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呼んで

何てことはない夏の日だった。
歩行者用の信号は確かに青で、横断歩道を渡ろうと一歩踏み出した時。
「勝家!」
聞き慣れない声に名前を呼ばれ、振り返る間もなく突き飛ばされる衝撃。
直後にブレーキの音と、衝撃音。人々の悲鳴。
漸く振り返ると、そこには横断歩道を赤く染める青年と、電信柱に突っ込んでひしゃげたワンボックスがあった。
先程私の名を呼んで、私を突き飛ばしたのがこの横たわる青年だとすぐに理解した。
理解はしたが、この赤い髪の青年に見覚えはなかった。
流れ出る血の量から、青年が助からないことは明白だった。
青年はこちらに向かって手を伸ばしたが、その手はすぐにぱたりと落ちた。
青年の瞳から光が消える。
私が青年を殺してしまったような気さえして、怖くなってその場から逃げ出した。
逃げても、あの光を失った瞳が追ってくる気がした。
三日三晩、その夢に魘された。
それからというもの、あの横断歩道には近付けなくなった。
新聞の片隅に、その青年が死亡したと、小さく書かれていた。

事故から二週間程経っても、私は未だ外に出ることすらできなかった。
外に出るのが怖い。
けれど、大学で課せられたレポートを書くためには本屋で文献を探さなくてはならない。
外に行かなくては、と着替えて準備はするのだが、いざ玄関まで行くと怖くて動けなくなる。
その日も同じように、玄関先にうずくまっていた。
するとどこからか、おおい、という声が聞こえた気がした。
外から聞こえてくるのだろう。誰かが誰かを呼んでいるのだろうと、気にも留めなかった。
だが、おおい、誰か、と呼ぶ声は徐々に大きくなっていく。
すぐ近くで聞こえているのかと思うほどだ。
当然だが家の中には私一人で、誰もいない。
それでも、声は耳元で発せられているかのように鮮明に聞こえる。
もしかしたら、私の頭の中に直接聞こえているのではないか、という考えがよぎった。
ついに頭がいかれたか、と思いつつも、ほんの少しの好奇心で、頭の中でその声に応えてみた。
「……私を、呼んでいるのか」
「繋がった!」
頭の中の声は嬉しそうにそう言う。
声から、私と大して年齢の変わらない青年だろうと察する。
「誰だ……?」
「名前? 左近。島左近ってんだけど」
「……私は、柴田勝家だ」
名乗られて、思わず返事をしてしまった。
島左近。
聞き覚えのない名前だった。
「何故、頭の中に直接聞こえる?」
「さあ、俺にもよくわかんねんだよな」
「しかし、お前から話しかけてきた」
「ああ。なんとなく頭の中に話しかけてみたんだ」
そんなことをしようなどと思う、彼の頭が心配になる。
理由を聞いても、なんとなく、としか言わない。
「なんか、元気ねーな? ひょっとして、元からそういう話し方?」
「元よりこのような口調だが……元気がないのは本当かもしれない」
見ず知らずの相手に解ってしまうほど、私の声は落ち込んでいたらしい。
事故のことなど思い出したくもなくて、嫌なことがあった、とはぐらかした。
「嫌なことかー。けどさ、いつか忘れられるし、上手くいくって!」
「そんな、ことが……!」
あるはずなどない。
今でも、思い出そうとすれば鮮明に思い出せるのだ。
光を失くした双眸が、血溜まりの中から私を捕えているのを。
あ、えっと、と左近なる青年はしどろもどろに何か言おうとしている。
「ごめん、俺、あんたのこと何も知らなくて……」
悪気があったわけではないのはわかる。
だがどうしても、気にするな、と応える気にはなれなかった。
「あのさ、もし愚痴りたいこととかあったら、いつでも呼んでくれよ。話聞くくらいしかできないけど……俺、あんたが応えてくれて、嬉しいって思ってっから」

