ラスト・ファースト・キス
マヒルと再会してしばらくが過ぎた。
長い時間、と思っても差し支えないほどだ。
その間に私たちの関係は『家族』や『兄妹』からは少しだけ変化して、けれどまだ『恋人』とは言い切れないでいた。
マヒルは天行の家を、初めはあまり気に入っていなかったようで、端的に言えばもののない部屋だった。
それでも私が入り浸るうちに私のものが増え、それに伴ってマヒルのものも増え、無味乾燥としていた部屋は次第に『家』になっていった。
今では私にとっても第二の家と言えるくらいにはなったし、お互いにとっても帰る場所にもなった。
その家に用意された私の部屋で、いつものように眠りについていた。
夢を見た。
不思議な、けれどどこか既視感のある夢だった。
夢の最後に、愛しい人と抱き合ったまま、重力に引かれて墜ちていって、燃え尽きるその瞬間。
その瞬間に、弾かれるように目が覚めた。
体が熱い。けれど体温が上がっているわけではない。
起きて少ししても、まだ心臓が激しく鳴っていた。
頭の中で感情が目まぐるしく変化していって、生まれ変わったような、生まれ直したような気分にさえなる。
まるで、超新星が起きたあとに中性子星ができて、そしてブラックホールになるように。
私は体を起こすと部屋を抜け出して、そっとバルコニーに出た。
夏とはいえ、空に近い天行の夜は寒い。
部屋着のまま出てきたことを後悔しながら、夜空を見上げる。
臨空とは比べ物にならないほどの満天の星空。
空に近いことに加えて、天行はその莫大なエネルギー消費を極力抑えるために、夜間になると限りなく街の灯を落とすのだ、とマヒルが言っていた。
だから星は大きく、多く見えるし、光が流れることも毎晩のようにあった。
小さな星の欠片だったり、かつて打ち上げた人工衛星の残骸だったり、そういうものが重力に引かれて燃えていく。
その夜空の中に、小さなブラックホールがあるであろうことを私は知っている。
マヒルと再会したばかりの頃、超新星を見ようと誘われて、肩を抱かれて空を見上げた。
その時の超新星から生まれたブラックホールは、まだ収まりきらずにいるだろう。
星の寿命を思えば、ほんの一瞬しか過ぎ去っていない。
夢の中の私は、自分と同じ境遇にあったその青年を、マヒル、と呼んでいた。
ひとりが分かれてふたりになったような、自分の半身。
けれど私は最初、彼を覚えていなかった。
それでも独りと独りが出会って、二人になった。
夢の中でも、彼は私にとって大切な『兄さん』だった。
「どうした? 眠れないのか?」
すぐ後ろから聞こえた声に振り返ると、今まさに私の頭を占めている彼が立っていた。
呼びかけようとして、口を開きかけて、その口が止まる。
兄さん、と呼べばいいのか、マヒル、と呼べばいいのか、わからなくなった。
あの夢が、まだ私を混乱させる。
その様子に彼は一瞬だけ首を傾げると、ジャケットを私に羽織らせながら、隣に立った。
「風邪ひくぞ」
私の頭を撫でる大きな手に、ようやく決心がついて、口を開き直す。
「寝てたんだけど、起きちゃったの。マヒルこそ、起こしちゃった?」
「オレはまだ寝てなかった」
少し仕事が残ってて、と言うマヒルの頬を軽くつねった。
仕事のしすぎはダメ、と咎めると、笑いながら頷く。
けれどすぐに、頬に触れた私の手を上から握られる。
「悪い夢を見たのか?」
「『悪い』夢ではなかったよ。怖い夢でもない」
「オレが出てきた?」
「うん」
「なら、いい夢だな」
軽口とわかっていてもいつものように流せず、かといって真剣に頷くことも、否定することもできない。
夢の中の私はマヒルが好きで、大好きでたまらなくて、生きるのも死ぬのも一緒、という約束が守られたから、少なくとも幸せだったのだろう。
不思議な夢、と表現するほかない。
遠い世界のような、いつかの出来事のような、未来の記憶のような。
何も言わない私を心配してか、マヒルは頬に触れていた私の手を開放したかと思うと、今度はマヒルの両手が私の両頬を包みこんだ。
「泣きそうな顔してる」
「……そうかな」
左の頬に触れたマヒルの右手を静かに剥がし、自分の右手を重ね合わせた。
手の平同士を触れ合わせて、マヒルの指の間に自分の指を絡める。
そのまま強く握り締めれば、マヒルも同じように、けれど軽く私の手を握り締めた。
夢の中のように、お互いが接続されることはない。
マヒルが私の中に入ってくることもないし、私がマヒルの中に入っていくこともない。
それがもどかしかった。
今、この世界で、確かな繋がりがない私たちは、いつか離れてしまうのではないかと。
