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ハンターさんは恋を知らない

帰り際、協会の前でレイを待っている時だった。
迎えが来るまでお喋りしよう、とモモコが駆け寄ってきた。
「レイ先生、優しくていいなあ。私も優しい恋人が欲しいよー」
「恋人?」
「うん。レイ先生とあなた」
恋人、という表現に違和感があった。
思わず首を捻ってしまうと、モモコも鏡のように首を捻っている。
「……違うの?」
考えたこともなかった、というのが正直なところだった。
好きだとか愛してるだとか、言ったことも言われたこともないし、10代の少年少女のように、付き合いましょうそうしましょうといった告白もなかった。
ただなんとなく一緒にいて、なんとなく近い距離にいる。
お互いの家に行くことも多いし、一緒に寝ることもあるし、おやすみと言っておでこにキスをされることもある。
「恋人……レイは、恋人、というか……」
あ、とモモコが声を上げる。
振り返ろうとした時にはもう遅かった。
「帰るぞ」
後ろから肩を叩かれ、低い声が響く。
「あ、うん。またね、モモコ」
「う、うん……お疲れ様……」
居心地が悪そうに手を振るモモコを尻目に、車の助手席に乗り込んだ。
まずいところを聞かれてしまったかもしれない、と覚悟する。
レイは運転席に座るとすぐに車を発進させた。
そこから、最初の信号に引っかかるまで、無言だった。
「……先程の話だが」
「やっぱり聞こえてた?」
ようやく口を開いたと思ったら、やはりその話。
レイが私を憎からず思ってくれていることは感づいていた。
けれど、まさか恋人だとは思っていないだろうと思っていた。
「私は、お前を『恋人』だと思っていた」
「え? あ、そっか……?」
「お前は違うのか?」
「恋人って……『恋』ってもっと、ドキドキして、キラキラして、胸が苦しくなるものでしょ? レイといると、ドキドキしないの。レイだけが煌めいて見えることもないし、一緒にいて苦しくないの」
「……そうか」
傷つけないよう、慎重に言葉を選んだ。
それは、私なりの最大限の賛辞のつもりだった。
だけどレイにとってはそうではなかったようだ。
横顔がどこか落ち込んで見える。
そこからはまた無言で、気が付いたら家はすぐそこだった。
いつものようにマンションの下につき、いつものように車を降りる。
別れる直前、レイから告げられたのは、まさに青天の霹靂とでも言うべき言葉だった。
「しばらく会うのを控えたほうがいいだろう」
「え、どうして?」
「私はお前といるとドキドキするし、お前だけが煌めいて見えるし、一緒にいて胸が苦しくなることもある。好きでもない人間と一緒にいたくないだろう」
「そんなことないよ。私、レイのこと嫌いなんかじゃないよ」
「私が耐えられないんだ。……すまない。お互いに落ち着いたら、また話そう」
「うん……」
レイが何事か怒っている、もしくは哀しんでいる、ということは漠然とわかる。
けれど察しの悪い私には、何が原因なのかわからない。
私はレイが好きだ。
恋愛的な意味ではないけれど、それじゃあだめなのだろうか。

