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そして物語は回帰する

2

「シオン、昼だぞ」
そう呼ぶ母さんの声に、本から顔をあげる。
もうそんな時間か。
時計を見ると、昼の12時をまわったところだ。
読んでいた本に栞を挟んで、部屋のドアを開ける。
「みんな、ご飯だ。行こう」
声をかけると、部屋の中で横になっていたハムレット、クラバット、ツキヨが起き上がって、尻尾を振りながらついて来る。
母さんの料理は最高だ。
僕も、犬たちも大好きだった。
ダイニングに行ってみると、母さんは若い犬に『待て』を教えているところだった。
母さんのしつけは上手だ。
ハムレットたちも、半分は母さんにしつけてもらったようなものだった。
それを横目に、用意された食事をかきこむ。
早々に自分の食事を終えて、子犬たちにミルクをあげる。
うちは大家族だから、食事の時間というのは大変だ。
それでも毎年のように子犬が産まれて、母さんはそれを全部面倒みる、と言う。
犬は増える一方だけど、嫌じゃない。
僕はずっと彼ら兄弟のように育ってきた。
はじめは犬たちには名前がなかったが、ハムレットたちよりも若い犬には、勝手に呼び名をつけた。
これだけいるのに、名前がないのは不便だった。
一番若いのが、まだ僕の手の中でミルクを飲んでいる、パック、オベロン、ティターニアの三つ子だ。
ミルクを与え終えて、僕は席を立った。
「行くぞ、ハムレット、クラバット、ツキヨ」
呼びかければ、三匹は揚々とついて来た。
「あ、シオン。こいつらも連れてってくれ」
母さんに呼び止められ、ハムレットたちより少し若い二匹を託される。
「わかった。行こう、マクベス、オセロ」
そのネーミングセンスどうにかならないのか、と母さんが呆れたのは少し前の話。
今ではもう慣れてしまったようだった。
「それから、忘れ物」
いつの間にか僕の方が背を追い抜いてしまって、母さんは少し背伸びして僕の頬にキスをくれた。
同じように僕も、母さんの頬にキスを返す。
「行ってきます」
「遅くなるなよ」
「はあい」
六匹の犬を連れて、近くの自然公園へ。
学校がある日は授業もそっちのけで図書館に籠っている。
シオンは図書館に住んでるんだ、とまで言われるほどだ。
けれど学校が終わったあとと、学校が休みの日は、こうして犬たちと遊びまわるのが日課だった。
これが苦だと思ったことはない。遊ぶのは大好きだった。
クラスメイトには、犬と遊ぶ僕の姿は珍しく映るようだったが。
ここには昔、矯正施設と呼ばれる建物があったらしい。
この都市がまだNO.6と呼ばれていた頃だ。
矯正施設の崩壊が、NO.6崩壊の引き金になった、とは図書館から得た知識だ。
僕が生まれて間もない頃の話だ。覚えていない。
母さんや火藍ママに聞いても、教えてはくれないだろう。
昔何の気なしに聞いてみたことがあったが、もう少し大人になったら、と言われただけだった。
そう、確か、ネズミという青年に会った次の日だ。
過去に思いを馳せていると、ツキヨが服の裾を引っ張った。
僕のそばにぴたりと寄り添うのは、いつもツキヨだ。
「ああ、ごめんな、ツキヨ」
他の犬たちも待っている。
走り回って、時折ボールを投げて取って来させる。
休憩を挟みながら遊び続けて、午後四時をまわった頃。
そろそろ帰ろう、と声をかければ、五匹は追いかけっこを中断して駆け寄ってきた。
歌声が聞こえてきたのは、その時だった。
遠くから、かすかに。
風に乗って聞こえてくるのだろうか。
どこから聞こえてくるのか、正確な位置は掴めない。
それに、これは誰の声だっただろうか。
聞き覚えがあるような気がした。
しばらく立ち止っていると、突然ハムレットが駆け出した。
「ハムレット!」
慌ててあとを追いかける。四匹もついて来た。
整備された遊歩道から外れ、土がむき出しの森の中へ。
夕方にもなると、人工光のないこの場所はさすがに薄暗い。
しばらく行くと、木の陰に誰かが立っているようだった。
その誰かに対して、ハムレットは尻尾を振っていた。
ハムレットが懐いている。
誰だ?
回り込みながらその姿を確認すると、恐らく母さんよりは少し年上らしき男がいた。
四年前に出会ったネズミという人に、よく似ている気がした。
「しおん」
名前を呼ばれて、驚いて足が止まる。
声が全く同じだった。
一般的に、人間の記憶は音から消えていくらしい。
けれど彼の声は、鮮明に耳に残って離れないものだった。
その声が、今ここにある。
「ネズミ……?」
「犬が増えたのか」
ハムレットとクラバットとツキヨはあの夜に見ていた。
知らないのは他の二匹だろう。
「マクベスとオセロ。母さんの犬です」
