二人を分かつまで
意識がゆっくり浮上して、カーテン越しに差し込む眩しい日差しに目を覚ます。
見慣れた臨空の部屋ではなく、天行の家の、私のために割り当てられた部屋だ。
昨夜も一緒に眠ったはずのマヒルは既に隣にいない。
ブカブカのスウェットはきっとマヒルのものだからだろう。
下を履いていないのも、上だけで充分だからだ。
おもむろにベッドから抜け出して、眠い目を擦りながら部屋を出る。
リビングの向こうに見えるバルコニーには、シーツを干すマヒルがいた。
そのへんにあったであろう妙な絵柄のTシャツに、下には私が着ているスウェットの片割れを履いている。
「おはよう」
朝日が眩しい。目を細めながらバルコニーに近付くと、マヒルは振り返りながら笑った。
「ああ、おはよう」
ただでさえ眩しいのに、白いシーツが光を反射して、なお眩しく見える。
マヒルの姿が逆光になりそうだ。
「洗ったの?」
「ああ。昨日、二人して汚しちまっただろ?」
昨日、という言葉に眠る前のことを思い出して顔が熱くなり、ついマヒルの背中を勢いよく何度も叩く。
そうだ、昨日、私とマヒルは、最初はマヒルの部屋にいたのだ。
それで、私達は。
きっとマヒルが、眠ってしまった私にスウェットを着せて、私の部屋まで運んでくれたのだろう。
そのまま二人で一緒に眠ったことだけは、夢現に覚えていた。
絶え間ない私の攻撃に怯むこともなく、マヒルは笑いながら手を進める。
バルコニーの物干し竿に白いシーツをかけ、風で飛ばないようにクリップで留めると、大きなシーツがはためいた。
「この天気なら、昼過ぎには乾くだろうな」
天行は晴天だ。雲一つない。
青く澄み渡った空を見上げていると、またも欠伸が込み上げた。
マヒルは私の頭を撫で回し、そのまま手を繋いで部屋の中へと引かれた。
「おいで。朝メシにしよう」
なんとなく今朝は軽いものが食べたい、という思いはマヒルも同じだったようだ。
それぞれの皿に盛ったシリアルとヨーグルト、そして二人の間には綺麗にカットされたフルーツが置かれる。
今日、マヒルは丸一日の休みをもぎ取った。何があっても絶対に出てやらない、と艦隊専用のスマートフォンも電源を切ってしまったくらいだ。
今日一日は、私だけのマヒルだ。
それが嬉しくて、ヨーグルトを頬張りながらつい口元がにやける。
「今日はどこに行きたい?」
朝食を終え、皿を洗うマヒルの横でそれを受け取りながら水滴を拭き取り、棚にしまっていく。
マヒルの問いかけに、小さく唸りながらも、答えはすぐに出た。
「たまには一日中、家の中でだらだらしようよ」
「せっかく休みを取ったのに?」
「せっかくの休みだからだよ。だらだらするマヒルなんて滅多に見れないでしょ」
昔から、マヒルは休みの日でも何かと忙しかった。
艦隊に入ってからは尚更だ。
だからこそ貴重な休みの日に、何もしない日というのがあってもいい。
「今日は日用品の買い出しもないんでしょ。お昼もデリバリーにしてさ、ずーっとだらだらしよ」
「だらだらって、何をしたらいいんだ?」
洗い物を終えてタオルで軽く拭った手を引っ張ってソファーに座らせ、すぐ隣に私も座る。
マヒルに寄りかかりながらリモコンを操作し、スクリーンに動画配信画面を開いた。
「映画でも見よ!」
マヒルの検索履歴は小難しいニュースや宇宙開発系のドキュメンタリーで埋め尽くされている。
唯一の娯楽といえば、パイロット・タタンのシリーズだけだ。
シリーズのファンには不評だという『パイロット・タタンの一日』は見たばかりだから、それ以外を開く。
「タタンを見るなら最初は四作目がいいぞ。時系列的には一番最初だから」
マヒルのおすすめ通り、四作目を再生する。
パイロットになったばかりの若きタタンが、初めて空を飛んだ日の物語だった。
家族に束の間の別れを告げ、かと思えば乱気流に巻き込まれて、帰れないかもしれないことを覚悟する。
けれど、家族への想いを胸に、タタンは生還する。
生きて帰ったタタンは、無事に家族と再会し、タタンの身を案じていた家族と抱き合うのだった。
「マヒルは……」
「ん?」
マヒルは、航行中に、家族のことを考えたことがあった?
私のことを考える?
