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あるがままに

 シンのお誘いはいつも唐突だ。一言目に『今何してる』で、二言目には『今から来い』だ。それが嫌なわけではない。呼び出された先で不愉快な思いをしたことは一度もなかった。むしろシンの呼び出しはいつも未知の衝撃を与えてくれるから、待ち望んですらいた。
 その日も夕飯を終えたタイミングで突然の連絡があり、指定されたポイントまでバイクを走らせる。マップに立てられたピンだけを頼りに、周囲に何があるのかは全く調べずに来てしまったが、辿り着いたのはとある高級ホテルだ。ここにターゲットでも潜伏しているのか。あるいはホテルを指定したのは隠れ蓑で、別の場所が目的地なのか。
 駐車場にバイクを停めると同時に、入口で待ち構えているシンが目に入った。シンもまた私に気が付くと、こちらに数歩近付いてきた。ヘルメットを外しながらそちらへ駆け寄っていく。
「早かったな。そんなに俺が恋しかったか?」
「まあね。何かあったの?」
 シンが私の手からヘルメットを取り上げる。腕を差し出され、いつものようにそこへ手を絡めた。
「バーに行くぞ」
「……バー?」
 予想外の言葉に面食らう。
 コアの取引か。ワンダラーでも出たのか。ところが、シンはそのどちらとも違うと言った。
「ただお前と飲みたかっただけだ。この前、興味がありそうだったからな」
 確かにそんな話をした記憶がある。
 私はお酒は好きだけれど強いほうではないし、酔い潰れても危ないから、一人でそういったところへ行くことはない。外で飲むのは誰かと一緒にいる時だけだ。その『誰か』が大抵シンで、飲む場所はシンの基地か隠れ家なのだけど。
「バイクで来ちゃったよ」
「部屋を取ってある」
 エントランスに入り、煌びやかな照明を見上げる。LEDとはいえ、シャンデリアだ。端には小さな滝と泉まである。臨空で一、二を争うほどの高級ホテルであることはさすがに知っている。上位の部屋なら、一泊するだけでも私が半月は生活できるほどの価格だ。
 フロントの横を素通りし、併設されたバーへを歩みを進める。立ち入る直前でドレスコードに気が付いて思わず足が止まり、シンの腕を引っ張ってしまった。
「私、こんな格好で来ちゃった……」
 いつもの呼び出しだと思っていたから、普段着のまま来てしまった。シンのほうもいつも通りのジャケットではあるが、そのジャケットがドレスコードと呼んで差し支えないほどのものだから大した問題はないのだろう。入店を躊躇っていると、何食わぬ顔をしたシンに腕を引かれた。
「ただのバーだ。それに、俺が隣にいるんだ。気にしなくていい」
 エスコートされるまま店内に踏み入り、そのままカウンターへ着席する。バーテンダーはこちらを一瞥すると、恭しく頭を下げた。
「腹は減ってないか?」
「もう晩御飯を食べちゃったよ。七、八分目ってところかな」
「ならちょうどいい。何が飲みたい?」
 そう聞かれても、おすすめの掲示もなければ、メニュー表もない。マナーも立ち振舞もわからない。不安なままシンを見つめると、その目が僅かに細められた。
 そういえばシンはよく『ジン・フィズ』というカクテルの話をしている。それがどんなカクテルなのかはわからないままだし、飲んだこともない。
「ジン・フィズってどんなカクテル?」
「ほう、バーに来て最初にジン・フィズを頼むのか」
 その言葉に顔が強張る。何かまずいことを言ってしまったのだろうか。
「いけなかった?」
 シンは特に何も言わず、小さく笑いながら首を振る。そのままバーテンダーにオーダーを通した。バーテンダーは手際よくグラスに氷を入れ、続いてシェイカーにも氷、ジン、レモンジュース、ガムシロップを入れて、両手で持って上下に振った。知識と経験の浅い私が『バーテンダー』と言われて真っ先に連想する、あの手順の通りだ。シェイカーの中身をグラスに移し、その上から炭酸水を注いで軽くかき混ぜて完成のようだ。
 シンに促され手に取ってみると、泡の弾ける音がする。同じ手順で二杯目のジン・フィズを作るバーテンダーそっちのけで、用意されたものに口をつけた。
「美味しい!」
「ああ。ここのジン・フィズは美味い」
