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クックロビン

人には狩る側と狩られる側がいる。
俺は確かにそう言った。
他でもない、俺がそう言ったんだ。
壁の外に出た時点で、紫苑はもう市民ではなくなった。
『狩られる側』にまわったんだ。それはわかっていた。
人狩りが近い、今日その日が来るかもしれないのもわかっていた。
わかっているつもりだった。
つい数秒前、もしかしたら数分前か数時間前かもしれない光景を、トラックの荷台で揺られながら思い出す。
その日、人狩りは突然やってきた。
俺たちは近くその日が来ることを知っていたのだから『突然』ではないのかもしれないが、そうでない西ブロックの人々にとっては『突然』だった。
装甲車の衝撃音波に吹き飛ばされたバラック。
瓦礫の山と、その合間合間から覗く死体。
その崩れた建物の隙間を、紫苑の手を引いて逃げていた。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
「ネズミ!」
後ろから突き飛ばされ、不意のことに対応できずに、無様に膝から崩れ落ちる。
危ないだろ、と立ち上がり振り向きながら文句を言うのと、後ろにあった景色が吹き飛ぶのは同時だった。
そこには何もない。俺を突き飛ばしたであろう、白い髪の持ち主も。
つい今しがたまで建物だったであろう瓦礫の下から見える、西ブロックに不釣合いな綺麗な指先。
爪が割れるのも構わずに瓦礫をどければ、白から赤に染まった髪が見えた。
「紫苑? おい、なにふざけてるんだよ」
倒れた肩を幾度となく揺さぶる。
紫苑の体は自分ではぴくりとも動かず、ただ俺にされるがまま、ゆらゆらと揺れた。
しおん、と絶え間なく名前を呼んでも、俺が治安局員に両側から取り押さえられて連れて行かれても、何も答えないまま。
嫌というほど見慣れたものだ。そんなものに、紫苑もなってしまった。
どうして、ほんの一瞬だって、あいつから目を離したんだ。
あいつがいないなら、今の俺も、これからだって、何の意味もなくなってしまう。
やがてトラックは止まり、列になって歩かされる。
久々に来た場所だ。また来るとは思わなかったし、一人で来るとも思わなかった。
当時の思い出の通り、小さな箱のような空間に押し込められたかと思うと、足元にあった床が消える。
一瞬の浮遊感、それはすぐに落下に変わる。
地獄の入り口だ。
俺もこれから、その地獄の一部になるのだ、と衝撃に覚悟して目を閉じた。

「ネズミ!」
体を揺さぶられて、意識が浮上した。
目の前にはあるはずのない紫苑の姿、その背後には崩れた建物。
「なんで……」
「よかった、怪我をしたわけじゃないんだな」
「あんたこそ」
何がどうなっているんだ。ここは、人狩りの最中なのか。
紫苑の話によれば、俺は紫苑に突き飛ばされ、近くの建物に揃って転がり込んだらしかった。
だがいつまでも俺が立ち上がらず、それどころかぼうっとしているから、打ちどころが悪かったんじゃないかと心配したようだった。
一瞬、時間が巻き戻ったのかと馬鹿げたことを考えた。
そんなはずはない。
なら今のは、白昼夢だったのか。だとしたらなんてことだ。
紫苑の手を借りて立ち上がり、再び手を引こうとする。
だが、その手はするりと抜けた。
「子供じゃないんだ。手を引かれなくても走れるさ」
「ここじゃあんたは、子供みたいなもんだろう」
だから目を離しちゃいけない。
この手を離してはいけない。
手を引いて逃げ惑って、しばらくすると紫苑は立ち止まった。
「おい」
「泣き声が」
確かに泣き声がする。ここだけじゃない。あちこちから。
ただこの時は、泣き声がすぐ近くから聞こえたというだけだ。
すぐ近くの、今にも崩壊しそうな建物の中。
割れた窓から、その姿が見えた。
「……助けられるかもしれない……」
「なんだって?」
紫苑は小さな声で呟いた。
聞き返せば答えるより早く、繋いだ手は簡単に離されて、その窓から中に乗り込もうとした。
何を馬鹿なことを。今は、自分のことだってわからないのに。
もっと自分のことだけ考えろ。
伸ばした手は僅かに届かず、紫苑は建物の中に入り込んだ。
「大丈夫だよ。僕たちが助けるから」
紫苑は子供を抱きかかえると、入った窓へと戻ってきた。
「俺まで巻き込むな」
子供を受け取って、紫苑を引っ張りだそうと手を差し出す。
紫苑は小さく笑いながら、こちらに手を伸ばした。
それが最後だった。
目の前にあった建物は、紫苑も巻き込んで、ただの瓦礫の山になった。
顔を伏せて土埃を避ける。
「紫苑……?」
この崩壊の中で、生きている可能性はどれくらいあるだろう。
生きていたとして、俺一人で掘り出せるだろうか。
一体何日かかるんだ。それまで、紫苑はもつのか。
いや、そもそも紫苑は、本当に生きているのか。
「紫苑!」
抱きかかえた子供が、泣き続ける。
耳が痛くなるような泣き声でさえ、今は気にならなかった。
守れなかった。また救えなかった。
守ると誓ったのに守れなかったなら、俺が殺したも同義だ。
また、俺が。

