まごころを君に
大学も三回生になり、ゼミやら何やらで面倒をかけた准教授がいる。
准教授自身は、それがお仕事だから、と笑ってはいたが、生真面目なフレンはそれを気にしていた。
本人が仕事と言っているはいえ、お世話になった人だ。何かお礼をしなくては。
けれど形に残るものは避けるべきだろうし、食べ物が良いだろう。
だが困ったことに、その准教授は甘いものが嫌いだと聞いた。
ならばコーヒーでも、と思ったものの、また困ったことに、その准教授は特定のものを好んで飲んでいる様子はない。
日によってまちまちなのだ。時には酒であることもあった。
ビールを送ろうかとも考えたが、酒が好きであるならば、ビールは種類や産地で好みが分かれるところだろう。
やはり無難に菓子折りでも、と考えをまとめたところで、同じゼミの学生に聞いた、話題の店に来ているところだった。
高級な菓子を出す店には見えない。
それどころか、女性向けの可愛らしい菓子が並んでいるように見える。
それほど広くない店内も、女性で埋まっていた。
「はいはーい、お待ちどー」
女子学生に聞いたのが間違いだったのかもしれない、と溜息を吐きかけたところで、軽い調子の男性の声が聞こえた。
ショーケースの向こうで、男性店員が軽く手招きしている。
僕、と自分を指差してみると、彼は二度頷いた。
「ええと、菓子詰を……できれば、あまり甘くないもので」
「菓子詰な。ちょっと待っててくれ」
客に対してなんて態度を、と心の中で悪態をつく。
けれど、敬語でこそないものの、態度が悪い、という印象は不思議と受けない。
菓子を詰めている間、女性客からの口撃にも近いアプローチにも、律儀に対応している。
ひとつにまとめた長い黒髪に、整った顔立ち。
確かに、女性に人気そうではある。
やがて彼は、いくつかの菓子とカップをひとつ置いたトレイを持って、こちらに来た。
「こんな感じで詰めたんだが、どうだ? サンプルってことで、試食頼むわ」
「あ、はい……」
一口サイズに切られた数種類の菓子と、口を濡らす程度の紅茶。
店の隅には小さいながらも椅子とテーブルが用意されており、フレンはそこに座った。
小さなフォークで小さな菓子を口に運ぶ。
「……美味しい」
「そりゃよかった」
口から僅かに漏れただけの感嘆は、レジにいる彼に届いたようだった。
女性客にかき消されなかったらしい。
サンプルとして出されたそれは、いかにも洋菓子といった見た目に反して甘さは控えめで、クリームは口の中で溶ける。
これならあの准教授でも食べてくれるだろう。
フレンは食べ終えたトレイをレジに持っていきながら、ショーケースをちらりと見た。
今食べた以外にも、目移りするほどに様々な種類がある。
「すみません、追加してもいいですか」
「どーぞ」
「お薦めを、いくつかお願いします。こっちは自分用で」
「はいよ。どーもな」
先程よりも一回り小さな箱に、手早く菓子を詰めていく。
合わせていくら、と提示された値段を支払って、二つの袋を持って店を出る。
「ありがとうございましたー」
敬う気のない敬語に振り返れば、女性客の間から、彼はひらひらと手を振った。
軽く会釈だけして、その足で大学に向かう。
個人的に通うのもいいかもしれない、と思えるほど、その店の菓子はフレンにとっては好みのものだった。
研究室の扉をノックすると、気だるげな返事。
扉を開ければ、入り口のすぐ近くのソファーに、准教授は横になっていた。
「先生。レイヴン先生」
「ん、あー、フレンちゃんね。どったの?」
レイヴンを起こし、その正面に座る。
テーブルの上に菓子の箱を出した。
「お疲れのところ、申し訳ありません」
「いやいや、いいのよ。……これは?」
「大変お世話になりました。そのお礼を、と思いまして」
「だから、気にしなくていいのに。他の子なんてお礼にも来なかったりするのよ。まったく失礼しちゃう」
言いながら、レイヴンは楽しそうに箱を開け、そして固まった。
複雑な顔で、フレンを見上げる。
「フレンちゃん、俺様が甘いもの苦手って、知らなかったっけ」
「いえ、存じております」
