ショートホープ
※特殊設定、喫煙描写あります
バルコニーに出て、咥えた煙草の先に火を点ける。暗い夜空に向けて紫煙が立ち昇った。
最初は甘く、すぐに苦い、バニラの味がする。
一気に吸い込むと、一瞬だけ頭がくらりとする感覚に襲われた。
軽い酸欠に近い状態だろう。危険だとわかっていても、今はそれで丁度よかった。
もう一度吸い込むと、煙が頭の中に広がって、靄がかかったように思考が遮断される。
現実逃避だという自覚はあった。それでも何も考えたくなかった。
この感覚が好きだ。紫煙に脳を支配される、この感覚。
勢いよく吸ったせいか、一本目はすぐになくなってしまい、すぐに二本目を咥え直した。
もう一度ライターを点け、今度はゆっくりとくゆらせる。
シンと最後に会ったのが一ヶ月前だ。
どこかへ出かけるとは聞いていたし、頻繁に連絡も取り合った。
そのシンと連絡が取れなくなって一週間が経つ。
危険な何かに出会ってしまったのか、怪我をしたのか、面倒事に巻き込まれているのか、SNSの更新もなくメッセージに既読すらつかない今では何もわからない。
アキラとカゲトとも同じように連絡がつかない。
心配と苛立ちが募りに募って、普段は吸わない煙草に手を出してしまった。
元々パーティースモーカーだった。宴席で吸っている人がいればそれに付き合って一本くらい喫むこともあったが、プライベートで吸うことは全くといっていいほどない。
だからたった一箱のこの煙草も、一年経っても吸いきれずにいた。
そろそろ耐えきれない味になってきていたから、吸い尽くすタイミングとしては悪くない。
そう思わないと押し潰されそうになる。
二本目の煙草の燃えかすも手元の小さな灰皿に押し付けて、まだやり場のない思いが込み上げる。
いよいよ三本目を取り出して火を点けたところで、室内へ続くはずの背後の窓が開く音がした。
玄関のドアは施錠していたはずなのに誰が入ってきたのか、と振り返ったところで、伸びてきた大きな手が、火を点けたばかりの煙草を握り潰した。
「吸いすぎだ」
「……シン」
今まさに考えていたはずの人が目の前にいて、呆れたように息を吐く。
今の今まで何の連絡もなかったし、煙草を吸いすぎて幻でも見ているのだろうか。
けれど彼が私の手にあった灰皿を没収したことで、それが幻ではないのだとようやくわかる。
それと同時に、先程煙草を握った手が目に入って、慌ててその手を取った。
「ちょっと、火傷するよ!」
シンは何も言わず、握った煙草を灰皿へ捨てる。
時すでに遅く、手の平には小さな火傷ができていた。
すぐに冷やさないと、と手を引いて室内に戻ろうとするが、逆に手を引かれて広い胸に押し当てられて抱き締められた。
「なに……」
何してるの、と言うよりも早く、顎を掬われて唇を塞がれる。
肩を押しても、腕を叩いても引き離すことはできず、それどころか唇を割って舌先が捩じ込まれた。
冷たい舌が、口の中を蹂躙する。息を吸う暇もないまま、口の中を舐め取られた。
ようやく解放された時、シンは眉根を寄せて難しい顔をして、子供のように舌を軽く出した。
「不味い」
「それはそうでしょ」
シンを先導して室内へ戻り、ローテーブルに灰皿を置きながらソファーに座る。
冷凍室から氷を出してビニールバッグに入れ、シンに握らせた。
手遅れかもしれないが、気休めにはなるだろう。
「Evolを使えばすぐに治る」
「じゃあ早く治してよ」
「生憎、今は使いすぎてスッカラカンだ。だから充電しに来たのに」
よく見れば細かい傷もあちこちにある。
激戦だったのか、あるいは長期戦だったのか、彼にしては珍しく苦戦を強いられたのかもしれない。
シンはもう一度呆れたような顔をして、ローテーブルの上の灰皿を指先でこつこつと叩いた。
「お前が煙草を吸ってるのを初めて見た」
「あなたの前で吸ったことはないからね。本数だって多くないし」
「どうして今日は吸おうと思ったんだ?」
「ただの気まぐれだよ。お酒に逃げるよりはいいでしょ?」
原因である彼は軽く頭を振る。
無事が確認できたら、残った苛立ちだけが大きくなった。
「外から見上げたらバルコニーに光の玉があるんで、部屋を間違えたかと思ったぜ」
「下にいたの?」
「お前は空ばかり見ていたから気付かなかっただろうな」
彼の言う通りだ。全く気が付かなかった。
それだけ上の空だったのだ。
それもこれも全部シンのせいだ。
もう一度吸い直そうと新たな一本に手を伸ばすと、今度は火を点ける前にその手を抑え込まれた。
「もうやめておけ。四本目だぞ」
「三本目はあなたに消されたから三.五本目だよ」
「何をそんなに苛立ってる」
「本当にわからないの?」
肩を竦めて眉を上げるその顔は、本当はわかっている顔だ。
それなのに、心配をかけたと取り繕うことも、どんなことがあったとも説明してくれることもない態度に腹が立つ。
抑え込まれた手を強引に振り解くと、襟を掴んで引き寄せた。
唇が触れ合おうとしたその直前で、指先で軽く制される。
「キスはしない。匂いが消えるまでお預けだ」
その言葉にシンを乱暴に突き放し、手に持った煙草を軽く咥えてまた火を点けた。
「こら」
けれど今度は自分の口からは煙草を放し、それをシンの口に押し付けた。
驚いた顔をしながらもシンは吸い口を咥え、深く煙を吸う。
肺の奥まで満たすであろう深呼吸で、煙草は一気に燃えていった。
シンが吐き出した煙が一瞬だけ視界を染める。
天井近くまで昇った紫煙はすぐに消えて見えなくなった。
長い指に挟まれた煙草がちりちりと音を鳴らしている。
「これであなたも同じ匂いになったね」
「それで? 俺を同じ匂いにして何がしたい?」
シンが煙草を咥え直し、火玉が赤く灯る。
「わかってるくせに」
手元の箱から一本を取り出す。これが最後の一本だった。
それを口に咥え、けれどライターに火を点けることはなく、シンが咥え直した煙草に顔を近付ける。
先端同士が触れ合い、僅かな炎がこちらへ移った。
苛立ちとともに悪戯心が働いて、吸い込んだ煙を目の前の顔に向かって吐き出す。
シンは目を細めて顔を背けた。いい気味だ、と内心ほくそ笑んだ。
けれど彼の煙草はすぐに燃え尽き、その燃えかすを傍らの灰皿に押し当てた。
口元が暇になったせいか、私が煙草を口から離したその一瞬に、後頭部を掴んで引き寄せられた。
一本吸っただけの彼の口からも、甘くて苦いバニラの味がした。