また二人で見つけよう
春の嵐、とでも言うべきか。
雨こそ降っていないが、ここのところ強風が続いていた。
風は花を散らし、砂を巻き上げる。
不必要に窓を開けないように、外出時は十分注意するように、と都市全域に勧告を続けていた。
それなのに、その勧告を出している僕がこんなことをして、叱られるだろうか。
紫苑は窓辺に立ち、その窓に手をかけた。
ここは市庁舎ではない。紫苑が生活している部屋だ。
ならば、誰に文句を言われるわけでもない。
叫び出したいほどの衝動。
その衝動のまま、窓を開け放った。
部屋の中に風が吹き込み、書類を巻き上げる。
叫び出してしまおうか。いつかの夜のように。
息を吸い込んで、けれどそれは声にはならずに、吸い込んだ息をそのまま吐き出すだけに止めた。
叫び出したら、止まらなくなる。
会いたい気持ちが抑えきれなくなる。
やがて室内環境警報音が鳴る。窓を開けるに適さない日だ、と機械は判断したらしい。
あと数十秒で、自動で窓が閉まる。
何を馬鹿なことを。こんなに最高の日はない。
そう思いながら一度室内に戻り、環境管理システムを解除した。
これで、窓が勝手に閉まることはない。
警報音が消え、室内に風の音だけが響く。
くすっ。
その風の中で、小さく笑い声がした。
まるであの日の再現だ。
驚いて振り向くと、あの日と同じように、そこには彼がいた。
雨も降っていない。それどころか夜ですらない。
彼は怪我をしていないし、女の子と見間違えるほど華奢でもない。
それでも紫苑の目に映ったのは、あの夜のびしょ濡れのネズミだった。
軽く広げられた腕が、紫苑を受け入れることを表していた。
名前を呼ぶ間も惜しい。
駆け出して、その腕の中に飛び込んだ。
背伸びをして首の後ろに手を回すと、背中に回された手にきつく抱き締められる。
「紫苑」
耳元で声がする。
人間の記憶の中で、一番初めに消えるのは聴覚の記憶だという。
消えかけていた声が、今はすぐそこにある。
「……紫苑」
もう一度名前を呼ばれて、どちらともなく体を離した。
やっとまともに顔を見た。
「ネズミ……」
その名を呼ぶ。それだけで、目の端から涙が零れた。
唇が重なる。
そのキスの意味は確認するまでもなかった。
再会を必ず。
別れ際、そう誓ったのだから。
窓を閉め、部屋の隅に置かれたソファーに並んで座る。
ローテーブルにはココアを並べて。
そのテーブルが、西ブロックのあの部屋から運んだものだということは、あえて言わなくてもネズミはわかっているだろう。
「ただいま」
「え?」
「ただいま、紫苑」
「ただいま……って、なんだか変な感じだ」
そうだろうな、とネズミは笑う。
浮遊するもの。帰るところなんてない。
そう言って旅立っていったのだから。
「途中で、ある男に会ったんだ。青空みたいな、やつだった」
突然ここに立ち寄った理由。立ち寄りたいと思った理由。
その男が、揉め事の中に飛び込んでいって、大道芸のようなものでその場の空気を変えてしまった。
揉めていた二組も、周りにいた見物人も、一瞬で笑顔になった。
その男が言ったのだ。簡単でしょう、と。
頭を打たれたような衝撃だった。
こんなに簡単なことだったのだ。
そう思ったら、どうしようもなく紫苑に会いたくなった。
叫び出したいほどの衝動。
泣き叫んで、名前を呼んで、かき抱きたいほどの。
その叫びは、会うまではとっておくと決めて。
「俺には帰る場所なんてない。あるとすれば、それは」
言葉が切れる。
「紫苑」
「うん?」
「あんただ」
風を留めることはできない。
あるとするならそれは、風すら受け止めるほど大きなもの。
「俺の帰る場所は、あんただよ」
ネズミの長い指が、紫苑の銀糸を撫でる。
その気持ち良さに目を細めると、ネズミは顔を寄せて、唇を触れ合わせた。
最初は柔らかく、徐々に激しさを増して、深くなっていく。
呼吸が苦しくなるほどに、けれど目は閉じない。
「目をお瞑りよ、ぼうや」
「君こそ」
「キスをする時に目を閉じない女を信用するな、って言葉があるの、知らない?」
「僕は女じゃない。それに、君だって目を開けてたろ」
眦に滲んだ涙を指先で軽く拭いながら、ネズミは小さく笑う。
「あんたが必死になってるから、見届けてやろうと思って」
「ばかにするな」
「それに、気付いてる?」