「じゃなにこれ。お礼って、お礼参り?」
「まさか。ここのお菓子は、甘くなくて美味しかったですよ。お口に合うと良いのですが」
合うわけないじゃない、とぼやく。
やはりもっと考えるべきだったのか。
しかし本当に美味しかったのだ。一口でも食べてもらえないだろうか。
そう思いつつ席を立ち、カップを二つ手に取る。
「コーヒーと紅茶、どちらにしますか?」
「コーヒー。濃いめブラックで」
その注文は、菓子が甘いことを見越してのことだろう。
マドレーヌをひとつ手に取って、まじまじと見つめている。
睨んでいる、のほうが正しいか。
「お待たせしました。どうぞ」
「ん、あんがと」
レイヴンの前にコーヒーを、自分の前に紅茶を置いて、マドレーヌと見つめ合うレイヴンを眺める。
やがて意を決したように、レイヴンはそれを半分ほど口に入れた。
すぐにコーヒーを飲もうとカップを手に取るが、そのカップは口の手前でぴたりと止まった。
「……甘くない」
「でしょう?」
「さすがフレンちゃん! いい目してる!」
それは僕ではなくゼミの学生が教えてくれて、という説明はもう聞いていないようだった。
残る半分も口に入れ、ゆっくりコーヒーを飲む。
飴玉ですら顔をしかめるようだったから多少不安ではあったが、これは気に入ってくれたようだった。
あの店員の見立てが正しかったな、と黒髪の店員をぼんやり思い出していた。
予期しない再会はそれから数日後のことだった。
就活のことも考えなければならない時期。
研究のテーマもそろそろ考え始めなければならない。
そのような用事で本屋に行き、学校案内関係の棚の前で、その黒髪を見つけた。
解くと腰に届くかというほど長い黒髪。痛みもなく、艶やかなストレート。
彼は、一冊の本を真剣に読んでいる。
声をかけようか迷っていると、その視線に気付いたのか、顔を上げた。
「あ……こんにちは」
「ああ、こないだの」
本を閉じ、元あったであろう棚に戻す。
そのまま数歩、こちらに歩み寄った。
「菓子詰、どうだった?」
「好評でした。甘さ控えめで、食べやすいと」
「そいつは結構」
彼は視線を落とす。
視線の先を辿ると、フレンが持っている就活の参考本のようだった。
脇に抱えていたそれを、彼の見やすい位置に持ち上げる。
「就活?」
「ええ、今すぐじゃありませんけど」
「え、歳、いくつ?」
「大学三年……21です」
「嘘だろ……」
彼は目に見えて落胆した。
落胆、というよりは驚愕だろうか。
その陰で、喜んでいるようにも見える。
「絶対年上だと思ってたのに、タメかよ」
「え、そうなんですか?」
「そうなんですー。だから、その敬語もなし。なんか、痒くなるんだよ」
「わかりま……わかったよ」
そういえば彼は何の本を見ていたのだろう、と棚に目をやる。
彼がいるすぐ目の前には、製菓専門学校の案内ばかりが並んでいた。
「母校でもあるのかい?」
「母校? なんで?」
「出身の製菓専門学校があるのかなって」
「ああ、いや。俺、専門は出てないんだ」
「そうなのか。それじゃあ、これから入るところを探していたのか?」
「まあ、そんなとこ」
言葉を濁される。
あまり立ち入るべきではないのかもしれない。
頑張って、と声をかけて立ち去ってしまおうかと考えていると、彼は再び口を開いた。
「なあ、大学、どこなんだ? 近いのか?」
「近いよ。帝都大なんだ」
「えっ!?」
そうは見えないかもしれないけど、と笑ってみせる。
通っている大学を聞かれるのは、少しばかり苦手だった。
帝都大といえば、国内最難関とさえ言われる国立大学だ。
それを言えば、反応はおおよそ二分される。
持て囃されるか、僻まれるか。
そのどちらもが苦手だった。
だが彼の反応は、そのどちらとも違う。
「なら、俺に……」
「君に?」
「……なあ、このあと時間あるか? あるなら少し付き合ってくれよ」
「構わないけど……」
持っていた本の会計を済ませて、彼もまた別の本の会計を済ませて、並んで店を出る。
近くに新しくできたというケーキ屋があるからそこへ行かないか、と誘われるがまま付いて行った。