誰かの泣く声で、はっと我に返った。
これは涙か。俺は、泣いていたのか。
また夢だったのか。
ここはどこだろうと見わたせば、西ブロックではない。
ここは、クロノスだ。憎んでいた壁の中。
体に打ちつける雨風。そこでやっと合点がいった。
これは、あの日だ。
いつだったか、紫苑が熱弁してくれたことがあった。
夢は経験と記憶に基づくもので、大抵は過去の場面を繋ぎ合わせた再現なのだと。
なら、これは夢だ。これほど現実離れした場面なら、さすがにわかる。
俺は間違いなく16歳だ。12歳じゃない。
西ブロックで過ごした記憶も、確かにある。
これは、あの日を再現した、ただの夢だ。
夢の中で夢を見るのも不思議な話だが、そう割り切れれば簡単だった。
もう間もなく、あの窓が開く。
開いた窓から、紫苑が手を広げて叫ぶ。
入ってこい、と呼んでくれる。
だがそれには答えずに、それどころか俺は治安局員の前に躍り出た。
どうせ夢だ。この先の記憶は当然ない。経験していないのだから、当たり前だ。
もうすぐ目が覚めるだろう。それで終わりだ。
肩を抉る銃弾に体が倒れたところで、意識を失った。
次に目が覚めれば、現実のどこかだろう。
しかし、その予想に反して、目が覚めた俺がいたのは矯正施設だった。
体は12歳のまま。
日にちは幾日か経っているようだった。
壁に囲まれた部屋の中。
天井にほど近いところにガラス窓があり、その向こうに研究員らしき男たちがいる。
「VC103221」
久しぶりにそう呼ばれ、返事の代わりに睨みつける。
研究員が言ったことはたった一言、歌え、だった。
こいつらがエリウリアスの研究をしていることは知っていた。
そこまでは探り当てていた。
だが結局、蜂をコントロールする方法はわからずじまいだ。
四年経ってもそうなのだから、四年前のこの時なら尚更だろう。
大方、俺の声でも録音して、仮初のコントロールでも手に入れるつもりだろう。
それで市民をコントロールした気になるなら、そうすればいい。
こいつらの中にだって、きっと産卵されている。
ここにいる全員、死ねばいい。
その思いで口を開き、言葉と音を紡いでいく。
これほど大きな声で歌ったのはいつ以来だろう。
忘れないように、小さく何度も歌ってはいたが、歌えと促されたのは初めてだった。
中盤まで差し掛かったところで、耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。
研究員たちのいるガラス窓の形状から、薄い壁を隔てて隣の部屋があるのだろうと察してはいた。
だがまさか、そこに誰かがいたとは思いもしなかった。
この叫びは知っている。今にも死にそうな、この少年の声は知っている。
まだ記憶に新しい、あのもがきに、あまりにもよく似ている。
「壁の向こうを見せろ!」
歌をやめ、そう叫んだ。
悲鳴は徐々に力をなくし、そしてついに止んだ。
それが何を意味するのか、わからないほど愚かじゃない。
悲鳴が止んでしばらくして、ようやく壁が動き出した。
シャッターのように上がっていく。
下に僅かにできた隙間に体を潜り込ませて、壁の向こうへ辿り着いた。
椅子に拘束されたまま息絶えた、少年の体格の、老人のような死体。
綺麗に洗濯されたシャツからは、あの夜の匂いがした。
あの夜、すぐ隣で眠っていた匂いだ。
「しおん……」
名前を呟けば、後ろから拘束された。
なんで。どうして。
この紫苑は、俺を助けてなんていないじゃないか。
そう喚く俺に構いもせずに、貴重なサンプルがどうこうと話を進めていく。
暴れる俺に業を煮やしてか、首に注射器のようなものがさされた感覚があった。
体から力が抜けていく。
ころした。おれが、しおんを。おれが。
項垂れた紫苑が椅子から外され、ごみのように投げ捨てられるまでを見届けてから、俺は意識を手放した。