 どうやらシンのお墨付きだったようだ。製法も味も思っていたよりシンプルだ。シンが気に入るようなカクテルだから、もっと癖があって華美なものかと思っていた。実際は爽やかでほんのり甘いサイダーのようだ。食事をしながらでも飲めそうなくらいだった。
 バーテンダーは二杯目のジン・フィズをシンの前に出しながら、私達のあいだにドライフルーツを出してくれた。小さなフォークにオレンジを突き刺し、口に運ぶ。ジン・フィズとの相性は良いみたいだ。甘みと酸味が心地いい。
「一気に飲み過ぎるなよ」
 こういった大きめのグラスに入れられた、比較的度数の低いカクテルのことを『ロング』という、とシンが教えてくれる。本来は食事をしながらゆっくりと飲むものだ。逆に所謂カクテルグラスに入れられた度数の高いカクテルを『ショート』といい、食前や食後に短時間で飲むものらしい。
 ドライフルーツを口に入れながら少しずつジン・フィズを飲み進めていると、先に飲み終えたらしいシンは次のカクテルを注文していた。一気に飲むな、と言ったのはシンのほうなのに。
「ここ、行きつけのお店なの?」
「いや。何度か来ただけだ」
 シンが『何度か来た』のなら充分に行きつけと言える気もする。彼が縄張りの外で羽を伸ばすなんて珍しい。
「さっき、なんで『ジン・フィズを最初に頼むのか』って言ってきたの?」
「飲んでわかる通り、シンプルなカクテルだ。バーテンダーの腕が試される」
 つまり、私はいきなり、このバーテンダーの品定めをしてしまったのか。そんなつもりはないんです、とカウンターの向こうにフォローを入れると、バーテンダーは何も言わずに穏やかに微笑んだ。
 私がジン・フィズの七割ほどを飲んだところで、シンに次のカクテルが出された。先程と同じく炭酸系のようだ。けれどジン・フィズとは違い、薄い琥珀色のように見える。濁っているというほどではないけれど、ジン・フィズに比べると透明度は低い。
「それなに?」
「ハニートニック。ミードとトニックウォーターを合わせたものだ」
「ミード?」
「蜂蜜酒だ。飲んだことあるか?」
「ない!」
 珍しいものは飲んでみたい。シンと一緒でなければきっと味わえない。けれど私のグラスにはまだジン・フィズが残っている。少しずつ飲み進めながら、シンの腕を軽くつついた。
「どうして私を誘ってくれたの?」
「お前が興味深そうにしてたから、と言っただろ」
「本当にそれだけ?」
 ハニートニックを傾けながら、シンがふっと笑う。間接照明のせいだろうか、いつも以上に柔らかく見えた。
「俺が好きなものをお前にも好きになってほしい。それじゃ不服か?」
 不服なんてあるはずもない。思えば私もシンを散々連れ回してきた。ゲームセンターでクレーンゲームをしたり、ニャンニャンカフェでカードゲームをしたり。図らずも私が好きなものをシンに紹介していた形になっている。シンは今では私が誘う前にゲームセンターに行こうと声をかけてくれることもあるし、ゲットしたぬいぐるみを部屋に並べてもくれる。私が好きなものをシンにも好きになってもらえるのは、確かに嬉しい。
 他愛もない話をしながらようやくジン・フィズを飲み終え、続けて気になっていたミードをオーダーした。そこはシンの口添えもあり、シンが飲んでいたハニートニックとは別のものが用意される。潰したバジルの葉とバニラシュガーをミードが溶かしていき、更にその上からジンジャーエールが注がれる。
「なんていうカクテルなの?」
「アイランドミードだ」
 私の目の前にはアイランドミードと、チェイサーとしてミネラルウォーターが差し出された。確かにお酒ばかり飲んでいては酔いが回りすぎてしまう。チェイサーを一口飲んでから、アイランドミードをゆっくり口に入れる。途端に蜂蜜とバジルとバニラの風味が香った。
「甘いね」
「それはよかったな」
 ジンジャーエールが入っているから辛いのかと思ったが、むしろジンジャーエールがミードの甘さを引き立てているようだ。蜂蜜の甘さが口に広がる。少し甘すぎるかも、と思うほどだ。チェイサーと交互に一口ずつ飲んでいると、バーテンダーは私達のあいだにローストナッツを出してくれた。シンはアーモンドをひとつ手に取ると、今まさにアイランドミードを飲もうとしていた私の口に入れた。木の実と蜂蜜だ。相性が悪いわけがない。美味しい、と目を輝かせると、シンは次々にローストナッツを運んできてくれる。雛鳥にでもなったような気分だ。シンがカシューナッツを運んできたタイミングで、無防備な指先に軽く噛みついた。