食事スペースもあるその店に揃って入る。
入ってみて気付いたが、若い女性客が多い。
ケーキ屋なのだから当然なのだが、フレンは今更になって恥ずかしくなった。
ショートケーキとミルクティーを頼む彼の前で、紅茶だけを注文する。
飲み物だけはすぐに出てきた。
「ちょっと相談したいことがあるんだ」
「僕で良ければ」
「人にものを教えるのって、得意な方か?」
聞かれていることの意味がわからず、言葉が詰まる。
そもそも何を教えるのか。教えるジャンルにもよる。
例えばケーキのことだったら、彼に教えるようなことは何もないだろう。
「さっき、見てたろ。専門の案内持ってるとこ」
そういうことか、と合点がいった。
つまるところ、勉強を教えてほしいのだろう。
「けど、製菓専門学校の入試で、僕が役に立つかな」
「そのもうひとつ手前」
「手前?」
「俺、高校出てないんだ。だから高卒認定受けようと思ってる」
その勉強を教えてほしい、ということだった。
先ほど本屋で買ったのは、高卒認定試験の案内らしかった。
他に頼めるような人もいない、と頭を下げる。
しかし、フレンも暇ではない。
人に勉強を教えている余裕があるだろうか。
考えあぐねていると、沈黙を破るかのように、ショートケーキが運ばれてきた。
「えーと……食ってていいか?」
「うん、どうぞ」
「じゃ、遠慮なく」
長い髪をかき上げて、頭上でひとつに結う。
結びきれなかった後れ毛が、耳の後ろから一筋こぼれる。
彼はすぐに食べずに、まず皿をゆっくり一回転させた。
角度を変えて、じっくりと見つめる。
観察する、という言葉がしっくりくるほどだった。
しばらく観察したあと、ようやくフォークを動かして、苺のすぐ下にあるクリームの塊を掬って口に運ぶ。
何やら難しい顔をしながら、数度同じようにクリームだけを食べる。
表面の半分ほどのクリームがなくなってから、やっとスポンジにフォークを突き刺した。
まずスポンジだけを食べる。次にスポンジとクリームを併せて食べる。そこに苺も加えて食べる。
一口ずつパターンを変えながら、味わうように、観察するように食べる。
そうして時間をかけて、一切れのショートケーキを食べ終えた。
その頃には、紅茶はすっかり冷めてしまっていた。
「じっくり食べていたね」
「ん? ああ、悪い。癖みたいなもんだ」
言いながら、彼はメモを取り出して、ペンを滑らせた。
走り書きのそれは、本人にしか読めないであろう、ミミズのような文字になる。
「美味しかった?」
「そうだな。けど」
彼は店内を軽く見回した。
近くに店員がいないことを確認して、その上で声を潜める。
「クリームが甘すぎた。あれじゃあ苺が酸っぱくなっちまう。ただでさえこの時期の苺は輸入モノで、酸味が強いんだ。クリームの甘さを控えねえと。それから、スポンジが」
スポンジの硬さや味、クリームのきめや温度。
解説をされたが、フレンにはさっぱりわからない話だった。
ただ漠然と、彼はつくる側の視点から見て、食べていたのだろうとだけ。
「君はあのお店で、お菓子をつくっていたのかい?」
「ああ。オーナーがいい人でな、学歴がなくてもいいって雇ってくれた。つくっていたどころか、普段はずっとつくってるよ。あの日はたまたまレジのバイトが休みで、出されてたんだ」
接客態度が悪いのはそういうわけだ、と言い訳をする。
一応、自覚はあったらしい。
彼にあれだけの技術があって、これだけのやる気があるのなら、専門学校でより専門的な知識を学んだ方が、と思ってしまう。
それから、これ以上に美味しくなった彼の菓子が食べたい、とも。
「よし、わかったよ」
「ん?」
「今が七月……間もなく八月か。高卒認定試験は、いつ?」
「11月……って、まさか」
不安半分、期待半分の眼差し。
それに応えるように、軽く笑ってみせた。
「僕で良ければ、力になるよ」
「マジで……!?」
驚きつつも、彼は手を差し出した。
「サンキューな」
「ありがとう、は合格したら聞かせてくれ」
その手を握り返すと、目を細めて笑う。
「ユーリだ。ユーリ・ローウェル」
「フレン・シーフォだ」