マヒルの手を更に引き寄せて、手の甲に額を擦り寄せて目を閉じる。
生身の手にどんなに近くても、体温を宿さない右手。
冷たいわけではない。確かに人肌程度に温かくはある。
けれど、それはマヒルの体温じゃない。機械的に造られた、偽物の熱だ。
『私の兄さん』としての『マヒル』は、きっとあの時に死んだのだ。
私がマヒルの本物の右手に触れられることは、きっと二度とないのだろう。
「……兄さん」
堪えきれずに呟くと、繋がれたままの右手がかすかに震える。
それと同時に、私の右手の甲に何かが触れる。
目を開けてみると、同じように手の甲に額を寄せるマヒルがいた。
お互いの手を隔てただけの距離。今すぐにでも触れられる距離。
私はマヒルの手の甲に唇を寄せて、子供みたいに軽くキスをした。
マヒルもすぐに、同じように私の手の甲にキスを返してくれる。
「次は? 何をする?」
その言葉に、私はマヒルの指を解いて、胸に飛び込んだ。
背中に腕を回して、強く抱き締める。
マヒルはやはり、同じように抱き締め返してくれる。
体が邪魔だと思ったのは初めてだった。
こんなに密着しているのに、まだ足りない。
「あなたと、ひとつになりたい」
そう告げた瞬間、マヒルの体が強張った。
マヒルが何をその言葉をどう捉えて、何を想像したかなんて、手に取るようにわかる。
私の言った言葉は、体を重ねたいという意味では決してない。
ひとりだったものがふたりに分かれたのなら、ひとりに戻りたい。
けれど、『そういう』行為に及んだっていい。マヒルが望むなら。
「オレは、いいよ。お前が望むなら」
結局マヒルも私と同じことを言った。
元が同じものなら、当たり前なのだろう。
お互いに、自分から一歩踏み込む勇気はない意気地なしだ。
「私、マヒルの心臓になりたい」
「心臓?」
「心臓じゃなくたっていい。肺でも、胃でも、筋肉でも。血の一滴でも、骨の一欠片だっていい。あなたの中に行きたい」
そうしたら、生きている時間も、死ぬ時も一緒だから。
そういうことか、とマヒルは私の頭を撫でてくれる。
小さな子供だったあの頃みたいに。『兄さん』のように。
マヒルはいつだってそうだ。
家族ごっこはうんざりしてるなんて言ったくせに、『家族』を求めてるのはマヒルの方だ。
「約束する。二度と離れることはない」
夢の続きのような言葉に、涙が出そうになる。
嘘ばっかり。きっといつか、マヒルと離れる日が来る。
マヒルは大事なことは何も言わずに、また姿を消す日が来る。
けれど今は、その嘘に乗ってあげることにした。
体を少し離すと、お互いの顔をしっかりと見つめ合う。
「なら、今度こそ証明して」
意味するところが何か、わからないわけじゃないだろう。
現にマヒルは、目を見開いて息を飲んだ。
今度は、二人を遮るような雲も、二人に差し迫る追手や期限もない。
マヒルの手が頬に触れる。
髪を少し掻き上げて、撫でる。
応じるように目を閉じると、すぐそこにマヒルが迫ってくる気配がした。
今度は、私も逃げない。
やがて、唇に軽く触れるだけのキスをされる。
それじゃ足りない、と言うつもりでマヒルの首に腕を回して引き寄せると、腰と後頭部をきつく抱き寄せられた。
お互いの唇から、小さく声が漏れた。
呼吸のために一瞬だけ離れて、またすぐに隙間を埋めるように触れ合わせる。
深く口付けて、呼吸が混ざり合う。
このまま体だって溶け合ってしまえばいいのに。
バルコニーに椅子を持ち出して、星空を見上げながら体を寄せ合った。
中途半端に目が覚めて眠たかったが、今夜は眠りたくなかった。
そのために明日が休日なのだから。
けれどきっと私は先に眠ってしまうだろう。
そしてマヒルは、そんな私をベッドまで運んでくれる。
昔、夜明けを見ようと言ったのに途中で眠ってしまった私を、ベッドまで運んでくれた頃と同じように。
「ブラックホールの終わりってどうなるの?」
「爆発するか、あるいは蒸発するか。永遠に続くって言う学者もいる」
私はマヒルにもたれかかり、マヒルの腕は私の肩に回されている。
いつも通りの、昔から変わらない姿勢だ。
「あの時の超新星もいつか消えちゃうんだよね。超新星が起きて、中性子星が生まれて、今ブラックホールになってて」
「中性子星は新しく生まれた星というより、古い星の残骸だぞ」
「残骸かあ……」
今ここにいる私たちも、いつかの誰かの残骸なのだろうか。
それならいつか二人ともブラックホールになって、お互いを取り込もうと、喰らい合おうとするだろうか。
それでもいい。独りと独りが二人になって、そしてひとつになれるなら。
万有引力は引き合う孤独の力だと、昔誰かが言ったのだから。