君の名前
ナギの顔が好きだった。
今まで見た誰よりも美しいその顔。
特に、その顔で三月の名前を呼ぶ時が。
ナギが三月の名前を呼ぶ時、彼はいつだって笑っている。
普段は微塵とも崩れない美しさを僅かに崩して、嬉しそうに、大切に呼ぶのだ。
その顔で呼ばれて、加えてハグをされるのも毎朝毎晩のことだった。
朝晩の挨拶をしながら両手を広げ、捕らわれたかと思えば、頬を寄せられる。
お互いの頬がくっつく瞬間に、耳元でリップ音が鳴る。
それが、本当にキスをされているようで、初めは全員が戸惑った。
今ではもう慣れたもので、数少ない女性であるマネージャーですら受け入れている。
受け入れると同時に、全員が理解していた。
これはただの挨拶で、時には愛していますと囁かれさえするが、それまでも戯れなのだ、と。
だから勘違いするな、変な期待もするな、と三月は歯ブラシを動かす手を乱暴に早めた。
自分自身の中に生まれた、有り得ないはずの感情に気が付いたのは、つい最近のことだ。
きっかけは些細なことだった。
ナギが、メンバーに当たり前のように行っているハグとエアキス。
だが時折、本当に頬に唇を寄せることがあり、どうやらそれはメンバー内では三月に対してだけらしい、と知ったのだ。
メンバー内で順位をつけるようなことはしないだろうとわかっていても、頬へのキスは、少なからず特別であると勘違いしそうになる。
ただでさえ、ナギは三月に懐いていた。実の弟である一織よりも一緒にいる時間が長い、と言っても過言ではないほど。
世話焼きでありながら、手のかからない弟に世話を焼けなかった三月と、実の兄とは険悪であったらしい、本来は甘えたがりのナギは、相性が良かったのだろう。
休日は必ずと言っていいほど一緒に出かけたり、三月の部屋で寛いでいたりするし、仕事でホテルに泊まれば、真っ先にナギは三月と同室になりたがる。
そもそも三月はナギの顔が好きなのだ。
それに加えてそんなことを繰り返されれば、多少なりとも外れた想いを抱きもする。
まだなんとか親愛の情を出てはいなかったが、三月の中でナギは特別な存在になっていた。
口や態度に出すことは絶対にするまいと固く誓ってはいたが。
その矢先に、二人揃っての休日だ。
それも他のメンバーは出払っていて、二人きりの寮。
ナギに会わないうちに買い物にでも出るか、部屋に閉じこもってしまおう、と早々に朝の洗面を終えたところで、洗面所のドアが開いた。
寝起きだというのに、髪がハネている以外は相変わらず美しい男が顔を出した。
「モーニン、ミツキ」
言いながら、三月の小さな体に合わせて身をかがめ、頬に唇を落とす。
「おー。おはよ、ナギ」
今日はキスの日か、と三月は密かに舞い上がった。
勘違いするなと言い聞かせながらも、心は誤魔化せない。
我ながら女々しいな、と考えながら、ナギと入れ替わりで洗面所を後にした。
だが、その手をナギに掴まれる。
「なに?」
「ミツキ。今日のご予定は?」
「買い出しにでも行こうかなって。冷蔵庫の中もそろそろ少なくなってきただろ」
「ワタシも行きます。そのあと、ミツキの時間を頂いても?」
「なんで?」
「ふふ、お楽しみです」
言いながら、ナギは歯磨き粉を絞り出した歯ブラシを口に入れた。
鼻歌まで歌いだしそうな様子で歯を磨いている。
ナギがこういう態度を取る時は、最高に機嫌が良い時だ。
主に、『ここな』絡みで。
「まあ、こんなことだろーと思ったよ」
買い物を終えたあと、ナギが揚々と三月の部屋に持ってきたのは、やはり『まじかる☆ここな』のDVDだった。
部屋に閉じこもってしまおうと思っていたのに、ナギはそれを許さない。
二人でいればいつも以上にはしゃぐのは目に見えていたし、三月がそれを止められないのも断れないものわかっていた。
「ミツキ!『劇場版まじかる☆ここな~コードネームはまじかるV~』が届きました! 早速鑑賞会をしましょう!」
「それ、こないだ見たやつだろ? 三回くらい、一緒に。ここなちゃんの友達のミナちゃんが主人公のスピンオフだよな」
「ノン! この前のは劇場公開版、今度のはディレクターズカット版です! 追加シーンが12分も!」
「あー、はいはい」
三月の部屋には大型のテレビと、高音質のスピーカーがある。