「自分で食べられるよ」
「そうか?」
 そうだよ、と子供のように口を尖らせる。
 気が付けば、シンはいつの間にか次のカクテルを飲んでいる。先程言っていた『ショート』のカクテルだ。シンの瞳にも似た深い赤色をしている。興味はあるが、ショートカクテルということは度数も高いだろうし、私には向かないのだろう。でも気になる、と手元を凝視していると、ふとシンに頬を撫でられた。ナッツの欠片でもついていただろうか、と気を取られた瞬間に、近付いてきたシンの唇が軽く触れる。
「お店の中だよ……!」
「違ったか? 物欲しそうな顔してたぜ」
 違わないけど、と口籠る。肝心の味はほとんどわからなかったが、口の中には僅かに甘くて苦いような風味が残っていた。顔が熱くなるのはきっとその赤いカクテルの度数のせいではないのだろう。手で顔を扇いでいると、見兼ねたらしいバーテンダーが、二杯目のチェイサーを出してくれた。

 チェイサーも挟みながらアイランドミードを飲み終え、次は何にしようか、とシンの提案を待つ。甘いものを飲んだから、できればすっきりしたものがいい。シンは私の意図を汲んだようにバーテンダーにオーダーを通し、出てきたものはグレープフルーツがメインのカクテルのようだった。グラスの縁には薄く塩がついている。
「これは知ってるよ。ソルティ・ドッグでしょ」
「ああ。よく知ってたな」
 頭を軽く撫でられ、本当に犬にでもなったような気分になる。
 一口飲んでみると、甘いカクテルを飲んでいた口に塩味が気持ちいい。グレープフルーツの適度な酸味と苦みも口内をさっぱりさせてくれた。
 続いてシンの前にもカクテルが用意される。目立った色はついていない、中に何かが沈んだショートカクテルだ。
「なら、これはわかるか?」
「うーん……」
 よく見てみると、中に沈んでいるのはオリーブだ。オリーブを入れる、ほぼ色のないショートカクテル。ドラマや映画で見たことがあるような気はするけれど、思い出せない。
「……ギムレット?」
「残念。マティーニだ」
 シンはマティーニで唇を湿らせる。
 名前を聞けばさすがにわかる。確か、それなりに度数が高いカクテルだということも思い出してきた。それだけ度数があるにも関わらず、シンは横で少しずつ塩を舐めながらソルティ・ドッグを飲む私を尻目に、あっという間にマティーニを飲み終えてしまった。
 シンが酔うことは本当にないのだろうか。私の視線を躱しながら、シンは次のカクテルを吟味し始める。するとカウンターの向こうでカクテルを作っていたらしいバーテンダーは、失礼します、と言いながらロングカクテルをシンの前に出した。
「頼んだっけ?」
 シンはここでずっと私と会話していたし、そもそも今しがたマティーニを飲み終えたばかりで、バーテンダーに何かを頼んでいたようには思えない。私の疑問に、バーテンダーは目を伏せつつも視線を僅かに横に向けた。シンはそれには答えず、小さく溜息をつくと、カウンターの反対側、バーテンダーの視線の先を横目で見た。シンの更に向こう側、三つ席を開けた先に、妖艶な女性が座っている。まさかこれが、噂に聞く『あちらのお客様から』だろうか。
 透明度の低いオレンジ色のカクテルは炭酸が入っているようで、小さな泡が生まれては消えていく。ほのかにハーブのような香りがする。なんていう名前のカクテルなの、と聞く前に、シンはグラスをそっと押し返した。
「返してくれ。それから、相手にブルームーンを」
 小さく頷いたバーテンダーはシンの目の前からグラスを下げ、続いてシェイカーにジンとレモンジュース、それからバイオレットリキュールを注ぐ。興味が湧いてつい背筋を伸ばして乗り出してしまうが、シンにその肩をやんわりと押し下げられた。
「嬢ちゃん、お行儀よくしてろ」
「……わかったよ」
 バツが悪くなって身を縮こませると、バーテンダーはシェイカーからグラスに移したカクテルの上にレモンを添えた。綺麗な淡いブルーのショートカクテルは、ジンとレモンがメインなのだからきっと爽やかな味がするのだろう。