「ハムレットにマクベスにオセロ。シェイクスピアばっかりだな」
「シェイクスピア、好きだから」
「本を読むと眠くなるんじゃなかったっけ」
「もうそんなことないです」
確かに昔は本を読むのが苦手だった。
けれど今では、犬と遊ぶことの次に好きだ。
図書館の本は読みつくしてしまったくらいだ。
住んでる、と揶揄されても仕方がない。
本が苦手だったはずの僕が、本を読むようになったのはきっと彼のせいだ。
おかげだ、というべきだろうか。
「あなた、紫苑と知り合いなんですか」
「おかしなことを言う。俺とあんたは知り合いだろ? 顔見知り程度だけど」
「僕じゃない。再建委員の、白い髪の紫苑です」
そう言うと、彼は押し黙った。
この沈黙が答えだ。
彼は紫苑と何かしらの繋がりを持ってる。
持ってるのに、それを表に出そうとしない。
どういう関係なんだろう、と興味が湧いた。
立場上、紫苑にはたくさんの知り合いがいる。
その中でも、彼は異質だった。
つい観察するように彼を眺めていると、彼は噴き出した。
「紫苑に似てきたな」
「僕が?」
「そうやって無遠慮に、人のこと舐め回すみたいに見るところとか」
半分は火藍ママに育てられたのだ。紫苑と似ていても頷ける。
違うのは、僕はエリートじゃないってことくらいだ。
「紫苑とどういう関係なんですか」
「一言じゃ言い表せない関係、かな」
笑いながら言う。
からかうな、と言うのは簡単だった。
だけどこれはきっとからかいなんかじゃない。
紫苑が時折見つめる空の先。
その空の先にいたのは、この人なんじゃないのか。
「紫苑に会いにいかないんですか」
「俺は見届けるために立ち寄っただけだ。会う必要は……いや」
咳払いをひとつ。
照れたように、彼は呟いた。
「……紫苑は、元気?」
風に消されそうな声。
僕に問いかける気なんてないようだった。
もし聞こえなくて聞き返そうものなら、なんでもないとはぐらかされるだろう。
けれど僕には聞こえてしまった。
耳と鼻には自信がある。
「気になるなら、会いにいけばいいのに」
「会いに行ったら、多少無理してでも元気だって言うに決まってる」
そうだろうな。紫苑はそういう人だ。
自分のことなんて後回しにして、他人を気遣うような人だ。
再建委員は最近は落ち着きを見せ始め、家に帰ることも多くなったと火藍ママが話していた。
「元気だよ。元気だけど」
話すべきか、躊躇う。
家に帰ることも多くなったけど、と火藍ママが表情を曇らせて続けた言葉。
僕が直接見たわけではないし、火藍ママにしか見せていない紫苑を、この人に見せていいのかと。
「元気だけど?」
「……時々、泣くんだって。夜中、飛び起きて」
ネズミは目を見開いた。
信じられない、とも、やっぱり、ともとれる表情だった。
「僕が直接見たわけじゃないから、わからないけど。怖い夢を見たんじゃないかって、火藍ママが言ってました」
飛び起きて、必ずと言っていいほど、火藍ママに縋りつく。
声すら押し殺して、唇を噛み締めて泣くのだと。
目を閉じて、耳を塞いで、そうしたかと思うと両手を見つめて、震えて。
僕ですら、そんな紫苑は見たことがない。
僕の知る紫苑は、迷うことがあっても毅然として、堂々とした人だ。
「きっと、まだ背負ったままでいるんだな。当たり前か、俺が背負わせたんだ」
「背負わせた?」
「あいつが……あいつと俺が、16の時のことだ。今のあんたと同じくらいだ。俺が、あいつを巻き込んで、背負わせてしまった。赦されたいとは思ってないさ。まだそうして夢に見るくらいだ」
ネズミは、きっと知っている。
16年前、この都市で何があったのか。
今は公園になったこの場所に、何があったのか。
紫苑に何があったのか。
母さんや火藍ママが教えてくれなかったことを、教えてくれるのかもしれない。
僕が、あの夜よりも大人になっているなら。
ツキヨが、僕の服の裾を引っ張った。
「ああ、そうか、帰らなくちゃ……」
こんなところで帰れない。
僕はしゃがみこむと、犬たちを撫でた。
「みんな、ごめん。マクベスとオセロを連れて帰ってくれ。それから母さんに、僕は遅くなるって伝えて。頼むな」
ハムレットとクラバットは、わかった、と一鳴きすると、マクベスとオセロを連れて駆けていった。
ツキヨだけが、やっぱりここに残った。
そうか、お前は一緒に聞いてくれるのか。
改めてネズミに向き合うと、彼は小さく鼻を鳴らした。
教えてほしい。ありのままの、真実を。
「真実が気持ちが良いとは限らないぜ。むしろ大抵の場合、真実のほうが残酷だ」
そうしてネズミの口から、真実が紡がれた。
いつかの寝物語のように、しかし寝物語より残酷な真実が。

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