それからはレイの宣言通り、会うことはなかった。
迎えに来てくれることもない。
けれどメッセージを送れば時間を置いて返ってくる。
電話をしても出ないのは、仕事が忙しいのだろうと思った。
そんな日が一週間ほど続いた頃、昼休みに『内通者』であるセキさんから電話があった。
「レイ先生と喧嘩でもしたんですか?」
「喧嘩……というか、私が一方的に怒らせてしまって」
「あのレイ先生が怒った? すごいですね。レイ先生を怒らせることができるのなんてあなたぐらいですよ」
前にもそんなことを言われた気がする。
医者のレイは冷静で、ともすれば冷たいとも言われるが、私の前では感情も表情も豊かだ。
「それで、原因は何ですか?」
「私が、レイを恋人だと思えないって言ったから……?」
「えっ!?」
セキさんは、今度は驚いたように声を荒げる。
「し、失礼……でも、あなたとレイ先生はとても仲の良い恋人に見えますよ」
「私、レイに恋をしてないんです。レイといると安心して、楽しくて、嬉しいことばっかりなんです。ドキドキしたことないんです」
「あはは! なるほど!」
何がおかしいのか、セキさんはおもしろそうに笑った。
「レイ先生のこと、好きですか?」
「もちろん、好きですよ」
「レイ先生といて、安心しますか?」
「はい」
「では、僕はどうです?」
「セキさん?」
セキさんはいつも穏やかで、優しい。
私にレイの様子を逐一報告してくれるし、信用できる人だ。
医者としての腕も確かだと、レイが言っていた。
「僕が好きですか? 一緒にいて安心しますか?」
「それは、まあ……」
「では、僕が毎日あなたを迎えに行ったり、僕の家で食事をしたり、同じ部屋で寝てもいいですか?」
「え、それは……」
それはできない。どうしてかはわからないけれど、セキさん相手にはレイと同じようにはできない。
「……セキさんにそんなに甘えられない、というか……」
「でも、レイ先生には甘えられる」
言われて、レイに無意識に甘えていたと気付いた。
レイがそれを許してくれると知っていたから。
もちろんセキさんだって優しいのだから許してくれるだろうが、私のほうが落ち着かない。
変に遠慮してしまうだろう。
レイに対しては、そういった遠慮がなかった。
でもそれは、レイが信頼できる距離の近い存在だからであって、恋とは違うもののはずだった。
「あなたにとってのレイ先生は、恋人でなければ何ですか? 信頼できる主治医? ただの幼馴染? 仲の良い友達?」
「違います。ただの友達なんかじゃありません。大事な……」
大事な、何だろう。
その先の言葉が出てこない。
大事な主治医? 大事な幼馴染? 大事な友達?
どれもしっくりこない。
「じゃあ、最後にもうひとつ」
「はい?」
「レイ先生と、キスできますか?」
キス。
いつものおやすみのキスではなく、ましてや魚でもないほうの。
そう聞かれて、レイとキスする瞬間を、初めて頭の中に思い描いた。
それは経験したことがあるかのように鮮明に、そして簡単にイメージできる。
意識すると、途端に顔が熱くなった。
私、レイにドキドキしてる。
「……したい」
「だ、そうですよ。レイ先生」
「え!?」
電話の向こうで聞き慣れた咳払いが聞こえる。
レイに聞かれた。今の会話、どこからどこまでを。
まさか全部だろうか。
「あ、あの、セキさん!」
「あとで迎えに行く」
一言だけ聞こえた声は、セキさんのものではなかった。
それだけ告げて、電話は切られた。
どうしようどうしよう、とモモコに泣きつくと、ファイト、と笑顔で背中を押されただけだった。

レイは先程の電話の通り、仕事終わりぴったりに迎えに来た。
車の前に立って待っている。
助手席までの距離が、長いようで短く感じる。
バツが悪くて、罰を受けるような気分で、そのグリーンマイルをとぼとぼ歩く。
「お疲れ様」
「……ただいま」
短い挨拶だけ交わして、レイは助手席を開けてくれる。
一週間ぶりの助手席に乗り込んで、目も合わせずに俯いた。
「……先程の話だが」
「わ、私……!」
思わず、遮るように声を上げた。
レイは何も言わず、続きを促してくる。
「レイといると、ドキドキしないの。レイだけが煌めいて見えることもないし、一緒にいて苦しくないの。レイといると安心して、楽しくて、一時間は一秒みたいだし、それなのに何時間いても離れがたいし、レイが私のためにしてくれることは全部嬉しいの」
顔が熱くなって、手で扇ぐ。
どうしてだろう、今日はお酒なんて飲んでないのに。
するとレイは珍しく、声を上げて笑った。
「お前は、私のことが大好きでしょうがないのだな」
「好き……」
ようやく顔を上げて、運転中の横顔を見る。
嬉しそうに綻ぶ横顔。
その顔が、可愛い、だなんて。
「……そう、かも」
恋愛的な意味ではないはずだった。どちらかというと親愛のはずだった。
だけど、そうじゃない、とたった今知ってしまった。
車はあっという間に私の住むマンションについて、私は逃げるように車を降りようとした。
だが、その手を掴んで引き寄せられた。
「……なに?」
「キスをしよう」
「え……」
「目を閉じろ」
柔らかく顎を持ち上げられ、ぎゅっと目を閉じる。
ほんの一瞬だけ、唇が触れ合うだけのキスをされた。
今時、10代の少年少女だってこんな子供の戯れみたいなキスはしないだろう。
心臓がドキドキと煩い。息が詰まって苦しくなる。
レイがキラキラして見えるのは、直前まで目をぎゅっと閉じていたせい。きっとそう。
いつまでも唇を押さえる私を笑いながら、頭を撫でてくれた。
レイは恋人というよりも、家族みたいだった。
何でも話してしまえるし、何でも話してほしいし、何も話さなくても一緒にいられる。
怪我をしたら心配するし、逆に私が怪我をしたら心配して叱ってくれる。
そんなところはどこか兄に似ていたし、記憶はないが父親というのもこんな感じだろうと思っていた。
けれど、もうそんな風に思えない。
「……レイ」
「何だ?」
「私の、恋人になって」
返事の代わりに、もう一度キスをされた。
今度は、子供の戯れではない、恋人のキスだった。

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