前髪をかき上げられ、剥き出しになった額に、ネズミが額を合わせる。
鼻が触れそうな距離に互いの顔がある。
互いに見つめ合う、夜明け前の空と、夜の湖面。
「あんたがキスする時の顔。すごく扇情的で、そそられる」
「せ、ん……」
途端に顔に熱が集まる。
真っ赤になる紫苑を見て、ネズミはまた笑った。
「か、からかったのか」
「まさか。本気だよ。で?」
「うん?」
「あんたは、なんで目を閉じなかった? 俺が信用できない?」
紫苑は目を伏せた。
名前と同じ色の瞳が、複雑そうに揺れた。
「目を閉じたら、そのまま君がいなくなる気がして」
思わず、ネズミまで目を伏せてしまう。
そんな思いをさせた、今もずっとさせ続けている。
ごめん、と謝ろうとして、口を噤む。
謝ったら、また消えることを肯定しているようだった。
「消えないよ。もうどこへもいかない」
「……ネズミ」
「あんたのそばにいる。ずっと。これからずっとだ。」
「誓うか?」
「誓う」
まるでいつかの再現だ。
紫苑はそっと瞳を閉じた。
閉じた睫毛まで真っ白だ。まるで雪の積もったように。
長い睫毛を指先で軽く弄って、ネズミは瞼に唇を落とした。
鼻梁。頬骨。口角。顎。ゆっくりと、慈しむように唇で触れる。
その度に、閉じた瞼が震えた。
やがて睫毛に水滴が滲み、融けた雪のように光る。
「紫苑」
名前を呼ぶと、ゆっくりと目を開けた。
涙に濡れる、紫色。
ごくり、と固唾を飲む。
「……知らなかった」
「何を?」
「幸せでも、涙が出るんだな」
「出るさ。どんな感情でも、振り切れれば涙は出る」
紫苑の細い指が、ネズミの眦に触れた。
「君も?」
「俺?」
「今にも溢れそうだ」
ああ、そうだろうな。
濃灰色の瞳は水を湛えて、湖面のように揺らめく。
顔に触れる手を取って、もう一度軽く口づけた。
「愛しすぎて、涙が出るんだ」
叫び出したいほどの、衝動。
泣き出したいほど、愛しい。
「愛しい? 僕がか?」
「ああ。例えば、この白い髪。紅い痕」
首の帯状痕をなぞると、くすぐったそうに身を捩る。
「脆いようで、強い。冷酷で、勇敢で、高潔で。浅はかでいて、底の見えない恐ろしさ。その謎が」
たまらなく、愛おしい。
その謎を暴きたくなるのに、暴いてはいけないと心が制止をかける。
そういうところまで全てだ。
我ながら重症だ、とネズミは小さく自嘲した。
「僕は」
紫苑の細い指が、ネズミの頬に触れる。
柔らかいのに、しっかりとした手つきで。
「……僕も、君が大切で、大好きだ。君の瞳は、夜明け前の空みたいな色なんだ。吸い込まれそうになる」
「吸い込まれればいい」
「吸い込まれてるさ、とっくに。君の引力に惹かれて、もう戻れない」
それから、強いように見えて、時々弱くなるところ。
そういうところを、愛しいと感じた。あの嵐の日に。
守りたい、と思ったのだ。
今でもその思いは変わっていない。
その衝動に突き動かされる。
夜をいくつ越えて、季節は何度廻った。
夜明けを見るたびに、思い出すのはネズミのことだった。
そうして今、目の前にそのネズミがいる。
頭の中も、心の底まで、彼のことで一杯になる。
僕も重症みたいだ、と紫苑も笑った。
「不思議な、気分だ」
「不思議?」
「幸せで、嬉しいはずなのに、切なくなる。心臓を鷲掴みにされたみたいだ」
紫苑は自分の胸に手を置いて、薄いシャツを握った。
「心、なのかな」
「へえ、心って心臓にあるのか」
「違うのか?」
「俺は頭にあると思ってた。こうしてると、頭の先から足の先まで痺れたみたいになるから」
強く抱き締めると、紫苑の手が背中にまわされる。
かき抱いて、また口づける。
限りなくゼロに近いこの距離すらもどかしい。
いっそ溶けて、ひとつになれてしまえたら。
体重をかけてみると、紫苑は後ろに傾いていく。
お世辞にも柔らかいとはいえないソファーの上に押し倒してみても、紫苑は抵抗しないまま。
ネズミが紫苑の胸に手を当てるのと、紫苑がネズミの前髪をかき上げるのは、ほとんど同時だった。
お互いの心は、ここにあるんだと確かめるように触れ合う。
「幸せ?」
不意にそう聞くと、紫苑はほんの一瞬だけ、目を丸くした。
すぐに、気の抜けたように笑う。
「うん」
覆いかぶさるように、抱き締める。
「幸せだ」
温かい。
生きてる人間って、温かいんだ。
初めて会った夜と、同じ言葉を思い出した。