ハンターさんはキスしてほしい
ふと気付いたことがある。
シンは私に対して意地の悪いことを言ってきたり、ともすれば迫ってるとも思える言動をしてくるが、実際に行動に移してきたことはほとんどない。
行動どころか、シンのほうから私に触れてきたのはいつだっけ。
そもそも触れてきたことはあったっけ。
初めて会った時の印象は、それは酷いものだった。
ブローチを奪おうとして逆に組み敷かれたこともある。
けれど、それだけだ。それ以上のことはされなかった。
手を繋いだり腕を組んだりはする。だけどそれは、何かと不慣れな私をエスコートしてくれる意味が大きい。
抱き締めてくれることもある。それもやはり、何かから私を守ろうとする時か、私のほうから抱きついた時だ。
添い寝をしてくれる……と言っていいのか。私が一方的に彼を枕にすることはある。それを邪険にされたことはない。
いつだったか、映画の真似事をして、首筋にたくさんの痕が残るほどキスされたのが精々だ。
あれが最初で最後で、あれが最大だった。
「シンって、意外と奥手……?」
「奥手!? ボスが!?」
呟いた言葉は近くにいた双子に拾われ、そして笑われる。
ひとしきり笑ったあと、双子は揃って溜息を吐いた。
「あんた、ボスをわかってないな」
「わかってないわかってない」
「……なに?」
「ボスの気持ちを確かめたいなら、やることはひとつ」
双子は手を広げて、襲いかかるようなポーズで脅かしてきた。
「迫ってみろ!」
迫るって言われても、と納得できないまま手を引かれ、シンの部屋までやってくる。
ノックをするが、返答はない。
恐る恐る立ち入ってみると、シャワーの音がした。
かつて、ブローチを奪う時もこんな風にシャワー中に忍び込んで、そして失敗した。
嫌な思い出が蘇りつつ、しかし今日はシンを待つためにベッドに座る。
あらためて部屋の中を見回してみる。
色の統一された、どう見ても高そうな調度品に、プレミアのついていそうな古いレコード。
そこまで大きく離れているわけでもないのに、彼は大人なのだ、と実感する。
過ごしてきた時間の密度が違う。
彼からしたら、私は世間知らずな子供なのかもしれない。
「だからって『お嬢ちゃん』はないよね……」
誰に愚痴るでもなくそう零せば、止まり木のメフィストが短く鳴く。
それとほぼ同時にシャワールームの扉が開き、バスローブ姿のシンが現れた。
「えっと……こんばんは……」
「なんだ、何か用か?」
シンは私を見るなり少し首を捻り、頭を拭く。
いいから座って、と自分の隣を叩けば、密着しない程度に隣に座った。
腕一本分の距離。その距離すらもどかしい。
とはいえ何から話せばいいのだろう。
何も言えずにいると、シンは小さく笑った。
「夜這いにでも来たか」
「よば……!?」
あながち間違いでもないのかもしれない。
慌てて咳払いをして、シンを上目遣いに睨みつける。
「……そうだと言ったら?」
てっきりシンは笑うと思ったのに、意外にも短く息を吐いて、冷静にこちらを見つめ返した。
私の浅はかな心の内など見透かされているのだろう。
「お前にはまだ早い」
「早くなんてない」
ベッドの上に膝立ちになり、シンの両肩に手を置いてぐっと迫る。
膝立ちになれば、私のほうが目線が高くなるようだった。
「シンはいざって時には私に迫ってこないよね。意気地がないの?」
「そんな安い挑発に乗るほど、俺は子供じゃないぜ」
余裕そうに私の髪を一束掬うと、そこに口づけた。
その態度に余裕がなくなるのはやはり私のほうだった。
「俺が欲しいならお前から迫ってこい。ほら」
「私ができないと思ってる?」
シンの肩を引き寄せるように力を込めて、自分の顔も近付ける。
文字通り目と鼻の先にいるシンとはっきり目が合って、それ以上動けなくなってしまった。
一分も経たないうちに私は限界を迎え、シンの肩から手を離すと、大人しくベッドの上に座り直した。
「意気地がないのはどっちだか」
「なんとでも言って」
シンのほうを見られずに俯いていると、腰に手を回されて引き寄せられる。
私の頭に凭れるように、シンの頬が寄せられる。
「そりゃ、傷付けるのは本意じゃないからな」
「傷付けるって、物理的に? それとも精神面の話?」
「どっちもだ。お前、まだ俺が怖いだろう」
全く怖くないと言ったら嘘になる。
けれど最初の頃に比べたら恐怖は薄れているし、例えばこうして触れ合っているだけなら問題はない。
シンの体を枕にして眠れるくらいには彼に慣れたつもりだ。
「……怖くない」
多少の痩せ我慢も含めて答えれば、空いた片手で顎を持ち上げられた。
またしっかりと目が合って、その目が細められた。
「……目を閉じろ」
ゆっくりと目を閉じる。睫毛が震えるのが自分でもわかった。
心臓の音が煩い。これまで生きてきて、こんなに緊張したことはないくらいに、体が硬くなる。
シンの息遣いがすぐそばに感じられて、いよいよ触れようか、という時。
止まり木のメフィストが大きく鳴いて、翼を羽撃かせた。
心臓の音が相手に聞こえてしまうのではないかと思うほど静まり返った室内で、相手にだけ集中していたこともあって、突然の物音にただでさえ煩かった心臓が跳ね上がる。
驚いて目を開け、メフィストのほうを振り返った。
その瞬間、強い力で顎を引き寄せられ、シンのほうを向かされて、そのまま口づけられた。
目を閉じる余裕もなかった。
至近距離で伏せられた、色素の薄い睫毛に目が釘付けになる。
逃げようにも、腰をしっかりと掴まれて動けない。
息もできないほど深く口づけられ、苦しさからシンの胸を押すが、びくともしない。
ただ彼のペースに飲まれるまま、長い時間をかけて呼吸が溶け合う。
「余所見をするな」
「ちょっと、まっ……」
一瞬だけ解放された唇からなんとか息を吸おうとするが、またすぐに塞がれる。
顎に添えられていた手は肩に回され、いつの間にかきつく抱き締められていた。
口の中に溢れた唾液をどうにかしようと、飲み込んだ拍子に喉が鳴る。
また息ができずに苦しくなり、目尻に涙が滲んだところでようやく唇を離された。
顔が熱くなっているのは酸欠のせいだけではない。
口を押さえて俯いていると、シンは口の端を指で拭いながら、鼻を鳴らして笑う。
「だから、お前にはまだ早いと言った」
立ち去ろうとするシンの腕を掴んで引き止める。
恥ずかしくて顔を見られない。
けれど目を逸らしたまま、もう片方の指をおずおずと一本だけ上げた。
「も……もういっかい……」
シンは片眉を上げると、また隣に座り、顎を掬い上げられた。
さっきとは違う、触れるだけの優しいキスだった。