「ネズミ、大丈夫か?」
体を揺すられて、目を覚ます。
眠っていたのか。これまでは夢だったのか。
どこまでが夢で、どこからが現実なんだ。
体を起こしながら見回せば、そこは見慣れた自分の部屋だった。
「すまない。疲れているだろうとは思ったけど、うなされていたから、起こしてしまった」
「うなされてた? 俺が?」
「うん。夢見が悪かったのか?」
「さあな」
どんな夢だった、と聞かれても、話す気になれなかった。
いつものように、夢というのは云々とうんちくを披露してくれればそれでいい。
だが、そういう笑える話ではない。
下手に心配させるくらいなら、何も言わなくていい。
ただひとつだけ、確認したいことがあった。
「人狩りはどうなった」
そう聞けば、紫苑は僅かに表情を曇らせた。
「何言ってるんだ。僕たちがここにいるのが証拠だ。幸いと言えるかどうかはわからないけど、まだそれらしいことは起きていないじゃないか」
「……そうか」
ならよかった、とは言えない。
人狩りが起きていないのなら、それだけ沙布の救出は遠のいたということだ。
尤も、救出なんてもう不可能なのだろうが。
テーブルの上には、出しっぱなしにされた本が一冊。
マザーグースの詩集だ。
優秀な紫苑は、原語でもちゃんと読めたようだ。
クラッカーのかすが散らばっているあたり、小ネズミに読み聞かせでもしていたのだろう。
「残念。あんたの二つとないほど素敵な朗読を聞きそびれたな」
紫苑は頬を紅潮させつつも、むっと口を尖らせた。
「何を読んでいたんだ?」
「クックロビン」
「いいな。聞かせてくれ」
「僕の下手くそな音読でいいのか?」
「下手くそなんて言ってないさ。二つとないほど素敵、って言ったろ」
「褒められてる気がしない」
そうだろうな。実際そうだ。
紫苑のは、朗読というよりも音読だ。
だがその音読を、小ネズミたちは気に入っているようだった。
「ほら、こいつらも聞きたがってる」
肩に駆け上ってきた小ネズミの頭を撫でながらそう言えば、紫苑は渋々といった様子で、ベッドの端に腰掛けた。
「本はいいのか?」
「何度も読んでるから、もう覚えたよ」
「さすが、エリート様は優秀だな」
「茶化さないでくれ」
紫苑はひとつ息を吸って吐いて、もう一度吸った。
「”だれがこまどりころしたの”」
「それはわたし、とねずみが言った」
紫苑より早くそう続ければ、睨むように振り返る。
「ネズミ、どうしたいんだ。からかってるのか、馬鹿にしたいのか、邪魔をしたいのか」
「冗談だって。怒るなよ」
「それに、『ねずみ』じゃない。『すずめ』だ」
「はいはい」
すずめじゃない。確かに『ネズミ』だ。
夢の中とはいえ、何度もあんたを殺したのは、間違いなく『ネズミ』だよ。
今度は間違えないさ。今度はこまどりを殺したりしない。
絶対に守り通す。絶対に。
白い髪に指を梳けば、真面目に聞いてくれと怒られた。

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