一夜明けてみれば、やはり私の頭はおかしくなったのだろうと改めて思った。
呼べ、と言っていたはずの左近を呼んでも、誰も応えるはずもない。
私は手元にある資料だけで、なんとかレポートを書き進めていた。
昼過ぎ、そろそろ何か食べなくてはと思い立ったが、流石に冷蔵庫の中身は空だ。
この二週間、全く外に出ていないのだから当然だが。
着替えて、靴を履いてドアの前に立つ。
あとはドアを開けるだけでいいのに、体はそこから動けない。
私はこんなに弱かったのか、と呆れながらも、再びそこにうずくまった時だった。
おおい、と呼ぶ声が再び聞こえてきたのだ。
「……左近、だったか?」
「そうそう。また繋がったなー」
行くところが増えた。
スーパーに本屋、それに病院。
そう小さく溢すと、左近は不満げな声を上げた。
「俺が、あんたの頭の中にしかいない、って思ってる?」
「普通はそう思うだろう」
「なら、俺が実在する人間だって証明する。まず今日の日付。8月29日の12時頃」
鞄から携帯を取り出して、画面を見る。
今日の日付と時間が小さく表示されていた。
「同じだ。8月29日の12時8分」
「けど、これだけじゃ証明になんねーよな」
そうだ。無意識のうちに時計くらいは見ていただろう。
彼が、私の空想の人物ではない、とは言い切れない。
「じゃあ、ちょっと面倒かもしんねーけど、本屋に」
「何故だ?」
「ま、ちっと考えがあるんだって」
「……できない」
外に出るのが怖い。
二週間前、とても恐ろしいことがあった。
それがトラウマになってるのか、と左近は納得したらしかった。
けれど九月からは大学が再開するのだ。外に出られない、などと言っていられない。
「今、どこ?」
「玄関に……靴は履いてはいるが……」
「ならまず立ち上がってみっか。立てるか?」
壁とシューズケースに手をつきながら、ゆらりと立ち上がってみた。
ここまではできる。問題はこの後だ。
「したら、ドアノブ掴んでみ。掴むだけでいい」
掴むだけなら、と恐る恐るドアノブに触れた。
掴んだとは言い難い、本当にただ触れただけだが。
「掴んだドアノブを回す。ドアは開けなくていいから、ノブを回すだけ」
カチャリ、とロックの外れる音がする。
あとはこれを外に押すだけでいい。
それだけで、ドアは開く。
少しずつ力を込めれば、ドアはゆっくりと開いた。
重いドアではないのに、開くのにやたらと時間がかかった。
「あとは一歩踏み出すだけだな」
それができない、というのに。
しばらく無言が流れる。
「大丈夫。俺がついてる。行こうぜ」
トン、と背中を押された気がした。
あ、と小さく声を漏らして、足が前に進む。
ドアの外から部屋の中を覗いてみるが、誰もいない。
気のせいだろうか。
「出られたか?」
「……なんとか」
「よし。まず本屋だな。あんたの買いたいものもあるんだろ?」
指示されるまま本屋に向かう。
あの横断歩道を避けたため、時間はかかってしまったが、どうにか辿り着くことができた。
自分が探している本を手に取り、左近に指示された何とかという漫画を探した。
目的のものを手に取り、もう一度どうするのかと問いかけた。
「読んだことある?」
「いや、ない」
「俺もない。俺たちは二人とも、この漫画の中身は知らないってことだ」
左近の示した方法は単純明快だった。
左近がその漫画のとあるページを読み、その後に私が漫画を開く。
同じことが書いてあれば、実在の証明になる、とのことだ。
その逆を私からやれば、私の存在証明もできる、と。
だが困ったことに、本屋の漫画はビニールのカバーがかけられている。
どうやら左近の家の近くの本屋は、ビニールのカバーがかけられていないらしい。
コンビニならばビニールのない本もあるかもしれないが、今更行き直すのも面倒で、目当ての本と、その漫画の一巻と二巻を買って、近くのベンチに腰を下ろした。