全てはアイドル好きの三月が、より良い環境でライブDVDを見るためのものだったが、今ではナギのシアタールームと化していた。
三月がライブの臨場感を楽しむのと同様に、ナギも劇場さながらのこの環境を楽しんでいた。
既にナギに付き合わされて三回も見たそれは、追加シーンが12分と謳う割には以前見たものと大きく変わらなかった。
けれど追加シーンは、エンディング直前に現れた。
ミナには、密かに想いを寄せる同級生の男の子がいた。
その彼が近々引っ越してしまうので、想いを告げるべきかと悩んでいた。
結局どうなったのか。実は三月は、そこだけが気になっていた。
その謎が、最後の最後に明かされた。
ミナは彼には想いを告げることはなかった。
変わってしまうことが怖いから、と友達のままでいることを選び、何も言えないまま彼は引っ越していってしまう。
ただ最後に、別れの挨拶と共に渡されたキーホルダーだけが宝物になるのだ。
子供向けらしくなく切ない結末に、思わず言葉がなくなる。
同時に、その気持ちがわかってしまう。
想いを告げて、ことが良い方に進むとは限らない。
相手が自分をどう思っているかわからないなら尚更だ。
少なくとも、好意は持たれているだろう、とわかるナギ相手でさえ、三月は気持ちを伝えられないのだ。
ナギが三月に対して抱く好意が、友情のそれであると知っているから。
「ファンタスティック! ミツキ、もう一度……どうしました?」
「ん、なに? 見ろよ。見ていいよ」
「ミツキ、元気ないです。今度は何を悩んでますか?」
何でもお見通しだ。
ナギは人の気持ちには敏感で、それに助けられたこともあったし、その勘の良さが嫌になることもあった。
今は、できればそっとしておいてほしかった。
向かい合って何も言わないまま、沈黙が流れる。
先に破ったのは、ナギの方だった。
「顔を上げてください。ミツキ、ワタシの目を見て」
言われるまま顔を上げる。
澄んだ青い瞳が、三月を見つめていた。
「ワタシは、ワタシの名前が好きです」
「なに? 名前?」
突然の言葉に、三月の頭に疑問符が浮かぶ。
それを知ってか否か、ナギは言葉を続けた。
「ですから、ワタシの名前を呼んでください」
「……ナギ……?」
「One more.もっと、ちゃんと」
「ナギ」
「はい」
しっかりと名前を呼べば、ナギは柔らかく微笑んだ。
「やっと笑ってくれました」
そう言われてようやくわかった。
意図したわけではない。笑ったつもりもない。ごく自然なことだ。
ナギの名前を呼べば、自然と口角が上がって、歯が見える。さながら笑顔のように。
「ワタシは、ワタシの名前が好きです。ワタシの名を呼ぶ時、ミツキは笑っていますから」
それは、三月がナギに対して思っていたことと同じことだった。
ナギに呼ばれる名前が好きだ。ナギが呼ぶ時の顔が好きだ。
そう思ったら、抑えきれなくなった。
「ナギ。好きだ。好きだよ、ナギ」
「ワタシも、ミツキが好きです」
違う。そうじゃないんだ。
だけど今はそれで十分だった。
なんとか笑顔をつくって見せれば、ナギは僅かに眉根を寄せた。
「ミツキ、勘違いしてます」
「してねーって。ちゃんとわかってるよ」
「いいえ」
なにが、と続くはずだったのに、その言葉は紡げなかった。
何かに塞がれたように、口が動かない。
両頬にナギの手。目の前にナギの顔。ゆっくり離れていきながら、閉じた瞼が開かれる。
何が起きたのか理解する前に、ナギはまた笑った。
「ワタシも、ミツキが好きです」
「え……? は……!?」
「Oh,そういう意味ではありませんでしたか?」
「いや、そういう意味だけど……じゃなくって! いつから知ってたんだ!?」
「確証はありませんでした。ただ、そうだったらいいと思っただけです」
だから三月にだけは直接キスするようにした、とネタばらしをされ、先に惚れていたのはナギだったと思い知らされる。
その想いが、恐らくは三月よりもずっと大きいことも。
それ以降も、ナギの少々過激なスキンシップは、相変わらず三月にだけ続いた。
変わったことといえば、三月がそれを積極的に受け入れられるようになったこと。
それから、二人がお互いの名前を呼ぶタイミングが増えたことくらいだ。