 バーテンダーはそのブルーのカクテルを女性に出した。私もあれがいい、と言おうとしてシンのほうを見ると、その向こうから女性が憎々しげに私を睨んできた。その視線を遮るようにシンが身を乗り出す。
「見なくていい」
「うん……」
 けれど目を逸らす直前に、シンの向こうにいた女性が立ち上がったように見えた。ハイヒールの音を響かせながら近付いてくる。そして私の真後ろに来た女性の手には、シンが頼んだ青いカクテルがあった。状況を理解するより先に女性がグラスを振りかぶり、更にそれより早く私を覆い隠したシンの髪から青いカクテルが滴る。カクテルをかけられた、と一拍遅れて把握し、血の気が引く。
「シン……! 大丈夫!?」
 理由はわからないが、あの人は私を狙っていた。シンが身を挺して庇ってくれたのだ。
「ああ、ただの酒だ。お前は? かからなかったか?」
 大丈夫、と頬を撫でると、シンは相手の女性を睨んだ。咄嗟にシンの手を押さえる。当たり前だが、機嫌は一気に最悪まで降下したようだ。
「待って……!」
 乱暴はダメ、とどうにか彼を止める。シンにカクテルを浴びせた相手はともかく、ここで暴れたら店に迷惑がかかる。幸いにも、その女性はスタッフに抑えられ、肩を叩かれながら店の外へと追い出された。シンはもう一度、深く溜息をつくと、私を残して席を立ち上がった。すかさずスタッフが厚手のタオルを手渡してくれた。
「洗ってくる」
 そう言ってタオルを片手にレストルームに消えていく。髪も顔も、それにジャケットにもかかってしまった。
 残された私は、一人寂しくソルティ・ドッグの水面を見つめた。シンはなんといってもあの見た目だ。黙っていれば超一級品だろう。口を開いてもその評価が揺らぐことはない。シンに声をかけたくなる気持ちはわかる。けれど彼は常に近寄りがたい雰囲気を出していて、実際に声をかけてくる存在は少なかった。そう思うと、あの女性は肝が据わっていたなと感心する。それに、私が隣にいるのに声をかけてきたのだ。とても恋人同士には見えなかったのだろう。確かに私はシンと比べると目を引くほどの容姿ではないし、ましては今日はこんな服装だ。不釣り合いなのはわかってるけど、あんまりじゃない、と柄にもなく少し落ち込んでしまう。
 もやもやしながらも、話相手のいなくなった私は残ったグラスの中身を飲む以外にすることもない。ゆっくり、けれど絶え間なく飲み続けたせいで、グラスはすぐに空になってしまった。縁に残った塩を指先でなぞり、行儀が悪いとわかってはいたが、その指を軽く舐める。
 シンはまだ戻ってはこない。髪にかかった分が落ちないのか、あるいはジャケットが染みになってしまったのか。
 そのままもう少し待っていると、バーテンダーからショートカクテルを出された。頼んでないけど、と断ろうとしたが、いつの間にかシンが頼んでおいてくれたのだろうか。綺麗な赤色だ。一口飲んでみると、すっきりと甘酸っぱいながらも、思ったよりもとろりとしていた。メインの味はリンゴだろうか。ほのかに柑橘系の香りもする。
 ショートながら少しずつ飲み進めていると、カウンターの端に座っていた男性客が静かに立ち上がるのが視界の端に見えた。男性はそのままこちらに近付いてきて、軽く腕を引かれる。
「行きましょうか」
「え? シンの知り合いですか?」
「いいえ?」
 身綺麗なスーツを着こなした男性は、とてもシンの知り合いには見えない。纏う雰囲気とでもいえばいいのか。見るからに優等生かエリートといった感じで、シンのような危険な男とつるむタイプではないだろう。
「すみませんが、連れがいるので」
「でも、今はいませんよね」
「もう戻ってくると思います」
「ですから、お連れさんのいない今のうちに」
 そっと肩を押され、強引に立たされる。このまま押されたらスツールから落ちてしまう、と思い、咄嗟に床に足をついた。
 この人は何を言っているのだろうか。シンの知り合いですらないなら、私に何の用があるのか。
 頭がうまく働かない。普段なら押し返せるのに、アルコールが入っているせいで力が入らず、それどころか数歩避けたところで足が縺れてしまった。バランスを崩した、という理解が遅れ、体を支えるための手が出ない。転びかけたところで、宙を彷徨っていた腕を強く引かれ、誰かの胸に飛び込むように倒れ込んだ。