「待たせた」
「いんや。んじゃ、読むぜ。23ページの一コマ目」
左近がある程度読み終えた後、指定されたページを開く。
そこは左近が言った通りの台詞が書かれていた。
「どーよ」
「ああ……」
左近が実在する人間だ、というのは一先ず証明できたことにする。
「次は私の番か」
その二巻を指示すると、え、と不思議そうな声が聞こえた。
「それ、一巻が出たばっかって書いてあるけど」
「そんなはずはない。二巻が出てから三か月は経っている」
今年の五月に二巻が出た、と言うと、一巻が出たのはつい一週間前だ、と返ってくる。
どうにも噛み合わない。
もしかして、とひとつの仮説が浮かんだ。
それはあまりに馬鹿げた仮説だったので言うのを躊躇ったが、この状況が既に不可解なのだから、今更何も変わらないだろう。
馬鹿にされるのを覚悟で、その仮説を口にしてみることにした。
「もしかしたら、私とお前は生きている時が違うのかもしれない」
「違う? 今日は8月29日の水曜だろ?」
「私は恐らくその次の年を生きている。今日、8月29日は火曜だ」
彼は驚いた様子だったが、私も驚いている。
どうやら私と彼の間には、丁度一年の隔たりがあるようだった。

それからというもの、左近は外に出ようと度々私を連れ出した。
時折、用事があるから一緒に行ってくれないかと私から誘うこともあった。
何度か繋がっているうちに、繋がるにはある程度の条件があることがわかった。
繋がれ、と念じれば繋がること。
電話と同じで、向こうに受け取る準備ができていなければ繋がらないこと。
繋がり始めは小さい声から徐々に大きい声になっていくこと。
両方が同時に繋がれと念じれば、最初から大声で聞こえること。
どちらかが切ろうと思えば、もう片方の意思に関わらず切れること。
徐々に私から誘う頻度が増え、左近から誘われることはほとんどなくなった。
左近に話しかけながらなら、以前と何も変わらないように出られるのだ。
そんな日がしばらく続き、気付けば年末になっていた。
「クリスマスだってのに、あんたデートとかねーの?」
「そういうお前はどうなんだ」
「ねーよ。だからこうしてあんたと話してんじゃん」
頭の中で、彼女欲しい、などとのたまっている。
そんなことを私に言ったところでどうにもできない。
「左近。ひとつ聞きたいことがあるのだが」
「ん?」
私は、以前から少しだけ気になっていたことを聞いてみることにした。
そもそも何故、頭の中に話しかけようなどと思ったのか。
「あー、それか……」
左近は言葉を濁した。
恥ずかしい、と小さく呟いている。
「恥ずかしいのか?」
「うん、まあ……笑うなよ?」
頭の中だというのにひとつ咳払いをして、左近は話し始めた。
「小さい頃って結構よくわかんない遊びとかすんだろ? そんな感じで、俺は頭の中に話しかけてたんだ。テレパシー、とか言ってさ。そしたら、本当に繋がったんだよ」
繋がった相手は大人の男で、どうやら泣いているらしかった。
左近は、その男を慰めなくては、と子供心に思ったらしく、必死に慰めたのだと言う。
その男はどうにか元気を取り戻したのだが、それ以来誰にも繋がらなくなった。
「今思えば、そんなの夢だったかもしんねーし、その人の名前も覚えてねーけど。それをなんとなく思い出してさ」
「だが、何故私に繋がったのだろうか」
「さあ。あんたが、助けてほしいって思ってた、とか?」
あながち間違いでもないのかもしれない。
外に出るのが怖い。誰かがついて来て、大丈夫だと言ってくれたなら。
あの頃はそう思っていた。
「……感謝している」
「ほんと?」
「本当だ」
「じゃあ、俺もありがと」
何故お前までそう言うんだと、小さく笑った。
いつの間にか笑えるようになっていた。
もっと時間がかかると思っていたのに。