そう名乗れば、甘そうな名前だ、と彼はまた笑った。
そうと決まればどこで勉強をしようか。
フレンの部屋は学生寮であり、同室者がいるためユーリを招くことはできない。
ユーリの部屋は散らかり放題で、とても人を呼べる状態ではない、とは本人の言である。
自習室があるような公立図書館は駅前にしかない。
駅まではバスで30分はかかる。
フレンは研究室との行き来がしづらく、ユーリはバイト前後に駅まで通えそうにない。
大学と店のどちらからも近く、環境が整っている場所。
「うちの大学の図書館はどうかな」
「いいのかよ? 帝都大だぞ?」
「良いんじゃないかな。一般開放もしているくらいだ」
もちろん一般相手に貸し出しは行っていないが、閲覧は自由だ。
閲覧スペースは好きに使えるし、自習スペースは予約が必要だが使うことはできる。
自習スペースの利用は学生が優先だが、予約はフレンがすれば問題ない。
ユーリなら学生に紛れることもできる。
夏休み中であれば、研究室も多少は人の出入りが減る。
研究室を借りるのも良いだろう。
「まず試験科目の確認だけど、国語、世界史、数学、英語は必須。地歴、公民、理科は選択になるみたいだ。科目を絞った方が良いな。どうする?」
地歴のどちらか、公民も一科目ないし二科目を選択、理科も二科目ないし三科目を選択だ。
どれが得意かを聞いてみても、どれも自信がない、と返ってきた。
勉強から離れて長いのだから、仕方がないことではある。
「できるだけ受験科目が少ないやつ」
「なら、公民は現社、理科は科学ともう一科目だな。地歴はどうする?」
「じゃあ、フレンが得意なやつ」
そう言われ、改めて受験科目一覧を眺めた。
「特に得意不得意はないな。高校レベルで良いのなら、どれでも教えられると思うよ」
ユーリは驚きのような賛嘆のような、複雑な表情を浮かべる。
昔から勉強は苦手ではないし、苦でもなかった。
それしか取り柄がない、と自分ではずっと思っていた。
「暗記と計算なら、どちらが得意だ?」
「どっちもまあまあ……強いて言うなら暗記だな」
「なら、理科は生物にしよう。地歴は日本史にしようか。それなら世界史と交えて覚えやすいだろう」
受験科目が決まったところで、過去問題集を開く。
まずは今どのくらいできるのか、あるいはできないのかを見定めるために、一度解かせてみる必要がある。
「時間はかけなくていい。わからなかったら勘で埋めずに空欄のままにしてくれ。はい、始め」
試験は全てマークシートだ。
過去問にも当然マークシートがついているが、採点が大変だからという理由で、問題に直接印をつけていく。
ユーリが問題を解いている間、フレンはその正面に座りながら、ノートパソコンを開いていた。
夏休み間近のこの時期、提出期限が近いレポートを抱えていた。
焦るほどではないが、時間があるならやっておきたい。
邪魔してはいけないと控えめにキーボードを叩いていると、ユーリは僅かに顔を上げた。
「あ、すまない。気が散るかい?」
目が合って、ノートパソコンを閉じた。
他にやることがなくなって、問題を解くユーリをぼんやり眺める。
途中、ちらりと顔を上げられ、よそ見しない、と注意だけはした。
「うん、なるほど」
解き終えた問題を見せてもらう。
附属の解答は特に見ずに、その場で採点をしていく。
全て答え合わせを終えて、点数を書く。
合格点は全教科40点以上。
もう少し余裕を見て、60点くらいはいつでも取れるようにしておきたい。
「国語と英語は大丈夫そうだね。世界史、日本史、現社も悪くない。生物と科学はもう一歩、ってところだね」
「数学は……」
「……11月まで頑張ろう、ユーリ」
古典に不安は残るものの、読解力はある。現代文は問題ないだろう。
英語ができる、というのは意外ではあった。日常的に使う機会があるのだろうか。
世界史、日本史、現代社会は、有名どころだけは押さえてある、といった感じだった。
生物と科学はもっと狭い範囲だけなんとか覚えているようだ。
数学だけは、公式を覚えて数をこなすしかない。
フレンをはじめ、他の学生がそうしてきた年月、製菓だけをして過ごしてきたのだ。
