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そして物語は回帰する

1

九月七日。
ぼくの12歳の誕生日。
といっても、本当の誕生日じゃない。
ぼくは生まれた日がわからないらしい。
覚えてないくらい小さいときに、誕生日がほしい、とねだったそうだ。
するとママが、じゃあ九月七日だ、と決めてしまった。
毎年この日になると、ママがごちそうをつくってくれて、火藍ママはケーキを焼いてくれる。
火藍ママのケーキはすごく美味しいって、ママも大好きだと言っていた。
12歳の誕生日のこの日、ママはぼくに子犬をくれた。
こいつらを育ててみろ、と。
白と、茶色と、黒い子犬。
まだやっと目が開いたくらいの、本当に小さな子犬。
名前は、ハムレット、クラバット、ツキヨ。
ぼくがつけたわけじゃない。ママが教えてくれた。
どうしてこの名前なのか、と聞いても、ママは教えてくれなかった。

夜。
数時間前から突然の嵐になり、雨風が窓を叩く音で目が覚めた。
柔らかいタオルの上で眠る三匹が起きてしまわないか心配しつつ、なんとなくベッドから降りて、窓際に立つ。
窓が割れてしまうんじゃないか、と思うほど、激しく叩きつける。
直接体に当たったら痛いんだろうな、とぼんやり考えていた矢先だった。
突然、窓が開いた。
「わっ、うわあっ!」
どうしてそんなことになったのか、まるでわからなかった。
室内環境警報音が鳴り響く。
家の中も濡れてしまうし、子犬たちが風邪を引いてしまうかもしれない。
慌てて踵を返し、警報を解除して窓を閉めた。
窓が閉まる音がする。
「誤作動かな……」
そう呟いて振り返ると、そこに突然の人影。
「う、うわあっ!?」
思わず腰を抜かしそうになった。
ぼくよりずっと背が高い。
大人の男の人のようだった。
けれどびしょぬれのその人は、なんだか子供のように見えた。
「悪いね。一晩泊めてくれる?」
「え? あの……」
大きな声じゃないのに、よく通る声。
その声に目が覚めたのか、子犬のうちの一匹が動き出した。
「あ、ハムレット!」
その人の横を通り過ぎて、タオルの上から降りてしまったハムレットを抱きかかえる。
通り過ぎる瞬間、ハムレット、とその人は小さく呟いた。
「起きちゃったのか。お腹すいたのか?」
そういうわけではないらしい。
遊んでほしそうに、ぼくの顔をぺろぺろ舐め始めた。
「だめだよ、今は遊べないんだ。ほら、おやすみ」
タオルの上に戻しても、完全に目が覚めてしまったのか、横になる気配すらない。
ハムレットがこんなに暴れては、そのうちほかの二匹も起きてしまうかもしれない。
少し遊べば疲れて眠るだろうか、と思い始めたときだった。
いつの間にかぼくの横に並んでしゃがんでいたその人が、歌い始めた。
優しい声の、優しい歌。子守歌だった。
ハムレットはすぐに目を閉じて、ゆっくり眠りに落ちていった。
思わず、その人を見上げる。
この距離になって初めてわかった、グレーの瞳。
暗い中でもはっきり見える。
「紫苑……?」
その人は、ぼくの名前を呟いた。
「ぼくのこと、知ってるんですか?」
「いや、知らないな」
「だって今、ぼくの名前を呼びました」
「へえ、『しおん』っていうのか」
笑った。花が咲くような、ぱっとした笑顔じゃない。
けれど本当に嬉しそうな、上品な笑顔だった。
「花の名前?」
「ぼくを拾ってくれた人の名前。ママの友達なんだって」
再建委員の中心人物である、白い髪の彼を思い出す。
目の色が似ている、と何度も言われた。
最近は会う機会もめっきり減ってしまった。
「ふうん、あの時の……」
「あのとき?」
「いや。歳は取ってみるもんだな」
そういえばこの人は、ママよりも少し年上に見える。
今話題にあがった彼と、同じくらいなんじゃないだろうか。
「ハムレット、っていったっけ。こいつ。残りの二匹は、クラバットとツキヨ?」
「すごい! どうしてわかるんですか?」
「エスパーだから」
普段なら到底信じられない話だ。
けれど、この人はハムレットを簡単に寝かしつけて、ぼくの名前も知っていて、クラバットとツキヨの名前も言い当てた。
本当にエスパーなんだ、と心が躍る。
「それより、タオルを貸してくれる? あとできれば温かいココア。凍えそうなんだ」
「あ、はい!」
見れば、その人はびしょぬれのままだった。
風邪を引いてしまう。
ぼくは言われたとおりにタオルとココア、床を拭くための雑巾を取りに行こうとした。
部屋から出ようとして、足が止まる。
「ん? 何だ?」
「あなたの名前、聞いてない」
「ネズミ」
ネズミ。
声には出さずに反芻する。
なぜだろう、ずっと昔にその名前を聞いた気がした。

