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ありのままの僕を

星喰みの脅威が世界から去って、数年。
騎士団長代理として務めてきたフレンは、正式に騎士団長になることとなった。
歴代最年少の二十代、しかも貴族の出などではなく、下町出身の叩き上げの騎士団長は史上初だった。
そのせいで、フレンの出身である帝都ザーフィアス、特に下町は大いに沸いていた。
思えばこの数年間で、法はかなり整備されつつあった。
以前に比べれば貧富の差なく、誰もが不自由なく暮らせる時代に近付いている。
結界が消え、魔物が町のすぐ近くを通ることがあっても、決して町へは入らないようにと騎士団が見張っていた。
それら全てがフレンの功績とは言い難いが、それでも下積み時代からフレンをよく知る下町の住民が、フレンを称賛するのは当然のことと言えた。

明日。
明日の式典で、フレンは正式に騎士団長となる。
その前夜だというのに仕事に追われるフレンのもとへ、影が舞い込む。
開け放した窓から彼が入ってくるのはいつものことだ。
フレンはほんの一瞬だけ顔を上げ、彼の姿を見やると、すぐに机の上に視線を戻した。
「また突然だな。どうしたんだ?」
アポなしで、しかも窓から来るなど、一人しか思い当たらない。
机の上に軽く置かれた左手首に、今ではただの装飾品になった魔導器が巻かれている。
ユーリはフレンの頭上で小さく鼻を鳴らした。
「なに、挨拶に来ただけさ」
「挨拶? まさか、騎士団にもど」
「戻るわけないだろ」
思わず顔を上げてみると、食い気味に返される。
夜のような黒と目が合う。
今まで何度も繰り返したやり取りだ。
今更ユーリの気が変わるとも思えない。
ユーリに対して、騎士団に戻るのか、と聞くのは、半ば冗談のようになっていた。
「……だろうな。それじゃあ、何の?」
「騎士団長就任、オメデトウ」
「それはどうも、アリガトウ」
棒読みの賞詞に、やはり棒読みで返した。
しばらく見つめ合って、お互いに噴き出す。
こんなに笑ったのはいつ以来だろうかと、フレンはここしばらくの自分を反芻した。
騎士として、騎士団長としての行動に加え、就任の準備で忙殺され、息つく暇もなかったように思う。
それなのにユーリがいるだけで、こんなに簡単に笑えるのだから。
ひとしきり笑ったあと、ユーリは真面目に目を細めた。
「それから、さようなら」
「さようなら……? どういうことだい? どこかへ行くのか?」
「どこかに行くのはお前だろ。俺の手の届かないところに行くんだ」
今後、フレンは輪をかけて忙しくなるだろう。
今までは時折こうしてユーリが一方的に会いに来ていたが、それすらもできないほどに。
それに、騎士団長の隣に立つべきは、罪人じゃない。
混乱に乗じて、あるいは世界を救った功労として、今のユーリは放免されているが、いつ裁かれるかわからない身の上だ。
状況が落ち着けば、確かな法で裁かれるべきだ。
行く先が牢であっても、地獄であっても。
フレンはユーリの言を理解できなかった。
ユーリの言うことは尤もであり、フレンもいずれはそのつもりだった。
頭では理解していても、別のどこかがそれを拒もうとする。
あるいは理解しているけれど、納得はしていなかったのか。
言葉を失うフレンを見かねて、ユーリは小さく笑った。
「お前には、すぐに俺の代わりが見つかるよ。ほら、あの猫目の姉ちゃんとか、リンゴ頭とかな」
「ああ、彼らは頼りになる。副官、あるいは部下としては申し分ないだろう。けれど、そうじゃないんだ。僕にとっての君は」
フレンにとってのユーリは、副官でも部下でもない。
対等に隣に立てる存在。隣に立ちながら、互いを支え合える存在。
時に競い合って、時に本気で対立する、そんな存在だ。
そんな存在が、ユーリをおいて他にいるはずがない。
「代わりなんていない。僕には、君の代わりなんていないんだ」
付き合いは時間じゃない、密度だ、と言う者もいるが、それでも二十年以上付き合っている時間の長さに勝る密度などそう無いだろう。
フレンにとっては、自分の半身にも等しい存在だった。
それが自ら、消える、と宣言する。
「君はいるのか。僕の代わりが」
「そうだったらどうするよ」
その言葉がフレンを突き放すための嘘かもしれない、とは薄々感づいている。