彼の力は、私が思っているよりも、もっとずっと偉大だった。

「なあ、勝家さ、試しに俺に電話してみてくんね?」
「電話?」
左近と話すのも日課となり、お互いに呼べばすぐ繋がる程度にはお互いのことを常に考えるようになった頃。
左近は、頭の中ではなく、直接電話をかけてくれと言った。
「直接話してみてーんだよ。俺からあんたにかけても、あんたはまだ俺を知らないだろ」
確かに、一年前のこの時期、私はまだ左近を知らなかった。
だが左近は違う。既に私を知っている。
一年越しの約束になってしまうが。
「わかった。かけてみよう」
左近に言われた番号を携帯に入力し、通話ボタンを押す。
聞こえてきたのは、『おかけになった電話番号は……』という機械的なメッセージだった。
もう一度左近に番号を確認し、もう一度しっかりと番号を押し、かけてみる。
それでもやはり繋がらない。
「マジか。ってことは、この一年以内に、俺の携帯がダメになるってことだな」
「そういうことだ」
「水没かなー。盗まれたり失くしたりってこともあり得るしな」
とにかく携帯電話に気を付けろ、とだけ言っておいた。
今日は何処へ行く、という話になり、今日は左近に付き合う、と決めた。
いつも私に付き合わせてばかりなのだ。
左近が行きたいところに行き、その様子を私に伝えてくれるのも楽しいだろう。
そう言うと左近は、ならば本屋に行きたいと行った。
何故かと問えば、お互いの存在を確認した際に読んだ漫画の二巻が出ているはずだと言う。
確かに、気付けばもう五月だ。
どうやら左近は、二巻がずっと気になっていたらしい。
左近に合わせて私も本屋に向かうと、その漫画は三巻が出ていた。
私は普段漫画などを読むことはなく、この漫画も買っただけで読んではいないのだが、左近との繋がりのひとつだと思うと大切に思えてくる。
左近が二巻を買っている間、私は三巻を手にレジへ向かった。

それからしばらくして、季節は再び夏になった。
左近と知り合ってからもうすぐ一年になる。
同時に、あの事故からも。
やっと一年だ。
その日が近付く毎に、私はそわそわと落ち着かなくなった。
「勝家、どーかした?」
「いや……」
話さなくてはならない。
私が外に出られなくなった理由を。
未だに、左近がいなくては外に出られない理由を。
「一年前の8月15日、お前にとってはこれから来る日だが、事故を見た」
「事故?」
「ああ……名も知らぬ青年が、私を庇ったのだ。光の消えた彼の目が、ひどく恐ろしかった」
またあのような現場に居合わせないとも限らない。
そう思うと、怖くなった。
「なら、俺がそのトラウマ、消してきてやるよ」
「何を言って……」
「夏休みだし、俺そっち行くから。事故って、どんな事故だった? 思い出したくないかもしんねーけど、教えて」
私はできるだけ細かく、その時のことを教えた。
とはいえ、ほとんどは後から新聞で見たり、伝え聞いた話なのだが。
居眠り運転の車が、横断歩道に突っ込んでくる。
直線の道路をかなりのスピードで走ってくる。
横断歩道のところは緩くカーブになっているため、曲がりきれなかったのだ。
私はそれに気付かずに横断歩道を渡る。
近くにいたらしい青年がそれに気付いて、私を突き飛ばす。
その青年が車に轢かれ、私は事なきを得る。
運転手は即死。私を突き飛ばした青年も、帰らぬ人となる。
8月15日の、確か12時前のことだ。
「俺がその日、そっちに行って、その男と勝家を助ければいいんだよな? 今は行くなって」
「ああ。それでいいはずだ。しかし……」
危険だ。止めきれるとも限らないし、巻き込まれる可能性だってある。
そう言うと左近は笑った。
「大丈夫だって。俺、運だけはいい方だから。それより、勝家ってどんな見た目?」
見た目の話をしたのは、そういえば初めてだった。
頭の中の会話だから、容姿などは関係のないことだった。
