人魚の鰭
ホムラの作業の進捗がよくないかもしれない、けれど連絡もつかない、とトウさんに泣きつかれ、仕方なく白砂湾のアトリエへと向かった。
ダメ元でインターホンを押してみるが、やはり返事はない。
ならば仕方ない。定期的に変わるこのアトリエ兼住居のパスワードを、私は指紋認証で突破できる。
だからこそ、トウさんも私に頼んできたのだろう。
指紋を翳して門を開け、玄関をスルーして裏口から入り込む。
作業の進捗が芳しくないのなら住居のほうにいるだろう、という読みは残念ながら外れた。
家探しするように中を歩き回って、結局ホムラはアトリエにいた。
けれどカンバスの前ではない。ソファーに身を預けてだらりと座っていた。
これなら正面玄関から入ってきたほうが早かった、と溜息をつきながら、その前に立ち塞がった。
「トウに言われて来たの?」
ホムラはスマホから視線を外さないまま、出迎えの挨拶もなしにそう言った。
煮詰まっている、というようには見えないけれど、機嫌がいいとも思えない。
「あなたの様子を見に来たんだよ」
「僕に絵を描かせろって?」
ようやく私のほうを一瞥し、スマホを反転させて画面を見せてきた。
可愛らしい魚が何匹も泳いでいる。
「僕は今、水族館を経営するので忙しいんだよ」
はいはい、と軽く流して、ホムラをどかしながら横に座る。
再び『水族館』に目を落とし、魚に餌を与え始めたホムラのスマホを取り上げる。
ホムラは一瞬だけ手を伸ばしかけたが、すぐに諦めて肩を竦めた。
アトリエの壁には縦横ともに三メートルはあろうかという巨大なカンバスが、布がかかった状態で端を吊られていた。
布の隙間から僅かな群青色が見える。
「あの絵、買い手がついたんでしょ?」
「ついたよ。どこかの富豪が、向こう十年は困らないだろうって額で買ってくれたよ。トウに言われてきたなら知ってるんでしょ?」
「……その富豪が、その絵をキャンセルしたい、って言ってることも知ってる?」
途端に、ホムラは眉根を寄せた。
整った顔がしかめられる。
「知ってるよ。だから描く気がなくなったんだ」
聞いていた話と違う。
トウさんからは、ホムラが描かないから富豪はホムラに嫌気が差したのだ、と聞かされていた。
鶏が先か、卵が先か、という問題にも見える。今となっては些末だ。
今ここにある事実は、ホムラが絵を描きたがらないことと、富豪が絵を欲しがらなくなったことだ。
「残念だな。あの群青色、綺麗に調色できてると思うのに」
「僕もそう思うよ」
「せめて全体像を見せてくれない?」
ホムラは口の端を少し上げながらおもむろにソファーから立ち上がり、カンバスのほうへ向かった。
開閉棒を引っ張ると、布は左右へ分かたれていった。
描きかけだというのに息を飲むほどの光景がそこにはあった。
海の中の風景だ。
海中、といっても海面から海底までを満遍なく描いたものではない。
そこに広がる、光のない深海の世界だ。
全体的に暗い彩色でありながら、僅かな陰影が確かな光を表現している。
グロテスクともとれるような未知の魚、ゴツゴツした岩肌、漂うクラゲ、ゆっくりと降り積もるマリンスノウ、海の底を這う生き物、崩れかけたクジラの骨、その下に見える古代の遺跡。
悍ましいのに、美しい。どこか惹かれる光景に、しばらく何も言えなかった。
沈黙を破ったのはホムラの小さな笑い声だ。
「君がそんなに気に入ったなら、続きを描くよ」
「突然だね?」
「脚立を支えてくれる?」
言われた通りに手を貸すと、ホムラはゆったりと脚立を登る。
一番上の段に足をかけ、天板に腰を下ろしたのを見届けると、そっと手を離す。
それと同時に、ホムラがこちらへ手を伸ばした。
「パレットと筆を取ってもらえる?」
指示されたものを手渡すと、ホムラはパレットの上で色を創り、深海に彩りを加えていく。
数日は放置した絵だろうに、どうしてこんなにあっさりと調色できるのだろうか。
まるでつい五分前まで作業していたかのように、絵の具の量をミリ単位で正確に混ぜる。
時には奇抜に思えるような色も、数分後には馴染んでいく。