仕方がないと言えば仕方がない。
「大丈夫、なんとかなりそうだよ」
「さすが帝都大生。完璧に教える自信がある、って?」
「いいや。君を信じているんだよ」
大丈夫だ。彼はできる。
時計を見れば、午後一時をまわっている。
昼食も食べずにいたから、お腹が空いてしまっていた。
「遅くなってしまったけど、昼食にしようか。近くにファミレスがあるんだけど、そこでいいかな」
「おー、なんでもいい」
連れ立って近くのファミレスに立ち入る。
図書館より数段きつい冷房に、小さく体が震えた。
案内された席に座りメニューを広げ、ランチメニューを見て、よしと呟いた。
「決めた」
「即決かよ。俺は、っと」
ユーリがランチのハンバーグセット、と言えば、フレンもそれと同じだと笑う。
結局同じものを二つ頼んで、それが来るのを待つ。
入った頃には混み合っていた店内も、昼食の終わり時で徐々に人が減る。
つい先程のユーリの数学レベルを思い出す。
小学校の範囲はさすがにできるだろう。
中学数学で半々、といったところか。
何か問題集の配布がないだろうか、とスマートフォンで検索する。
「何してんだ?」
「君用の問題集がないかと思ってね」
運よく、問題を無償で提供しているページを見つけた。
これくらいの問題数があれば、教えるのに苦労しないだろう。
あとはこれを印刷する場所だ。
研究室のプリンターならほぼ自由に使える。
私的利用は不可とされているが、この際大目に見てもらおう。
そのページを研究室のパソコンに転送して、スマートフォンを鞄にしまいこんだ。
「数学以外は覚えるだけだから、問題をこなしていけばできるだろう。数学は少し念入りに、時間をかけてやりたいんだけど、いいかな」
「嫌だ、つってもやるしかないんだろ?」
「嫌だと言うなら無理矢理やらせるけどね」
おっかねえな、と笑い合っているうちに注文した料理が運ばれてくる。
ユーリは傍らのカトラリーボックスからフォークとナイフを二組取り出し、それぞれの前に置いた。
「ありがとう」
そう言いながら、タバスコに手を伸ばす。
「まさか、それかけるのか? ハンバーグに」
「おかしいかな?」
ハンバーグの上でタバスコの瓶を逆さにするフレンを、ユーリはただ驚いたように見つめる。
「……かけすぎじゃないか?」
「そうかな?」
いつだったか、研究室の面々で食事をした時も、味覚が変だと言われたことがあった。
最終的にそれは好みの問題ということで納得してもらったが、やはり変なのだろうか、と今更不安になる。
「本当は、この上にヨーグルトをかけると美味しいんだけど」
フォローのつもりでそう言うと、ユーリはまた手を止めて絶句した。
数回聞き返され、タバスコをかけた上にヨーグルトをかけるのが好きだ、と数回説明して、ようやく話が通じた。
話は通じたが、ユーリは複雑な表情をしていた。
「なあ、俺がつくったやつ、どうだった」
「お菓子のことかい? 美味しかったよ」
そう伝えると、ユーリは曖昧に笑う。
本当に美味しかったのだ。
他人の料理や市販のもので美味しいと感じたのは久しぶりのことだった。
昼食を終えて大学に戻り、図書館ではなく研究室に向かう。
落ち着かないのか、ユーリはしきりにあたりを見回していた。
揃って研究室に行ってみれば、レイヴン以外は誰もいない。
そのレイヴンも、ソファーに横になっていた。
「このおっさん、起こさなくていいのか?」
「いつものことだから。お疲れだろうし、そのまま寝かせてあげて」
言いながらフレンはパソコンと、それに繋がれたプリンターを起動する。
パソコンで先程転送した問題集を呼びだすと、それを全て印刷し始めた。
時間がかかるだろうから、とコーヒーを用意すれば、ユーリはミルクと砂糖を入れてカフェオレにする。
甘いものが好きなのだろう。
高校に入らずに、あるいは高校を辞めてもその道に進みたいと思うほど。
絶え間なく印刷される問題と、パソコンに表示される残りページ数を交互に眺めていると、ソファーの上に横になっていたレイヴンが体を伸ばした。
「おはようございます、先生」