「身長は?」
「180。極端に太ったり痩せたりはしていない」
「俺が183だから、俺よりちょっと小さいくらいか。こんなもんか?」
頭に手を翳しでもしているのだろう。
それで合っているだろうと踏んで、更に詳しく説明する。
自分の容姿を教えるというのは、どうにも難しい。
「黒髪だ。男にしては長い方だと思う。肩口で切り揃えている。前髪は眉のあたりだ」
「えーっと、前髪がこうで、後ろがこう……おかっぱ?」
「……そうとも言うかもしれない」
意識したことはなかったが、言われてみれば確かにそうだ。
何故この髪型に落ち着いたのかは、自分でもよく覚えていない。
「おかっぱの男なんてそうそういないだろうから、これでわかるかもな。180ってのもわかりやすいし」
「……よろしく頼む」
任せとけ、と左近はまた笑った。

運命のその日。
私は祈るような気持ちで、部屋の中に座り込んでいた。
左近はやれ電車に乗っただの、やれ最寄駅に着いただのと楽しそうに話す。
これから起こることに、恐怖など微塵も感じていないようだった。
「左近、私はどうなってもいい。どうかその青年だけは助けてくれ」
「何言ってんだよ。勝家のこともちゃんと助けるって。えーと、それより……」
あの日、私はよく行くファストフード店に向かっていた。
その日はそれを昼食にしようと思っていたのだ。
目的の店まではもう少し、というところで事故に遭遇した。
信号待ちをしていたのはほんの数人で、巻き込まれた人が少なくてよかった、と警察は言っていた。
良いものか。あの青年が犠牲になったというのに。
「……いた。たぶん、あれかな」
左近は私を見つけたらしい。
歩くの早い、などと言いながら追いかけているようだった。
「追いついた。今、信号待ちしてるとこ。あんたが言ってる信号だと思うよ」
時間的にも、恐らくそうだろう。
「隣に立ってる。俺、何て声かけりゃいいんだ? ……あ、ちらっとこっち見た」
隣、と言われて、その当時のことを思い出す。
隣に立っていた青年が、恐らく私を突き飛ばした青年だ。
派手な赤い髪。背は私よりも少し高いくらいだっただろうか。
嫌な予感がして、鳥肌が立つ。
「左近、お前の髪は、赤いか?」
「髪? まあ、赤と茶色だな。太陽の下だから、茶色い方も赤く見えっかも」
それを聞いて、私は靴も履かずに飛び出した。
このままでは、左近が死んでしまうかもしれない。
私を突き飛ばしたのは、名も知らぬ青年ではない。
「左近、すぐそこから離れろ!」
「え、何で……」
「いいから離れてくれ! もうすぐ車が突っ込んでくる!」
あの横断歩道に向かってひたすら走った。
行けない、と思っていた場所なのに、いざ行こうと思えばこんなに簡単に足は進む。
「けど、静かなもんだぜ。車なんて少ないし……」
ぴたりと左近の声が止まる。
「……っまじかよ……」
「何が、あった……!?」
「すっげースピードでこっち向かってくるやつがいる。信号、ぜってー変わんなよ……!」
駄目だ、左近。
信号は変わる。
そして私は歩き出してしまう。
迫りくる車など見えていない。
「左近、離れてくれ! 私のことはいいから!」
「そういうわけには……って、信号! あっ……!」
左近が走り出すのが見えた気がした。
「勝家!」
あの時と同じ声に、体がびくりと震えて、足が止まる。
その声に、一気に蘇る。
突き飛ばされた感覚。ブレーキの音。人々の悲鳴。
電信柱に突っ込んだワンボックス。
そして、横たわる左近。
「あ……あ、ああ……!」
思わずその場に膝をついた。
目から止め処なく涙が溢れる。
道行く人の視線など気にならなかった。
今はただ、左近の身だけが心配だった。
「左近……返事をしてくれ、左近……!」
「……かつ、いえ……」
頭の中に、弱々しい声が聞こえる。
あの瞬間、私は何をしていた?