最初からそこにその色が収まるはずだったかのようだ。
きっとホムラの目には、最初から絵の完成が見えているのだ。
それを上からなぞるだけなのだろう。
描きかけだった深海は、かなりのハイペースでその世界が創られていった。
やる気になればこれほどの能力があるのに、彼はその『やる気になる』がなかなか難しい。
「ホムラ、言いたくないけど、もう少し生活態度とかインタビューでの対応を改めたほうがいいんじゃない?」
「どうして?」
作業の手を止めたホムラは訝しげにこちらを見下ろす。
気分を害したいわけじゃない。むしろホムラを正しく評価されたいからこそ、老婆心ともいえる忠告だった。
「偏屈な人、って思われちゃう。あなたがそういう人だから、あなたの作品は評価しない、って人だっているんだよ」
けれど私の忠告すら煩わしいのか、ホムラは溜息をついた。
「プロであれ、アマチュアであれ、作家とファンが交流なんてするものじゃないよ。作家の人間性抜きにして作品を評価できなくなる。作家の人となりなんて知ろうとしないでほしいね」
「作品だけを見て評価してほしい?」
「もちろん」
ホムラだけがそうなのか、あるいは世の芸術家と呼ばれる人がみんなそうなのかはわからない。
少なくとも、ホムラはそれをよしとしないらしい。
人間性を理由に冷遇されるのも、逆に贔屓されるのも、それが正しい評価だとは思えないと。
「でも、この作家は何を思ってこの作品を描いたのか、って知りたくなるよ」
「わかったつもりになって変に寄り添われるほうが迷惑だ」
どうせわかるわけないのだから、という言葉の裏が見てとれる。
彼が何を思っているかなんて、彼にしかわからない。
それでも、私はホムラを理解したいと思うけれど、それは傲慢なのだろうか。
ホムラは再びカンバスに向かうと、筆を走らせた。
「この絵を買い付けた富豪、あなたの絵を何枚も買った人だよ」
「知ってるよ」
「これまで高額な絵を何枚も買ったのに、あなたが寄り添ってくれないのが嫌だ、って」
「はっ、くだらない。お得意様にでもなったつもりかい?」
「実際そうでしょ」
「僕はそう思ったことはないけどね。僕の絵は富豪に気に入られるためのツールじゃないんだ」
「でも世の中には、贔屓してくれないならもう絵を買わないって人もいるんだよ」
「それで構わないよ。僕は僕のために絵を描いてるんだから」
たくさん絵を買ったからって、特別扱いはしない。
仲良くなろうとも思わない。一途な手紙をもらったって、返事をしようとすらしない。
ただ描きたいものを描いて、それが刺さる誰かに届けばいい。
きっとホムラはそういう人だ。
それで仕事になっているから大したものだけど、こういう世界は人脈というのも少なからずあるんじゃないだろうか。
以前パーティーに連れて行ってもらったことはあるし、私がいなくてもそういったパーティーには行くことはあるようだし、ある程度人は選んで付き合っているのだろうけど。
どっちみち、私がこれ以上口を出すことじゃない。
目の前に作り出されていく深海の世界。
実際の深海は、宇宙と同じくらい未解明のことが多いという。
きっと私のとってのホムラも、この深海と同じくらい、まだ理解が及んでいないのだろう。
掴めそうになっても、その手をすり抜けて遠ざかってしまいそう。
彩られた深海を泳いでいく姿を幻に見る。
行かないで、とつい手を伸ばすと、脚立の上のホムラが小さく声を上げる。
「絵に触りたいの? まだ乾いていないところもあるから気を付けて」
大事な作品に触れそうになってしまった、と慌てて手を引っ込める。
それなのにホムラは怒る様子もなく、注意を促すだけだった。
「少し休憩しない?」
そう言いながら手を差し出すと、ホムラは小さく頷き、こちらにパレットと絵筆を渡してきた。
受け取った道具をテーブルに置いてからもう一度手を伸ばし、脚立を降りてくるホムラの手を取る。
触れ合った手を逃さないように、しっかりと握り締めた。
後日、ホムラは完成した絵を例の富豪に叩きつけ、予定通りの額を受け取った、とトウさんからお礼の連絡が届いたのだった。