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ふりゆくものは

※稲姫が報われない。純粋に真田夫婦が好きな方は注意。

弟に恋をしている。
それは報われないことだとわかっていても。
我が家の家庭環境は少々複雑で、父は私たちが幼い頃に病死、母は女手一つで私たちを育てた。
私たちは助け合うことを求められ、喧嘩などしている暇はなかった。
そうでなくても、私たちは喧嘩などしなかっただろうし、お互いに助け合っていただろうが。
いつも二人一緒にいることは当たり前になっており、それは大学生になり、社会人になっても変わらなかった。
生活が安定し始めた矢先、母が不慮の事故でこの世を去った。
残された私たちは当然のように残された家に住み、またしても助け合う生活だった。
そうなる頃には、弟に抱いていたはずの『愛情』は『恋』に成り下がっていた。
弟に恋をしている、と自覚してからしばらくが過ぎた。
同居している相手に対してしんしんと降り積もっていく想いを隠すのは簡単ではなかった。
だが相手は男で、それも実の弟だ。
信頼されていると自負している。
その一線を越えられるわけがない。
弟は拒まないかもしれない、と思えてしまうから、余計に越えたくない。
重役のコネで入社したと噂の後輩を上司に勧められたのは、そんな時だった。
仕事もできて、顔もいい、そこそこの年齢でありながら恋人の一人もいないとは、と告げられた。
彼女はコネ入社とは思えないほど優秀で、女性にさして興味のない私から見てもそう思うほどに美人だった。
彼女の名前を稲といった。
酷い話だが、私は弟への想いの隠れ蓑として、稲と付き合うことにした。
私自身、彼女のことは嫌いではなかった。
彼女も私をそれなりに好いてくれているのだから、これは傍から見れば普通の恋人同士と何も変わらないはずだと言い聞かせながら。

稲と付き合い出してから数年が過ぎた。
私と稲にお互いを勧めた件の上司は、ついに結婚の話を持ち出してきた。
稲のことは好きだ。
だが結婚するならば、弟とは離れざるを得ない。
私は、稲よりも弟が大事だった。
我ながら酷い男だと思った。
とある休日、最後のデートにするつもりで、稲と出掛けた。
「すまない。別れてほしい」
「信之様……」
夕食に、と立ち入ったレストランで、周りの目も憚らずに頭を下げる。
稲は驚いてはいたが、怒りはしなかった。
心優しい彼女が怒ったところなど、何度も見たためしがない。
「理由を、お聞きしても良いですか?」
彼女の声が震えていた。
気丈な稲が泣き出しそうな顔をしているのかと思うと、顔を上げることすらできなかった。
「稲、あなたのことは好きだ。だが私は、弟が大事だ。あなたを『一番大事な人』にすることは、できない。『一番好きな人』は、あなたではない」
すまない、ともう一度繰り返す。
すると、頭上から小さな溜息と、小さく笑う声が聞こえた。
やっとの思いで顔を上げれば、目に涙を溜めてはいるが、まだ流してはいない彼女がいた。
「知っていました」
寂しそうに笑う。
そんな顔をさせているのは、他でもない私だ。
「弟の話をするあなたはとても楽しそうで、その弟が大好きなのだとよく解りました。もしあなたの目が私だけを見つめてしまったら、それはとても嬉しいことですけれど、どこか物足りなく感じます」
稲は氷だけが入ったグラスをストローで軽くかき混ぜた。
からん、と氷が転がる音がする。
「稲は、弟を大好きなあなたが好きです。ですから、どうかお傍に置いては頂けませんか?」
「稲……」
優しい人だ。私には勿体無すぎるほどに。
私は先程上げたばかりの頭を、もう一度深く下げた。
「稲。私と結婚してくれ。私は愚直で酷な男だが、あなたがそれで良いのなら。もし私があなたにとって不要になれば、私は潔く身を引こう」
「……信之様」
指輪も用意していない。
それどころか、つい数分前に別れを切り出した男の言だ。
巫山戯るなと水をかけられても何も文句は言えない。
それなのに、彼女は小さく頷いた。
「はい。不束者ですが、どうぞよろしくお願い致します」
私と稲の婚約の話は、すぐに社内中に知れ渡った。
式を挙げるつもりはない。
稲は仕事を辞める気はないようだった。
二人で新居を探し始めれば、その分家に帰る時間も遅くなる。
最近お忙しそうですね、と言われたことをきっかけに、私はついに打ち明けた。
「幸村。私は、もうすぐ家を出て行く」
夕食後の洗い物をしていた幸村の手が、一瞬だけ止まる。
しかしすぐにまた手を動かし始めた。
「稲と、結婚することにした」
おめでとうございます、と幸村は笑う。
心から私を祝福している。
幸村が笑いかけるこの瞬間も、私は幸村に嘘をついている。
この祝福を心から喜べないこの瞬間も、私は稲を傷付けている。
「しかし、それならば私が出て行くべきではないですか」
「いや、いいんだ。お前はここにいればいい。それに、もう新居も決めてしまった」
正直、この家にいるのは耐えられない。
幸村がいなくなった後もここに住み続けるなんて、とてもできそうにない。
ここには、思い出がありすぎる。
嘆き、悲しむことになるであろう日々を思えば、新居が決まったと嘯く方がましだった。
「では、お言葉に甘えて。しかし、寂しくなりますね。兄上がいらっしゃらないと、この家が広く感じそうです」
幸村は嘘を吐かないから、それはきっと本心なのだろう。
その言葉だけで、私は幸せだった。

二人では広すぎる新居に移り住んで、間もなく一年になる。
件の上司は、子供はいないのか、などと言ってくるが、こればかりはどうしようもない。
今は私にも稲にも、その気はないのだから。
かと言って、夫婦仲は悪いわけでもない。
むしろ、世間的に見れば仲は良い方らしい。
未だ弟への断ち切れぬ思いを抱きながらも、緩やかな日々を過ごしている。

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