それでも、いない、と言ってほしかった。
フレンは目を伏せて、ゆっくりと呟いた。
「……悲しいよ。悲しくて、悔しい」
「悔しい?」
「二十年以上連れ添った、もちろんずっと一緒ではなかったけれど、僕は君の親友のつもりだった。でも、そうじゃなかったんだな。僕が君にとって必要じゃなかったんだと思うと、悲しい。その場所に埋まる誰かがいると思うと、悔しくて仕方が無いよ」
「なわけないだろ。俺にとっての親友なんて、お前だけだ。お前ひとりで十分だ」
今はユーリの冗談も、乾いた笑いも、追い打ちにしかならない。
それをわかっているだろうに、嫌われたものだと自嘲すらしたい気持ちになった。
「お前、今言ったろ。二十年以上連れ添ったって。もうお互いに子供じゃないんだ。独り立ちしたっていいんじゃないか」
「散々理由を付けても君は、僕が邪魔になったのか」
「違うって。むしろ逆だろ。お前に、俺は必要ない。騎士団長の横に罪人は邪魔なだけだ」
「僕はそうは思わない」
「お前が思わなくても、そう思うやつらはいるんだよ。示しがつかないだろ、俺みたいなのがいると」
わかっている。頭では理解しているつもりだった。
けれど、納得できない自分がどこかにいる。
離れたくない、なんて子供みたいな我儘。
こんな我儘で、ユーリを縛り付けたらいけない。
そう思うのに、さようならの一言すら出てこない。
「せめて餞別に何かやるよ。欲しいものあるか?」
「君の目」
「は?」
聞き返すユーリの目を見つめ返す。
まさか本気じゃないだろ、とユーリの目が僅かに揺れた。
「僕とは違う世界を見て回った君の目がほしい。そうしたら、僕の正義感は変わるだろうから。君に近付くだろうから」
「頑固なお前が、その程度で価値観変えるとは思えねえな」
「それから君の血。君は血の気が多いから、少しくらいわけてくれたっていいだろう?」
「生憎だが、最近は貧血気味でね」
「君の髪。ねえ、知っているかい? 悪魔と契約するには、体の一部を差し出さなければいけないって。髪なら簡単だろう?」
「お前は悪魔じゃないだろ。悪魔は俺の方だ」
「君の脳髄。脳漿。君の考えが、手に取るようにわかればいいのに」
「おっかねえの。俺の考えなんて、今更わかるだろ」
「ああ、僕は、君がほしいな」
つい、自嘲のつもりで、フレンは口元に笑みを浮かべた。
昔のような、困ったような、呆れたような笑顔。
ただし今呆れているのは、ユーリに対してではなく。
「……なんて。本当に、奪い取ってしまえたら」
「悪いが目はやれねえ。血も髪も脳もだ。近くにいてもやれねえ」
「わかってるよ」
「けど、心だけならお前にやるよ。どこにいても、誰といても、揺らぐことない心をやる」
友情。恋慕。愛。あるいはただの記憶か、はたまた嫌忌か。
何だっていい。その心を占めることができるのなら、どんな感情だってよかった。
「今日は、珍しくロマンチックだな」
「そうか? んじゃ、ロマンチックついでに、今夜くらいは唇もやってもいいさ」
俯いた顔が、やや乱暴に持ち上げられる。
驚いて開きかけた唇に、ユーリの唇が軽く触れる。
その途端に、子供のように泣き出してしまいたい衝動がこみ上げた。
涙は寸でのところで留まり、フレンの瞳に水を湛えるだけで済んだ。
それすら知っているのか、ユーリは嘲笑した。
「泣き虫坊や。いつから、お前はそんなに弱っちくなったんだよ」
そうだった。昔のフレンは、川に流されても平然として、時としてユーリよりも手が早かった。
離れたくないと泣いたことはなかった。
一度だけ、母親が死んだ時だけは、声を上げて泣き叫んだが。
「歳を取ったんだよ」
「言ってろ」
「それに、まだ泣いていない」
「はいはい」
頭を胸に抱かれて、子供のように撫でられる。
いっそ本当に泣いてしまったら、それこそ子供のように泣きじゃくってねだれば、ユーリはここに留まるだろうか。
きっとフレンはそうしないだろうし、フレンがそれをしないことも、ユーリはわかっているだろう。
けれど今まで半身と思って連れ添ってきた存在と離れるのだ。
今日くらいは、せめて今くらいは、騎士団長の肩書を忘れて、子供のように泣いても咎められないだろう。
それを知るのは、一人の罪人だけなのだから。

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