「あー、フレンちゃん。そっちの子は? 女の子?」
寝起きでぼーっとしているのか、髪型だけ見てそう判断したようだった。
見た目に疎いフレンにはよくわからないことではあったが、ユーリの見た目は一般的に言う『美人なイケメン』らしかった。
だが女性に間違えられて嬉しいわけではないようで、ユーリは僅かに眉根を寄せた。
「男ですよ。この間のお菓子、彼がつくったんですよ」
その言葉に、ユーリとレイヴンは思わず見つめ合った。
二人の考えていることはなんとなくわかる。
あのあとレイヴンは、このお菓子つくってるのどんな子なの、かわいいの、としきりに聞いてきた。
「人って見かけによらないもんねえ」
「あの菓子、どうだった? おっさん、食ったんだろ」
「ユーリ。先生にそんな」
曲がりなりにも帝都大の准教授にそんな口調、と咎めようとするが、レイヴンはそれを軽く制した。
「美味しかったわよ。おっさん甘いもの苦手だけど、あれは美味しかったわ」
「なら良かったよ」
二人が話している間にフレンはレイヴンの分もコーヒーを淹れ、それをソファーまで持って行った。
頭を掻きながらあくびをするレイヴンに、コーヒーを渡す。
「あんがと。フレンちゃん、なにあれ。印刷?」
「はい。中学数学の問題集を」
「何それ。ってかそれ、私的利用じゃない。いっけないんだー」
「偉大な先生のやり方を真似させて頂いてるんです」
そう告げれば、レイヴンは押し黙った。
普段、彼が私的に利用していることは知っていた。
といっても、レイヴンは一応は准教授で、それが研究のために必要、と言ってしまえば何であっても私的利用にはならないが。
間もなく、プリンターが印刷完了を告げる電子音を鳴らす。
それを手に取り、単元ごとにまとめて、数枚ごとにホチキスで止める。
「はい、ユーリ」
薄いながらも冊子が大量にできあがった。
「中学からやり直すのがいいと思ってね」
「おー」
ユーリは問題を眺めては、時折難しい顔をする。
予想通り、解けそうなものと解けなさそうなものが半々だったらしい。
中学ですらこの程度かよ、と小さく自嘲した。
「こつこつやっていこう。11月までまだ時間はある」
若いっていいわねー、とコーヒーをすするレイヴンを尻目に、研究室を後にする。
図書館に戻り、午前中の問題解説と、中学数学と向き合った。
それからというもの、暇を見つけては勉強会を開いていた。
勉強と言っても、本格的に教えているのは数学だけだ。
それ以外はひたすら問題を解き、間違えたところを解説する。
ユーリは要領が悪いわけではない。むしろ良い方だ。
復習もした方が良いのだろう、とわざわざ本屋で問題集を買って、家でもこなしているほどだ。
結果が目に見えて、教えていて気持ちがいい。
夏休みが明けるとフレンはゼミで忙しくなり始め、勉強会の機会は減った。
ここまでできればあとは過去問をひたすら解いていけば大丈夫だろう。
受験日である11月に入る頃には、勉強会はほとんどなかった。
最後に会ったのはいつだったか。最後に交わしたメールは10月の後半だ。
ゼミが忙しくて、就職説明会もあって、なかなか時間がつくれなくてごめん、という短いメールを送ったのが最後。
せめて最後に確認の意味でも勉強会をしたい、という願いは叶わないまま、試験日を迎えた。
試験日に、なんとかなったと思う、という短いメールが来て、おつかれさま、と更に短い返信をしたのは、試験日から二日後のことだった。
思っているよりも、フレンは忙しかった。
少しくらい顔が見たい、と思い店に行っても、その時間には既に営業時間が終わっていることばかりだった。
試験まではシフトを減らしてもらっていたが、試験後はこれまで通りに復活させたから、大抵店にいると思う、とメールをもらったのに。
研究室に追われていると時間が過ぎるのはあっという間で、12月の結果発表はすぐにやってきた。
あれだけ頑張っていたのだから、合格しているだろう。
その希望は、受かった、という短いメールで叶った。
おめでとう、と返信しようとして、思い留まる。
直接言いたい。おめでとうと送ってしまえば、それで終わってしまう。