そうだ、私は怖くなって逃げ出したのだ。
左近を見捨てて。
「よかっ……おれ……」
「良いわけあるか……!」
今、左近の目には何が写っているだろう。
立ち上がって、くるりと踵を返す、非情な男が写ってるに違いない。
「あんたを、たすけ……」
「左近……すまない……! 私は、お前を……!」
あの時、こちらに伸ばされた手。
今なら、恐れず掴むことができるのに。
「……な、くな……」
ふっと左近の声が消えた。
何度呼びかけても、何も返ってこない。
「左近……さこん……!」
私が青年を殺したような気がしていた。
けれど、それは間違いだった。
左近を殺したのは、紛れもなく私なのだ。
人目も憚らず、硬い舗道に伏せて泣いた。
今年一番の猛暑日のことだった。

それから私がどのようにして家に戻ったのかはわからないが、気が付けば家にいた。
何度も左近を呼んだ。
けれど、あの日から応えは一度もない。
当然だ。一年前のあの日、私が殺したのだから。
それでも、彼が死んだことを認めたくない気持ちがまだ大きかった。
さこん、と繰り返し何度も呼ぶ。
涙もとうに枯れ果て、自分は左近の為に泣くこともできない人間なのかと、ひどく呆れた。
そんな日が二週間続き、左近と初めて繋がった日になった。
その日も、朝からずっと左近を呼んだ。
「左近……」
「うわっ!? だ、だれだ、あんた!」
頭の中に、子供の声が舞い込んできた。
驚いて顔を上げるが、部屋の中には誰もいない。
繋がったのだ。誰かと。
「なあ、おれのこえ、きこえる?」
「……ああ……」
「すげえ! ほんとにつながった!」
子供は楽しそうにはしゃぐ。
去年の左近もこんな様子だった、とつい懐かしくなる。
たった一年前のことなのに。
「おれ、さこん。しまさこんっていうんだ」
「……左近……?」
ただ名前が同じだけの子供だろうと思った。
けれどそれと同時に、それが小さい左近だとも思えて仕方がなかった。
「おにいさん、ないてるの?」
「……そう、だな。少しだけ」
すると、少年はわたわたと慌て始めた。
「なくのはだめだ! いたいの、とんでけー!」
「……優しいな」
「えっ、そうかなあ」
今度は照れる。
くるくると表情が変わる様子が、本当に左近のようだった。
見えないのに、表情が目に浮かぶようだった。
「どうしてないてるの?」
「いなくなってしまった。大切な人が」
「たいせつなひと? あえないの?」
「ああ……もう会えないんだ」
ぽん、と頭に手が置かれた気がした。
子供の手ではない。もっと大きな手だ。
「よしよし。おにいさん、なかないで」
頭に置かれた手に意識を集中してみれば、それは男の手だとわかる。
けれど、一体誰の。
「だいじょうぶ。おれがついてる」
いつかもそんな風に言われた。
そんな風に言われたから、私は大丈夫だった。
私はいつだって、左近に元気づけられている。
「左近、お前は私を許してくれるか……?」
「ん? んーと……うん!」
許すも許さないも、あんた何も悪いことしてねーっしょ。
少年の声に交じって、聞き慣れた声が聞こえた。
気のせいではない。確かに頭の中に。
「……ありがとう……」
「うん! おれも、ありがとう!」
小さな左近がそう言ったのを最後に、頭の中は無音になった。
頭に置かれた左近の手も、ふわりと離れていった。
その日、私は事故後初めてその現場へ向かった。
押し潰されたガードレールも、曲がった電信柱も、全て元通りだ。
死亡事故発生個所、という看板だけがある。
私は何もないその横断歩道に、小さく手を合わせた。
風に乗って小さく、じゃあな、という懐かしい声が聞こえた気がした。

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