「す、すみません……」
 相手の男性かと思って謝りながら見上げると、そこにいたのはシンだった。シンが抱きとめてくれた、といつになくほっとする。シンは私を一瞬見下ろしたあと、相手を睨みつけた。その顔に背筋が凍る。つい先程、女性を睨んだ時とは比べ物にならない。私に触れたままの男性の手を掴むと、そのまま目一杯捻り上げた。
「いっ、痛い、折れる……!」
「シン、ダメ……!」
 さっきのこともあって、怒りはかなり頂点まで近付いているはずだ。それでもこんなところで騒ぎになるのはまずい。それに、今日は楽しくお酒を飲みに来たはずなのだから。
「連れが世話になったようだ」
 シンは低い声でゆっくりと発しながら手を放した。それを温情だと勘違いしたのか、男性はなおも強気にこちらに食ってかかってくる。
「彼女は、あなたより私を選んでくれたようですよ」
「え?」
「ほう、そうなのか」
 シンの冷たい視線が私を見下ろした。この顔を向けられるのは初めてかもしれない。出会った時でさえ、ここまでの空気は向けられなかった。目を伏せたくなるほど怖ろしい。逃げるようにシンに抱きついて、小さく首を振った。
「どうやら勘違いだったようだ」
「ですが」
「これ以上続けるか?」
 シンの纏う空気が更に重くなる。これ以上の発言は許されなかった。
 今回はそれほどのトラブルではないと判断されたのか、スタッフの介入はなかった。ただ男性は肩を落としながら、小さくなって立ち去っていく。
 まさか私が声をかけられることがあるだなんて思ってもいなかった。それとも、私が目的だったのではなく、『シンの隣にいた女』だから狙われたのだろうか。どちらにしても気分のいいものではない。
 男性が店を出てから、シンに支えられながら元のスツールへ座り直す。シンは私の目の前に置かれた赤いショートカクテルを見て、軽く溜息をついた。
「お前、どうして飲んだんだ」
「赤くて綺麗だったから、あなたが頼んでくれたんだと思って……」
 シンが私にショートカクテルを飲ませるわけがないのだ。度数もそれなりにあるし、そもそも何か混ぜられていても不思議ではない。シンがいないところで飲むのは軽率だったのに、酔いが回っていて頭が働かなかった。
「奴の『冒険』は無謀すぎたな」
 シンは私の前のカクテルを遠ざける。すかさずバーテンダーがそれを下げた。そのままシンの手の甲が私の額に軽く触れる。冷たいというほどでもないけれど、少しひんやりとしているように感じる。私の額のほうが熱いのだろう。
「飲み過ぎだ。そろそろ出るぞ」
「うん……」
 足が縺れるくらい飲んだのは、確かに飲み過ぎかもしれない。
 今日はもうやめよう、と言ったのはシンのほうなのに、そのシンは最後に二つのカクテルを頼んだ。シンの前にはパイナップルジュースとジンジャーエールの、上にミントの乗ったもの。私の前には仄かに赤い、シナモンの枝が乗ったもの。横にはミルクポットが添えられている。どちらもノンアルコールのようだ。
「これ、ミルクティーって言うんじゃない?」
「カフェで出ればミルクティーで、バーで出ればカクテルだ」
 そのまま飲んでみると、思ったよりも濃いアイスティーの中に、淡くバニラが香る。たっぷりのミルクを入れてシナモンの枝でかき混ぜてみると、甘く優しい風味に変わった。シンのほうはジンジャーエールが入っているから、すっきりしつつも少し辛味があるのだろう。どちらも酔い覚ましにはちょうどいい。気持ちが落ち着きを取り戻していき、ゆっくりと息を吐いた。
「部屋ってどのあたりなの?」
「最上階だ」
「……スイートじゃないよね?」
「もちろん、スイートだが?」
 確かに以前、泊まるならスイートルームがいい、と冗談めかして言ったけれど。まさか本当にスイートだなんて思わなかったし、スイートルームを取ったことを簡単に言ってのけるなんて。
 これまでハイペースで飲んでいたシンは、最後のカクテルは私のペースに合わせてくれる。その様子にどこか安心しながら、ゆったりと時間をかけて、最後のカクテルを飲み干した。

 入ってきた時と同じように差し出された腕に手を絡めて、バーを後にする。結局合計額はいくらだったのかと聞いてみても案の定教えてはくれない。お前が気にすることじゃないだの、部屋代と合算だからわからないだのと躱されてしまった。