もう会う理由がなくなる。
会いたい、と思っている自分自身に驚いた。
それから、合格祝いにプレゼントも用意したい。
甘いものが好きだから、甘いものがいいだろう。
だが、彼の口に合うだろうか。好きだからこそこだわりは強いはずだ。
ならば、彼の店のものなら間違いない。
自分でつくったものを自分自身に送られる、というのは不思議に思うだろうか。
直接行く時間がないからと、店に電話をかければ、若い女性が応対した。
「プレゼントを贈りたいんです。何かおすすめはありますか?」
そう聞けば、彼女はキャンディブーケを薦めてきた。
プレゼントにはちょうどいいかもしれない、とそれにする。
「受取日は……ええと……」
スケジュールを確認する。
25日は少しばかり余裕がありそうだ。
「25日でお願いします」
その日がクリスマスだ、と気付いたのは、電話を切ってからだった。
予想に反して、25日もいつも通りに忙しなかった。
店は九時には閉まってしまう。
八時過ぎ、店から一度電話が来たが、出ることもできなかった。
八時半をまわってようやく落ち着き始め、レイヴンに無理を言って抜けさせてもらう。
デートかい、というからかいに応える余裕もなかった。
今までにないほど必死に自転車を飛ばして、店についた頃には九時を五分過ぎていた。
シャッターは閉まっていないが、照明は落とされている。
自動ドアの電源も切られているのか、ガラスのドアは開かない。
キャンセル扱いになってしまっただろうか、と店を覗き込んでいると、奥から長い黒髪が現れた。
仕事のあとだからか、髪は解いている。
彼はフレンに気付くと、手動でドアを開けて、店の照明をつけた。
「遅かったな」
「すまない、思ったより忙しくて……予約はキャンセルになってしまっただろうか」
「いや。俺が引き止めといた。ちょっと待ってな」
一度奥に引っ込むと、キャンディブーケを持ってすぐに出てくる。
可愛らしい色であしらわれたそれは、持って帰るのはさすがに恥ずかしい。
「お前からの注文だったからな。サービスしといた」
「ありが……君がつくったのかい?」
「ああ。彼女にやんのか?」
それの代金を払って、ブーケを受け取る。
彼がこれをつくったのなら、それを彼に渡すのはいかがなものだろう。
とはいえ、これは彼のために頼んだものだ。
今しがた受け取ったばかりのそれを、彼に差し出した。
「ん?」
「君になんだ」
「……は?」
男相手にブーケを差し出す、という光景は傍から見れば異様だろう。
さすがのフレンでもそれはよくわかっていた。
「合格、おめでとう」
それでもブーケを渡せば、ユーリは小さく呻った。
「彼女にだと思って、気合入れてつくっちまったじゃねーか」
「いないよ、そんな人」
僅かに頬を赤らめながら、ユーリはやっとブーケを受け取った。
よく見ればハートのオブジェまでついているそれは、確かに不釣り合いだった。
「大体、お前のおかげで合格したのに、お前からプレゼントっておかしいだろ。俺がお礼を送るならともかく」
「そんなことないよ。がんばったのはユーリじゃないか」
「けどな」
突然、何かを閃いたように、ユーリは声を上げた。
「なら、半分ずつにするか。これ」
「いいのかい?」
「いいんだよ。俺がつくったんだし。……っと、その……」
俯いて口籠るユーリを覗き込む。
先程よりも更に赤くなっているように見えた。
「俺の家、来るか?」
「でも、散らかっているんじゃないのか?」
「片付けたよ。年末だから」
「じゃあ、お邪魔させてもらうよ」
ユーリの着替えを店の外で待つ。
すぐに、普段着に戻ったユーリが出てきた。
フレンの荷物とユーリの荷物を自転車の籠に入れて、自転車を押しながら歩く。
ユーリは、ブーケだけは自分で持つ、と言って大事そうに抱えて離さなかった。
十分ほど歩けば、いかにも一人暮らし用の小さなマンションについた。
「どーぞ」
「お邪魔します」
明日も研究室に行く用事があったが、これまでと違って行く行かないは自由で、自己責任になる。
午後から行けばいいか、と少しばかりの怠慢を決めて、部屋に足を踏み入れた。