そう聞こうとして、やめた。
きっと、その答えを私は知っている。自惚れだと思われてもいい。
ソファーの背を掴んでいたマヒルの手が、私の肩に触れる。
そのまま軽く抱き寄せられると、すでにマヒルに寄りかかっていた私は、広い胸に頭を預けることになった。
「いつも、お前を想ってるよ。いつでも、どこにいたって」
規則正しい鼓動が聞こえる。
その体温に安心しながら、ゆったりとしたエンドロールに聞き入った。
今度は私のおすすめを見よう、と言われて、先程とは打って変わって手に汗握るアクション・コメディを再生した。
私はクッションを握り締めたり、拳を振り上げたり、時にマヒルの服を引っ張ったりと興奮しながら二本目の映画を見終えた。
昼食はアクション・コメディの空気を引き摺ってか、ジャンクフードのデリバリーを注文した。
何かと健康に気を使うマヒルはあまり食べないだろうけど、今日はだらだらするんだろ、と笑いながら付き合ってくれた。
食べ終わる頃にはちょうど気温のピークに差し掛かり、マヒルの予想通り、干したシーツはすっかり乾いていた。
バルコニーに出てクリップを外すマヒルからシーツを受け取り、軽く畳もうとした手が止まる。
ついおどけてみたくなり、真っ白なシーツを頭から被った。
シーツは程よく温かく、向こう側が微かに透けて見える。
部屋の中に戻ってきたマヒルを迎えるように、大きく手を広げる。
「シーツお化けだよ! 怖い?」
「はは、怖い怖い」
子供のように遊びたくなって、マヒルに背を向けて逃げようとする。
けれど、視界がほぼゼロのシーツお化けは、慣れた部屋とはいえあまりにも危険だ。
マヒルもそう思ったのか、簡単に捕まって、後ろから抱き締められた。
「捕まったー」
「じゃ、お化けの正体が枯れ尾花か見てやらないとな」
頭を撫でられ、体中を撫でくり回されて、くすぐったさに笑い声が零れた。
笑いながら体を捩り、そのうちにシーツは徐々にずれ、シーツの端から顔だけが僅かに外に覗いた。
てるてる坊主のように、体はまだ覆われたままだ。
マヒルはぐしゃぐしゃになった私の髪を撫でつけながら、その指先で頬を撫でた。
「マヒル?」
「花嫁さんみたいだな」
まだ大半は顔にかかるシーツを頭の上まで避ける動作が、まるでヴェールを上げられるようだった。
後頭部で丸まったシーツを退けられ、シーツの中に埋まった髪を外に出される。
午後の日差しの中、優しく笑うマヒルを見ていると、ふと懐かしさが込み上げてくる。
「昔、よく結婚ごっこしたよね」
「ああ。誓いの言葉、まだ覚えてるか?」
「覚えてるよ」
幼い頃のように、マヒルの手を握って、真っ直ぐ彼の目を見上げる。
子供の頃の戯れだった。年頃の少女らしく、人並みにお姫様に憧れた私がマヒルにせがみ、マヒルは少年なりに誓いの言葉を覚え、半分も意味のわからないまま私もその言葉を述べた。
「健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、喜びの時も、悲しみの時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、共に生きることを誓います」
「誓います」
流れるような私の誓いのあとで、マヒルも最後だけを繰り返す。
覚えていなかったのはマヒルのほうなんじゃない、という言葉は口には出さないでおいた。
お互いに軽く目を閉じて、どちらともなく顔を寄せる。
ただ繋いでいただけの手を解き、指を絡めて結び直して、そっと触れるだけのキスをした。
子供の戯れのような口付けのあとで、二人揃ってゆっくり目を開ける。
「死が二人を」
ふと、私の言葉が止まる。
今なら誓いの言葉の内容もわかる。だから、簡単に口にしたくなかった。
その様子に、マヒルは小さく首を傾げた。
「どうした? 忘れちまったのか?」
「……死が二人を分かつまで?」
そんなの認めない。
マヒルの首に腕を回し、引き寄せながら勢いよく抱きついた。
転びこそしなかったものの、さすがにマヒルも驚いたようで、私の腰をしっかりと抱きとめてくれた。
「死んだって離さない。あなたは私のマヒルなんだから」
逃がしてなんてあげない。誰にも奪わせない。
『死』になんて分かたれたりしない。
至近距離で睨みつけ、耳元でしっかりと囁いたのに、マヒルはどこか嬉しそうな顔をする。
どうしてそんな顔をするの。私だけのものって言ってるんだよ。
「そうだな」
腰に回された手に更に力が込められ、鼻先同士がくっつきそうなほどの距離で見つめ合う。
「約束するよ。オレたちはずっと、生きてても、死んだって一緒だ」
もう一度、長く深い誓いのキスを交わす。
マヒルのこの目が好きだ。普段は従順な犬みたいなのに、キスをする時に一瞬だけ、獲物を見つけた狼のようになる。
私の獲物が彼だと思っていたけど、もしかしたら私のほうが獲物なのかもしれない。
お互いに噛みつくような捕食するようなキスを繰り返しながら、体が傾いていく。
せっかく洗ったシーツがまた皺になって、また汚すのだろうなと思いながら、二人揃って床の上に寝転がった。