部屋に戻ってみると、ネズミは床に座って子犬を眺めていた。
犬が好きなのかな、とその隣に座ってみる。
「タオルとココア、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
ネズミは纏っていた布のようなものと、上半身の服を脱いで、ベッドの柵に干すようにかけた。
「明かりはつけないのか?」
「ハムレットたちが起きてしまうから」
「暗いと見えないだろ」
「そんなことないですよ」
暗いのには慣れていた。
最近は環境も整ってきているけれど、小さかった頃は、ぼくは電気もまともにないようなところで暮らしていたから。
明かりがない中、月の明かりだけで晩ごはんを食べる、という思い出も、僅かばかりある。
ネズミがココアを飲む間、ぼくは濡れてしまった床を拭き始めた。
相変わらず、激しい雨風が窓を打つ。
「しおん。おーい、しおん」
「え? あ、ぼく?」
「今ここに、他にしおんがいるか?」
そうだ、ここにはぼくと、ネズミと、寝静まっている子犬たちしかいない。
『シオン』と呼ばれたら、間違いなくぼくのことだ。
けれど、彼が呼ぶ『シオン』は、ぼくではないような気がした。
「こいつら、なんでこういう名前なの?」
「ハムレットとクラバットとツキヨ?」
「まさか朗読が好きだから、とか言わないよな」
「由来はよくわからないんだ。ママがつけた名前だから」
「ママが、ねえ……」
からかうような言い方ではなかった。
どこか懐かしむような言い方。
彼の母親でも思い出しているのかな、くらいにしか思っていなかった。
「ハムレットは読んだ?」
「あ、ぼく……」
つい目を伏せる。
すると、彼まで複雑そうに顔を歪めた。
「芸術関係は奨励されてない、か」
「いや……ぼく、本読むの、得意じゃないんだ。眠くなってしまって」
同級生の中には、古典は全部読んだ、というものもいる。
そんな中で、古典芸術を何一つも知らない、というのは、少しばかり恥ずかしかった。
そう告げると、彼は小刻みに肩を震わせた。
押し殺しながら、笑っていた。
「わ、笑った! ばかにしないでください!」
「悪い、ばかにしたわけじゃないんだ。でも、いや……っくく」
思わず口を尖らせる。
床を拭き終えた雑巾を隅に置いて、ネズミの隣に同じように座り込んだ。
「さっき窓を開けたのは、あなたですか?」
「まさか。オートなんだろ。外からじゃ開けられない」
そうだ。窓の開閉はスイッチがなければ開けることはできない。
オートさえ切っておけば手動で開閉もできるけれど、ぼくはオートを切った覚えはない。
「なら、あんたが開けてくれたんだろ」
「そんなことしてないです。そんな不用心なこと」
そうだよなあ、とくつくつと笑って、カップを口に運ぶ。
不思議な人だと思った。
窓から入ってきたのに、怪しい人だという感じはしない。
ネズミは今上半身裸で、それは紛れもなく男の体なのだけれど、時々女みたいに見える。
カップを持ち上げるときや、髪をかき上げるとき。
整った顔と切れ長の目が、女っぽく見せているのかもしれない。
窓を開けたのがネズミでないなら、どうして窓が開いたのだろう。
「招かれたんだよ。神様とかにさ」
「開閉スイッチの異常ですよ。機械に神様なんていない」
そう言うと、ネズミはまた肩を震わせた。
押し殺しきれない声が、口の隙間から洩れる。
「ぼく、変なこと言いましたか? そんなに笑うほど?」
そう聞くと、更に笑う。
意味がわからなかった。
真面目に答えたのに笑うなんて、失礼な人だ。
「悪かったよ、しおん」
名前を呼ばれたはずなのに、やはり自分の名前だという気がしなかった。
そもそも、ネズミはどうしてぼくの名前を知っていたのだろうか。
「しおん、って誰?」
「は? 何言ってんだ」
「ネズミが呼ぶ『シオン』は、ぼくじゃないみたいだ」
最初に名前を呼んだ。ぼくと誰を間違えたの。
ネズミは口の端を吊り上げた。
おもしろい、とでも言うように。
「そうだな。俺にとっての『しおん』は一人だからな。誰でもない、たった一人の相手だ」
だから他のしおんはどうしたってちゃんと呼べない。
そう言ったネズミの話はわかりづらかった。
「再建委員の紫苑と、関係あるの」
「さ、どうかな」
グレーの瞳が一瞬だけ揺らぐ。
ママの友達の紫苑。再建委員の紫苑。
時々、窓を開けて、何かを待つみたいに遠くを見つめてた紫苑。
紫苑が待っていたのは、もしかして。
聞こうと思ったけれど、口を開けば自然とあくびが出た。
「ほら、お子様は寝る時間だ」
「うん……」
日付が変わる、僅かに手前。
普段であればとっくに夢の中だ。
でも、ぼくは今日、12歳になった。
夜更かしも少しは大人の証拠だ。
ネズミは一晩泊めてくれと言った。
話の続きを聞くのは明日でいい。
ベッドに潜り込むと、ネズミはその傍らまでついてきた。
ぼくの頭に、軽く手を添える。
「読んでやろうか、寝物語に、ハムレット」
本もないのにどうやって、と言うより早く、ネズミの口から物語が紡がれる。
覚えているのか、そらんじているようだった。
そこにはネズミ一人しかいないのに、何人もいるかのようだった。
こういう話だったんだと初めて知った。今度ちゃんと本を読もう。
もっと聞いていたいと思うのに、瞼が言うことを聞かない。
「おやすみ、ぼうや」
最後に聞いたのは、優しい女のような声だった。

翌朝、目が覚めたとき、ネズミはどこにもいなかった。
ココアのカップはテーブルの上に置いたまま。
ネズミの体を拭いたタオルと、どういうわけか床を拭いた雑巾も一緒になくなっていた。

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