまう。
手を引こうとしても、思いのほかしっかりと押さえられていて抜け出せない。
薄い唇の間から赤い舌が覗いて自分の手に這わせていく姿は、たまらなく妖艶だった。
指先を小さく銜えられると、全身に鳥肌がたったようにぞくりとする。
「左近、やめてくれっ……!」
空いている左手で左近の頭を押すと、左近ははっと顔を上げた。
一気に頬が紅潮し、弾かれたように身体を離した。
「っだーーーーー!? 俺、何してんだ!?」
「それはこちらの台詞だ……!」
左近は沸騰しそうなほど赤い顔で、何か言いたげに口をあわあわと動かした。
やがて口を抑えて、あー、やら、うー、やらと唸っている。
しばらくそれが続いたあと、聞こえるか聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
「……好きだ」
人並みと言えるかはわからないが、恋をしたことはある。
だから左近の言う『好き』の意味もちゃんとわかっていた。
それが冗談でないことも、表情から見て取れた。
何か返さなくては、と思って言葉を発しようと思っても、口は壊れたようにあわあわと動くだけだった。
左近はそんな勝家を笑うこともなく、口元から手を退けて、真面目な顔で言った。
「……あんたは、拒まないから。俺が何言っても、何しても、極端な話さっきみたいなことしても。殴るとか蹴るとか、出来たはずなんだ。それなのにしないから、期待っつーか、自惚れたいっつーか……」
「……自惚れ?」
「俺、あんたに好かれたいって思うよ。好かれてるかも、とも思ってる。俺の自惚れ、間違ってねえ?」
きっと自分の顔も、目の前の左近と同じように真っ赤なのだろう。
未だあわあわと動くばかりで落ち着かない口をなんとか閉じて、勝家は小さく頷いた。
そのあとはなんとなく気恥ずかしくなって、どちらともなく二人揃って空を見上げた。
雲ひとつない九月の空を、飛行機が夏を乗せて飛んでいく。