世界の片隅で
ここではない、どこか他の世界。
そんな世界を彼は夢見ていた。
きっとそこでは自分はおもしろおかしく笑っているのだろうと。
彼は、彼の言うところの『賭け』に負けて、とある軍の飼い犬となった。
飼い犬とは言っても、実際はいいように扱われるただの駒に過ぎない。
「左近!」
『飼い主』に呼ばれ、ふらりとそちらへ向かった。
『左近』という名も本来の名ではない。
この飼い主につけられた名前だった。
犬ならば犬らしく。
忠義の元に。
「織田軍がここを攻め落とそうとしている。間もなく尖兵が来るだろう。そうなる前に、」
「その足を止めろ、ってことですか?」
「そうだ」
そうだ、とは、簡単に言ってくれる。
あの織田軍の尖兵だ。
無傷では済まないだろうし、最悪の可能性すらある。
けれど、彼はそれでもいいと思った。
命と引き換えにしてでも、足を止めろと命じるならば。
「……わかりました」
彼は頷くと、少しの兵を連れて陣を出発した。
主のいる陣までは、森の中の一本道しかない。
木の間を抜けてくることも考えられるが、逆に時間がかかりすぎる。
その一本道を来るだろうとふんで、彼はその道を逆向きに歩いた。
やがて見えてくる、少数の行軍の影。
「もう間もなくだ。道が拓ければ、姿も見えよう」
青年が馬上からそう指示すると、付き従う兵たちは短く返事をした。
主からその将の討伐を命じられた青年は、自ら尖兵となって将の元へ向かった。
そろそろ敵将の陣も見えようかという頃、一人の男が率いる歩兵が道の向こうからやって来た。
歳は青年と同じくらい。
不規則に纏められた彼の髪型は、きっちりと切り揃えられた青年の髪型とはまるで正反対だった。
この先に敵将の陣があることを考えると、足を止めに来たのだろう。
青年は彼と一定の距離を取ったところで馬を止めた。
「何者だ」
「織田尖兵って、あんたたちでしょ」
「そうだ」
軽い口調。それなのに、どこか哀しさを感じさせる。
それはきっと、彼の表情がそう感じさせた。
「主様を討とうとしてるんだって?悪いけど俺、それを止めに来たんだ」
得物は二振りの短剣。
もしかしたら他にも隠し持っているかもしれないが、それでも勝てる。
森の中では長い得物が不利になるとしても、だ。
青年はそれほどまでに、自分の腕に自信があった。
「身の程を弁えよ。貴様如きが勝家様に適うはずが、」
青年は哮る臣下を諫め、馬から降りて薙刀を構えた。
「私は織田尖兵、柴田勝家。お前は?」
「島清……いや、左近。島左近だ」
彼が一瞬言い淀む。
名を聞くと、勝家は薄く笑う。
「左近。私を止めたくば全力で来い。この鬼柴田、生きることを諦めた者に負けはしない」
左近の目に光が宿ったことを、勝家は見逃さなかった。
一瞬の静寂。風を切って、得物同士がぶつかる音。
その瞬間、二人はお互いの中に自分自身を見た。
「そうか、お前は……」
「あんた……」
左近の目が更に大きく見開かれた。
その目が不安定に揺らぐ。
「お前はあの日の私か。戦に敗れ、彷徨っていた頃の私だ。そのまま救われなかった私の姿だ」
「……あんたは、救われたのか。俺はただ生かされてるってのに、あんたは。そんなの……」
左近の瞳の奥にある絶望の色や、身体や防具に残る傷跡からも、どんな扱いを受けているのかは明白だった。
「……ずりーよ」
「狡いと言うのなら、私と共に来るか」
勝家は俯く左近に向けて手を差し出した。
「お前はまだ、全部を諦めてはいないのだろう?」
左近は躊躇いがちに、その手に自分の手を伸ばした。
主様に逆らうのが怖い。更なる仕打ちを受けることを考えると、簡単にはその手を掴めない。
勝家は彼が躊躇う様子を見て、その手を無理やりに取った。
「あっ……」
「主様、というのがお前の忌まわしい過去なのか」
「……そうだ。あの人に負けたから、俺は……」
「ならば、行くぞ」
勝家は左近の手を引いて、もう片手に馬を引きながら、敵将の陣へと向かった。
左近からすれば、来た道を引き返すことになる。
「行くって、どこへ……」
「お前の過去を清算しに、だ」
「……夢、か」
勝家は日の照る縁側で目を覚ました。
昼寝などしたのは、それも夢を見たのはいつ以来かと、たった今まで瞼に焼き付いていた光景を反芻する。
左近と自分が逆の世界。
きっと自分が本来いるべきは向こうなのだと、勝家は常日頃思っていた。
だが、そう思う時も少しずつ減ってきている。
今いる世界も捨てたものではないと、ほんの少しだが思えるようになってきた。
「よっ、勝家。あれ、何その顔。寝起きみてー」
それもこれも、この男のせいで。
「みたい、ではなく、寝起きだ」
「えっ、昼寝? へえ、あんたでも昼寝なんてするんだ。あ、昼寝と言えばさ、聞いてくれよ。こないだ俺が昼寝してたら、いきなり三成様が……」
一人でよく喋る。危ないことをもやってのける。それに自分を巻き込む。
勝家は、それが僅かばかり嬉しく思えた。まるで友のようだ、と。
左近の話を聞きながら思わず小さく笑うと、左近はそれ以上に笑う。
「なんか今日は、随分楽しそうじゃん」
「そうだな。お前のせいだ」
「ひっでー。『俺のおかげだ』っしょ?」