 最上階まで直通の専用エレベーターは高度を上げ、一分もかからずにベルが鳴る。フロアの広さの割に少ない扉の前を通り過ぎ、いくつ目かの扉でシンがカードキーを通した。我先にと扉を開けて室内に飛び込み、あちこちを見回しながら散策を始める。
「スイートルー厶って広いんだね! 床もふかふかだよ!」
 大きな窓からは臨空市内がよく見える。遠くに光るタワーや、川面に反射する街の灯が煌めいている。窓の外にはテラスまである。街を見下ろしながら飲むのも楽しそうだ。街が自分のものになったような気さえしそうだ。
 シンは呆れつつも笑いながらついてきてくれる。私は構わずに、今度はバスルームのドアを開けた。
「ジャグジーまである! すごいね!」
 大きなバスタブの縁に手をついて中を覗き込む。二人で入って足を伸ばしてもまだ余るほどのバスタブだ。お湯を張るのが楽しみ、と胸を踊らせていると、シンが後ろから覆いかぶさるように、私の手に重ねてバスタブの縁に手をついた。耳元に口が寄せられ、吐息のくすぐったさに体を捩る。
「あとで入るか?」
 一緒に、とは言わなかったけれど、彼の口ぶりからその空気は感じ取れる。魅力的なお誘いだけど、やんわりと首を振った。
「今はアルコールも入ってるし、少し休んでからにするよ」
 ホテルには悪いけれど、私服のままキングサイズのベッドに飛び込む。少しひやりとしたシーツは滑らかで肌触りもいい。
「気持ちいいー」
 子供のようにごろごろと転がっていると、すぐ隣にシンが腰を降ろした。その重みの分、マットレスが沈む。
「着替えないと、皺になるぞ」
「脱がせてー」
 半分冗談のつもりで言ったのに、シンは薄く笑いながら私の上に覆いかぶさり、トップスの裾に指をかけた。さっきまで笑っていたのに、その目は今はもう熱を帯びている。
「わかってるのか。俺が選んだカクテルを飲んで、ベッドの上で、その言葉を言ったら最後、どうなるか」
 もちろんわかってる。けれど、これだけ酔っている私相手に何もしないだろう、とも知っている。狡賢いのもわかっている。打算上等だ。
 両手を伸ばすと、シンは体を寄せてくれた。その首を捕まえて、キスをねだる。更に近付いた顔が完全にゼロ距離になり、僅かに開きかけた唇に舌先で触れる。主導権を明け渡さないまま、何度もほしいままに、シンの唇をゆっくりと味わう。けれど、彼だって私にやられっぱなしではない。熱い指先で脇腹を撫でられて、喉の奥が震えて、足がぴくりと跳ねそうになった。これ以上はだめ、と慌てて唇を離し、頭を抱き寄せて耳元に口を寄せる。
「明日、酔いが覚めてからにしない?」
 シンのほうは問題ないのだろうが、私はまだかなり頭がぼんやりと浮かされている。このまま酔いが回ってしまうのもよくない。わかった、と頷きながらも、シンは私の服を引っ張る手を緩めなかった。
「だが、脱がせろ、と言ってきたのはお前だ」
 それ以上の抗議の前に、慣れた手つきで素早く服を奪い取られる。恥じらって体を隠すのと同時に、アメニティとして用意されていた部屋着が頭から被せられた。シーツと同じく、さらりと肌を滑って着心地がいい。
「……しないの?」
「お前は俺を惑わせたいようだな?」
 隣に潜り込みながら、シンは呆れたように、でもどこか楽しそうに笑う。私とシンが並んで寝てもまだ余裕があるのだから、充分に広いベッドだといえる。こんなに密着しなくても、寝ている時にうっかり落ちるなんてことはないだろうに、私は彼の長い腕にしっかりと抱き締められた。
「楽しみはあとに取っておくタチだ」
 額におやすみのキスをされてから、二人揃って真っ白なシーツに飲まれていく。白く柔らかなシーツは、最後のカクテルに溶かしたミルクのようだ。
 スイートは何日くらい取ってあるのか聞いたら、気が済むまで、となんとも豪勢な答えが返ってきた。私もこのあと長く休みを取っているのを見越していたのだろうか。彼には話していなかったのに、とっくに知られてしまっていた。その筒抜け具合も慣れたもので、安心すら覚えながら、腕の中に潜り直して胸に頬を擦り寄せた。
 まだしばらくは帰れそうにない。

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